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最終章
二人で歩むなら
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自室の椅子に腰を下ろした翔真は、ある物とにらめっこをしながら一人で悶々としていた。本当に、自分という人間はなぜこうも不器用なのだろうか。これではいろいろと台無しだ。
「あー……なんかもうダメだあ……」
手にしていた物をテーブルの上に置いて、翔真は投げやりな気持ちで頭を掻いた。
いつか旅に出たいこと。そして出来れば、その旅路にラギムも同行して欲しいこと。それらの思いをラギムに伝えたのは、ほんの数日前のことだ。けれどそれから、ラギムとはろくに言葉を交わしていない。顔を合わせても、ラギムの方が気まずそうに目を逸らしてしまうのだ。
(嫌われちゃったかな……)
勝手なことばかり言ったから。ラギムを困らせるような事を言ってしまったから。だから、もう愛想を尽かされてしまったのだろうか。ラギムが辛い思いをしないよう遠くへ連れ出したいだなんて、翔真の勝手なお節介だったのかもしれない。
昼過ぎの部屋は、太陽の光が差し込んで明るいはずなのに、部屋の隅や家具の陰に潜む薄闇がやけに目について、部屋全体が暗く沈んでいるような気がした。
あんな余計な事、言わなければ良かったのだろうか。少しは近づいたと思った距離が、こんなにも離れてしまうと分かっていたら……
分かっていたら、何も言わなかったのか? せっかく気づいた思いに蓋をして、外の世界に憧れながら、残りの一生をこの島の中だけで過ごす事に決めて。自分はそれで満足できていただろうか。
この島が気に入らない訳ではない。けれど、パッセルと話して、外の世界の存在を実感した途端、また怖くなった。広大な世界にポツンと浮かぶ小島の中だけで、この先何十年という時間を過ごすことが。そしてそれは、この島に住んでいる人達もきっと同じだ。
翔真がここへ来た日にメリノから言われた言葉を思い出す。「異なる世界からやって来た人がいるという事自体が、皆にとっての救いになる」のだという言葉を。
この島のみんなも、変わらない時間を繰り返すことに限界を感じていたのだろう。ならば、このまま何もしないでいたら、いずれまたその時がやってくる。
パッセルのような生き残りがいたとして、そのヒトがたまたまこの島へやってくる可能性がどれくらいあるだろう。待っているだけじゃダメだ。自分から行動しなくては。
ラギムやこの島の人達が、翔真をここへ呼んでくれたみたいに。
(だから……)
ほとんど無意識に拳を握った時、部屋の外からパタパタと急くような足音が聞こえてきて、翔真は顔をあげた。そして……
「え……」
「ショウマ……ここに居たか」
部屋に飛び込んで来た思いもよらない人物の姿に、翔真は驚いて息を呑んだ。そしてそれから数秒遅れて、テーブルの上に投げ出していた物を慌てて背中に隠した。しかし、そんな翔真の挙動を気に止める余裕もない様子で、ラギムは大股に歩み寄ってきて、翔真の目の前に立ちはだかった。よく見れば、その額にはわずかに汗が滲んでいる。
(もしかして、オレのこと探してくれてた?)
自惚れだろうか。でも。
戸惑いに思考を支配されて、椅子に座ったまま瞬きを繰り返す事しかできない翔真を見下ろして、ラギムは何かを決意したように口を開いた。
「ショウマ。お前に伝えたい事があって探していたんだ」
真剣な表情で告げられた言葉に、心臓が大きく跳ねる。
伝えたい事、だって。そんなことを言われたら、どうしたって期待してしまう。
「ラギム……」
声が、みっともなく震えてしまう。そんな翔真に気づいてか、ラギムは少し目を見開いて、それから小さく苦笑した。
「すまない、そんな顔をしないでくれ。別に脅かすつもりはないんだ」
そう言ってその場に膝をつくと、ラギムは自然な仕草で右手を伸ばして、翔真が背中に隠していない方の左手をそっと握った。
「え、ちょ……っ」
突然の行動に驚いて、翔真は掴まれた手を反射的に引こうとしたが、ラギムの手は案外力が強くて、軽く引いた程度では離れてくれない。やっぱりこの人も男なんだと今さらながらに実感して、なんだかやけに気恥ずかしくなった。
ラギムの瞳を見ていられなくなって目を逸らす。そんな翔真をまっすぐ見上げて、ラギムはふっと優しい吐息を洩らした。
「お前は分かりやすくて可愛いな」
「な、んだよ、それ……からかうなよ」
「からかってなどいない」
顔を顰める翔真を大切そうに見つめて、ラギムは両の手で包むように翔真の手を取った。
「ショウマ、遅くなってすまない。あの夜の答えを、今ここで伝えても良いか」
触れられた手が熱くて、汗が滲み出して、その事が少し恥ずかしくて。いろいろな気持ちが喉の奥を塞いで、言葉がまるで出てこない。それでも翔真が必死に頷くと、ラギムも目を細めて頷き返してくれた。
「……なかなか答えを返せなくて、本当にすまなかった。私にとって、この国で生涯を過ごす事は、あまりにも当然の事で……お前に問われるまで、それ以外の選択肢がある事にさえ気づかなかったんだ」
ラギムの言葉に、胸がギュッと苦しくなる。
外から来た翔真と違って、ラギムは産まれた時からこの島で王族として暮らしていたのだ。その生き方を今さら変えるのは、翔真が思うほど簡単な事ではないのだろう。
「けれど……そうだな。気づかなかっただけで、本当は以前から、私の中にもあった思いなのだろう。……本当は、ずっと望んでいた。この閉ざされた世界の扉を開いてくれる誰かを。自らそれをする勇気もないまま、私はその誰かを待っているだけだった」
「ラギム……」
初めてこの世界に喚ばれた時、奥さんになる人を異世界から連れてくるなんて、めちゃくちゃだと思った。けれどラギムにとっては、まだ見ぬ誰かに出会うこと、それ自体が唯一の希望の糸だったのかもしれない。
だとしたらオレは、ラギムにとっての希望になれたのだろうか。
「お前がくれた選択のおかげで、私はようやくそんな自分に気づけた。……そして今は、お前が隣にいてくれるのなら、自らその扉を開いてみたいとさえ思える」
握った手に力を込めたのは、どちらが先だっただろう。鼓動が速くなって、ラギムの声以外の全ての音が、遠ざかっていくみたいだ。
「ショウマ、お前がいつか旅に出るというのなら、私も共に行かせてくれ。誰よりもお前のそばに立って、新しい景色を見たいんだ」
そう言って、ラギムは翔真の手を軽く持ち上げると、その指先にそっと口付けた。
信じられない思いでその光景を見つめる翔真を見上げ、ラギムはさらに言葉を重ねる。
「この島を旅立てば、私にはもうなんの肩書きも残らない。それでも、改めてお前に求婚させてくれないか。……これから先の旅路を、私と共に歩んで欲しい。私の、たった一人の伴侶として」
ラギムの言葉のひとつひとつが、心の中に落ちて、波紋を広げていく。
ラギムが王様じゃなくなれば、この国の事情なんて関係なく自由に生きられる。結婚する相手だって、好きに選んでいいんだ。
それなのに。それでも。翔真をその相手に選んでくれるのか。
「…………ずるいって、突然、そんなの」
胸の奥に次々広がっていく波に押し流されて、用意していた言葉は全てどこかへ行ってしまった。ぐちゃぐちゃになる感情に翻弄されながら、翔真はずっと右手に隠し持っていた物をラギムの前に差し出した。
「これは……」
「ラギムが、もしもオレの旅に着いてきてくれる事になったら、その時はオレの方から言おうと思ってたんだ。それで、その時に渡そうと思って準備してたのに、まだ全然完成してなくて、なのにラギムの方から言われるなんて」
照れくさくて上手く纏まらない言葉を並べる翔真が手にしているのは、手ぬぐいくらいの大きさをした絹織物だった。とはいえ、いつかレムルが持っていたのとは比べ物にならない貧相な出来栄えで、糸目も荒いし模様もガタガタだし、とても人様に見せられるような代物ではない。だから、本当はもう少しマシな物が出来てから渡したかったのに。
「……お前は、これを渡す意味を知っているのか」
「知ってるよ。レムルさんに聞いた。……好きな人に、結婚を申し込む時に渡すんだって。それを聞いた時に、機織りの仕方も教えて貰ったし、その後も練習に付き合って貰ったんだけど、オレ不器用過ぎて、全然上手く出来なくて……」
話しているうちにだんだん恥ずかしくなってきて、翔真は布ごと手を引っ込めようとした。しかしその前に、伸びてきたラギムの手にがっしりと掴まれてしまう。
「ちょ、離して」
「いやだ」
「ちゃんとしたの作り直して渡すから! だからこれは……」
「いやだ。私はこれが良い」
子供のように言って、ラギムは翔真の手から布切れを奪い取ると、ボロのようなそれに、大事そうに口付けをした。
「これを用意していたという事は……良い答えを期待しても構わないんだな?」
上目遣いに問われて、頬がカッと熱くなる。
答えなんて……そんなの、ずっと前から決まってる。
「……オレさ、ここに来てからいろんな人に出会って、親切にしてもらって、毎日楽しかったけど……それでも、心のどこかで、ずっと寂しかったんだ。みんな優しいけど、やっぱりオレはお客さんでしかなくて、オレの家族は向こうの世界にしかいなくて……」
鼻の奥がツンと痛くなって、翔真は言葉を飲み込んだ。
姿も異質で、共有できる思い出もなくて、身内と呼べる人もいない。優しくされればされるほど、心の隅に拭えない寂しさが募っていくような気がしていた。
「オレもここに、家族って呼べる人が欲しかったんだ。……それで、その人がラギムだったら良いなって、思って」
恋愛も、結婚も、翔真にとっては縁のないものだった。けれど、ラギムへの思いを自覚してから、少しずつ意識するようになっていた。
大好きな人と、この先の人生を分け合って生きていけたら。そうしたら、この世界でも、帰る場所が出来るかもしれないから。
「だからラギム……オレの家族に、なってくれる?」
震える声で、精一杯の告白をして、翔真は目を閉じた。真っ暗闇の中で伝わってくるのは、かすかな衣擦れの音と、頬に触れた温かな手の感触と、それから、
「…………っ」
柔らかな何かに唇を塞がれて、翔真は咄嗟に目を見開いた。しかしそれでも、何が起きているのか理解するのに時間がかかった。
触れ合った唇から伝わってくる体温が少しずつ広がって、体の奥の深い部分に火を灯されたようだ。
そうして、その火が消えないうちに唇は離れていって、たった数秒前のことなのに、なんだか夢を見ているような心地がした。けれど夢ではない証のぬくもりが、確かにこの唇に残っている。
「……オレ、今のが初めてだったんだけど」
「それは光栄だ」
愉快そうに笑って、ラギムは翔真の肩に腕を回してきた。そのまま優しく抱き締められて、体の奥に灯る火が、ますます大きくなったように感じた。
「ショウマ。これから先、お前が経験する全部の初めてを、私にくれないか」
「……言われなくても、そのつもりだよ」
ラギムの背中を抱き締め返して、翔真はその耳元で囁いた。どんな些細な経験も、するならこの人と一緒が良い。
「……これから、忙しくなるよな。旅の準備とかさ」
「そうだな。だが焦らなくても良いだろう。なにしろ時間はいくらでもあるのだから」
「そっか……そうだよな」
翔真が共に生きる人も、帰るべき場所も、全部がここにある。これから先の未来のことは、二人でゆっくり考えていけば良い。
「なら、今はもうちょっとだけ、こうしてたいな」
頬と頬をくっつけて呟くと、ラギムがくすぐったそうに笑った。
この温かくて優しい腕の中が、今日から翔真の居場所になる。置いてきたものと同じくらい大切な、愛おしい温もりだ。
「そうだ、まだ言ってなかった」
「ん?」
顔を上げたラギムのほっぺたを両手で挟んで、真正面から見据える。そして、
「ラギム、好きだよ」
洒落た告白なんて思いつかないから、心の中にあるものを、飾らずそのまま伝える。翔真の手に挟まれたまま、ラギムは何度か目を瞬いて、それから可笑しそうに破顔した。
「……私もだ、ショウマ」
少し照れくさそうな声に嬉しくなって、翔真の口元からも自然と笑みが零れた。
こんな幸せを少しずつ重ねて、未来へ進んで行こう。
その先がどこへ続いていたって、二人なら怖くないから。
*
遠くの方から聞こえてくるざわめきに起こされて、翔真は目を覚ました。途端、その目に飛び込んできたのは、ようやく青に染まり始めたばかりの、どこまでも透明な空だった。
ベッドに横たわったまま、こうして仰向けになって見上げる空も、もう数え切れないほど見てきた物のはずなのに、今日はなんだか特別に見える。この窓が向いている城の中庭は静かなものだが、遠くから断続的に聞こえてくる陽気な破裂音は、きっと海辺で打ち上げられている花火の音だろう。まだ太陽は昇ったばかりだというのに、ずいぶんと気の早いことだ。やっぱりみんなも浮かれているに違いない。
「う、ん……」
隣でもぞもぞと身動ぎする気配に気づいて、翔真はそちらに顔を向けた。翔真が目覚めたのにつられてか、横で眠っていた彼も目を覚ましたらしい。
「おはよ、ラギム」
ラギムの頭をそっと引き寄せて、その額に口付けると、眉間にきゅっとシワが寄った。ラギムの寝起きが悪いことはよく分かっているので、気にせずその体を抱き寄せて、ほっぺたを優しく撫でる。
「もう朝だよ」
「ん……まだ、早朝じゃないか……出発は昼過ぎだと言っていただろう……」
薄目を開けて、翔真の肩越しに窓の外を見上げたラギムは、いかにも眠そうな声でそう言って、またもぞもぞと顔を引っ込めてしまう。
「あ、こら。出発のギリギリまで寝てたら間に合わないだろ」
このまま放っておいたら延々と二度寝されてしまいそうなので、翔真はラギムが潜っていった薄い布の端っこを掴んで、そのまま勢いよくひっぺがした。するとその瞬間、布の下に隠れていた真っ白な体が顕になる。お互いの裸なんてもう散々見てきたはずなのに、こうして明るい空の下で見ると、やっぱりちょっと照れくさい。
「ほら、起きろー」
なんとなく気恥ずかしい気持ちを誤魔化すため、少し強めにラギムの肩を揺さぶると、面倒そうに顔を顰めながら、ラギムはようやく体を起こした。
「……お前もろくに寝ていないはずなのに、なぜそんなに元気なんだ」
「ラギムより若いからじゃない?」
「なんだと……」
ムッとした調子で言って、ラギムが軽く体当たりしてきたので、翔真はぶつかってきた体をそのまま抱き止めた。年中暖かな気候のせいで、ついこうして裸でダラダラしていたくなってしまう。
「……とはいえ、ここに来た頃と比べたら、オレもちょっとは年取ったよなあ」
昔より少し短くなったラギムの髪を撫でて、翔真は遠い空の先を見上げた。
翔真がこの国に来た日から、今日でもう五年ほどが経つ。時計やカレンダーが無いので正確な年月は分からないが、星の動きから計算するとそれくらいになると、先日レクトが教えてくれた。
思い返してみれば、この五年で随分いろんな事が変わった。翔真自身、あの頃よりもまだ背が伸びたし、ラギムとは反対に髪も少し長くなった。そしてなにより……
「ラギム」
翔真の胸に頭を預けて、またうとうとし始めたラギムの肩を軽く叩いて、翔真は彼の名前を呼んだ。
「ん……?」
億劫そうに目を開けたラギムの頭に手を添えて、そっと顔を上げさせる。そうして翔真は、薄く開いたラギムの唇に、躊躇うことなく自らの唇を重ね合わせた。
「ん」
一瞬驚いたように体を強ばらせたラギムは、しかしすぐに脱力して、翔真の腕に手を這わせてきた。こんな行為も二人にとっては当たり前のものになった事が、一番の大きな変化と言えるかもしれない。
「っ、ふ……」
綺麗に並んだ形の良い歯や、その中に収まった柔らかい舌を丁寧に味わううちに、少しずつ、お互いの鼓動が速くなっていくのを感じる。そうしてラギムはしばらくされるがままになっていたが、不意に翔真の腕に触れていた手を首筋に、そして頬にまで滑らせてきた。
「ん……っ?!」
頬をやわやわと撫でていた指の先が、不意に翔真の耳たぶをくすぐった。柔らかい指の腹で耳の形を確かめるようになぞられて、触られた部分がじわじわと熱くなる。
「ん、う」
ラギムの指の動きに合わせて背中を震わせる翔真をからかうように、ラギムは手のひら全体で覆うようにして翔真の耳を塞いだ。口付けの度に響く、いかがわしい水音が頭の中で反響して、背筋がぞくぞくと痺れる。
「……っ、あんまエロいことすんなよ……起きたくなくなるだろ」
「お前が言うんじゃない」
堪らず唇を離した翔真の耳たぶをむにっと摘むと、ラギムはそのまま翔真の腕の中を離れて、ベッドの端に脱ぎ散らかしていた服を拾いに行った。その耳が少し赤くなっているのに気づいて、なんだかくすぐったい気持ちになる。
翔真自身も、近くに紛れていた衣服を拾って身につけながら、既に着替え終えたラギムの元へ近づいて、もう一度彼を背中から抱き締めた。
「ラギム」
「……今度は何だ」
「今日、晴れて良かったなって」
金色の髪に鼻先を埋めて伝えると、ラギムは窓の方に顔を向けて、小さく頷いた。
「そうだな、本当に。旅立ちには最高の日だ」
「……うん」
期待と、高揚と、少しの寂しさと。いろんな感情を持って、翔真達は今日、ファレクシアを旅立つ。この日のために、長い時間をかけて準備を進めてきたのだ。
「突然の嵐、とかにならなくてホント良かった。せっかく、レクトさんとパッセルが、昨日遅くまで船の整備してくれてたんだから」
「ああ……あの二人がどちらも着いてくると言い出しただけで驚いたものだが、まさかそうやって協力する姿勢が見られるとはな」
「本人達は渋々やってる感じだったけど。オレはあの二人、案外良いコンビだと思うな」
相変わらず事ある毎に口喧嘩をしているようだが、パッセルがファレクシアへ来たばかりの頃を思い出せば、喧嘩が出来るようになっただけでもかなりの進歩と言えるだろう。あの二人の関係も、この数年で起きた大きな変化のひとつだ。
そんなレクトやパッセルのように、共に旅立つことを決断してくれた人達も、ここで帰りを待っていてくれる人達も、みんながそれぞれの決意を持って、自分の生きる道を選んだ。翔真達は、彼らみんなの思いを受け取って旅に出るのだ。
「ショウマ」
「ん、どうかした?」
聞き慣れた、艶っぽくも穏やかな声に名前を呼ばれて、翔真は腕の中に視線を落とした。仰向けにこちらを見上げているラギムの瞳は、窓の外で輝く太陽のような色をしている。
「ショウマ。お前と一緒なら、きっと私は、どこまででも進んで行けるんだろうな」
そう言って、ラギムは翔真の胸に体を預け、自分を抱く翔真の腕を、ぎゅっと抱きしめ返した。触れ合った部分から、じんわりと暖かさが滲み出してきて、なぜか不意に泣きたくなる。
「……そうだな。二人一緒なら、どこまででも行けるよ」
この世界は、決して終わったわけじゃない。閉ざされているわけでもない。
この小さな国から見上げた空も、遥か果ての世界に続いているのだから。ここから一歩踏み出せば、どこまでも広い世界へと行けるだろう。
その旅路に、愛しい人が共にいてくれるのだから、こんなに贅沢で幸せな事はない。
「……ラギム。オレと生きてくれて、本当にありがとう」
「なんだそれは。終わったような言い方をするんじゃない。……何もかも、まだこれからだろう」
不満そうなラギムに髪を引っ張られて、そんな子供っぽい仕草につい笑ってしまう。そうだ。この世界で翔真が生きる時間は、まだまだ終わらない。
「そうだよな。じゃあ……これからもよろしく?」
笑いながら頬を撫でると、ラギムも嬉しそうに笑って、もぞもぞとこちらに体を向けてきた。そうしてもう一度、どちらからともなくキスを交わす。
一度は終わった命の続きを、翔真はこの世界で貰った。そうして今度は、ここで出会った大切な人達と共に、この世界の続きを探しに行く。終わりはないかもしれない。だけど、それで良い。
この命が続く限り、遥か彼方まで歩いて行こう。
愛する人と、いつまでも一緒に。
「あー……なんかもうダメだあ……」
手にしていた物をテーブルの上に置いて、翔真は投げやりな気持ちで頭を掻いた。
いつか旅に出たいこと。そして出来れば、その旅路にラギムも同行して欲しいこと。それらの思いをラギムに伝えたのは、ほんの数日前のことだ。けれどそれから、ラギムとはろくに言葉を交わしていない。顔を合わせても、ラギムの方が気まずそうに目を逸らしてしまうのだ。
(嫌われちゃったかな……)
勝手なことばかり言ったから。ラギムを困らせるような事を言ってしまったから。だから、もう愛想を尽かされてしまったのだろうか。ラギムが辛い思いをしないよう遠くへ連れ出したいだなんて、翔真の勝手なお節介だったのかもしれない。
昼過ぎの部屋は、太陽の光が差し込んで明るいはずなのに、部屋の隅や家具の陰に潜む薄闇がやけに目について、部屋全体が暗く沈んでいるような気がした。
あんな余計な事、言わなければ良かったのだろうか。少しは近づいたと思った距離が、こんなにも離れてしまうと分かっていたら……
分かっていたら、何も言わなかったのか? せっかく気づいた思いに蓋をして、外の世界に憧れながら、残りの一生をこの島の中だけで過ごす事に決めて。自分はそれで満足できていただろうか。
この島が気に入らない訳ではない。けれど、パッセルと話して、外の世界の存在を実感した途端、また怖くなった。広大な世界にポツンと浮かぶ小島の中だけで、この先何十年という時間を過ごすことが。そしてそれは、この島に住んでいる人達もきっと同じだ。
翔真がここへ来た日にメリノから言われた言葉を思い出す。「異なる世界からやって来た人がいるという事自体が、皆にとっての救いになる」のだという言葉を。
この島のみんなも、変わらない時間を繰り返すことに限界を感じていたのだろう。ならば、このまま何もしないでいたら、いずれまたその時がやってくる。
パッセルのような生き残りがいたとして、そのヒトがたまたまこの島へやってくる可能性がどれくらいあるだろう。待っているだけじゃダメだ。自分から行動しなくては。
ラギムやこの島の人達が、翔真をここへ呼んでくれたみたいに。
(だから……)
ほとんど無意識に拳を握った時、部屋の外からパタパタと急くような足音が聞こえてきて、翔真は顔をあげた。そして……
「え……」
「ショウマ……ここに居たか」
部屋に飛び込んで来た思いもよらない人物の姿に、翔真は驚いて息を呑んだ。そしてそれから数秒遅れて、テーブルの上に投げ出していた物を慌てて背中に隠した。しかし、そんな翔真の挙動を気に止める余裕もない様子で、ラギムは大股に歩み寄ってきて、翔真の目の前に立ちはだかった。よく見れば、その額にはわずかに汗が滲んでいる。
(もしかして、オレのこと探してくれてた?)
自惚れだろうか。でも。
戸惑いに思考を支配されて、椅子に座ったまま瞬きを繰り返す事しかできない翔真を見下ろして、ラギムは何かを決意したように口を開いた。
「ショウマ。お前に伝えたい事があって探していたんだ」
真剣な表情で告げられた言葉に、心臓が大きく跳ねる。
伝えたい事、だって。そんなことを言われたら、どうしたって期待してしまう。
「ラギム……」
声が、みっともなく震えてしまう。そんな翔真に気づいてか、ラギムは少し目を見開いて、それから小さく苦笑した。
「すまない、そんな顔をしないでくれ。別に脅かすつもりはないんだ」
そう言ってその場に膝をつくと、ラギムは自然な仕草で右手を伸ばして、翔真が背中に隠していない方の左手をそっと握った。
「え、ちょ……っ」
突然の行動に驚いて、翔真は掴まれた手を反射的に引こうとしたが、ラギムの手は案外力が強くて、軽く引いた程度では離れてくれない。やっぱりこの人も男なんだと今さらながらに実感して、なんだかやけに気恥ずかしくなった。
ラギムの瞳を見ていられなくなって目を逸らす。そんな翔真をまっすぐ見上げて、ラギムはふっと優しい吐息を洩らした。
「お前は分かりやすくて可愛いな」
「な、んだよ、それ……からかうなよ」
「からかってなどいない」
顔を顰める翔真を大切そうに見つめて、ラギムは両の手で包むように翔真の手を取った。
「ショウマ、遅くなってすまない。あの夜の答えを、今ここで伝えても良いか」
触れられた手が熱くて、汗が滲み出して、その事が少し恥ずかしくて。いろいろな気持ちが喉の奥を塞いで、言葉がまるで出てこない。それでも翔真が必死に頷くと、ラギムも目を細めて頷き返してくれた。
「……なかなか答えを返せなくて、本当にすまなかった。私にとって、この国で生涯を過ごす事は、あまりにも当然の事で……お前に問われるまで、それ以外の選択肢がある事にさえ気づかなかったんだ」
ラギムの言葉に、胸がギュッと苦しくなる。
外から来た翔真と違って、ラギムは産まれた時からこの島で王族として暮らしていたのだ。その生き方を今さら変えるのは、翔真が思うほど簡単な事ではないのだろう。
「けれど……そうだな。気づかなかっただけで、本当は以前から、私の中にもあった思いなのだろう。……本当は、ずっと望んでいた。この閉ざされた世界の扉を開いてくれる誰かを。自らそれをする勇気もないまま、私はその誰かを待っているだけだった」
「ラギム……」
初めてこの世界に喚ばれた時、奥さんになる人を異世界から連れてくるなんて、めちゃくちゃだと思った。けれどラギムにとっては、まだ見ぬ誰かに出会うこと、それ自体が唯一の希望の糸だったのかもしれない。
だとしたらオレは、ラギムにとっての希望になれたのだろうか。
「お前がくれた選択のおかげで、私はようやくそんな自分に気づけた。……そして今は、お前が隣にいてくれるのなら、自らその扉を開いてみたいとさえ思える」
握った手に力を込めたのは、どちらが先だっただろう。鼓動が速くなって、ラギムの声以外の全ての音が、遠ざかっていくみたいだ。
「ショウマ、お前がいつか旅に出るというのなら、私も共に行かせてくれ。誰よりもお前のそばに立って、新しい景色を見たいんだ」
そう言って、ラギムは翔真の手を軽く持ち上げると、その指先にそっと口付けた。
信じられない思いでその光景を見つめる翔真を見上げ、ラギムはさらに言葉を重ねる。
「この島を旅立てば、私にはもうなんの肩書きも残らない。それでも、改めてお前に求婚させてくれないか。……これから先の旅路を、私と共に歩んで欲しい。私の、たった一人の伴侶として」
ラギムの言葉のひとつひとつが、心の中に落ちて、波紋を広げていく。
ラギムが王様じゃなくなれば、この国の事情なんて関係なく自由に生きられる。結婚する相手だって、好きに選んでいいんだ。
それなのに。それでも。翔真をその相手に選んでくれるのか。
「…………ずるいって、突然、そんなの」
胸の奥に次々広がっていく波に押し流されて、用意していた言葉は全てどこかへ行ってしまった。ぐちゃぐちゃになる感情に翻弄されながら、翔真はずっと右手に隠し持っていた物をラギムの前に差し出した。
「これは……」
「ラギムが、もしもオレの旅に着いてきてくれる事になったら、その時はオレの方から言おうと思ってたんだ。それで、その時に渡そうと思って準備してたのに、まだ全然完成してなくて、なのにラギムの方から言われるなんて」
照れくさくて上手く纏まらない言葉を並べる翔真が手にしているのは、手ぬぐいくらいの大きさをした絹織物だった。とはいえ、いつかレムルが持っていたのとは比べ物にならない貧相な出来栄えで、糸目も荒いし模様もガタガタだし、とても人様に見せられるような代物ではない。だから、本当はもう少しマシな物が出来てから渡したかったのに。
「……お前は、これを渡す意味を知っているのか」
「知ってるよ。レムルさんに聞いた。……好きな人に、結婚を申し込む時に渡すんだって。それを聞いた時に、機織りの仕方も教えて貰ったし、その後も練習に付き合って貰ったんだけど、オレ不器用過ぎて、全然上手く出来なくて……」
話しているうちにだんだん恥ずかしくなってきて、翔真は布ごと手を引っ込めようとした。しかしその前に、伸びてきたラギムの手にがっしりと掴まれてしまう。
「ちょ、離して」
「いやだ」
「ちゃんとしたの作り直して渡すから! だからこれは……」
「いやだ。私はこれが良い」
子供のように言って、ラギムは翔真の手から布切れを奪い取ると、ボロのようなそれに、大事そうに口付けをした。
「これを用意していたという事は……良い答えを期待しても構わないんだな?」
上目遣いに問われて、頬がカッと熱くなる。
答えなんて……そんなの、ずっと前から決まってる。
「……オレさ、ここに来てからいろんな人に出会って、親切にしてもらって、毎日楽しかったけど……それでも、心のどこかで、ずっと寂しかったんだ。みんな優しいけど、やっぱりオレはお客さんでしかなくて、オレの家族は向こうの世界にしかいなくて……」
鼻の奥がツンと痛くなって、翔真は言葉を飲み込んだ。
姿も異質で、共有できる思い出もなくて、身内と呼べる人もいない。優しくされればされるほど、心の隅に拭えない寂しさが募っていくような気がしていた。
「オレもここに、家族って呼べる人が欲しかったんだ。……それで、その人がラギムだったら良いなって、思って」
恋愛も、結婚も、翔真にとっては縁のないものだった。けれど、ラギムへの思いを自覚してから、少しずつ意識するようになっていた。
大好きな人と、この先の人生を分け合って生きていけたら。そうしたら、この世界でも、帰る場所が出来るかもしれないから。
「だからラギム……オレの家族に、なってくれる?」
震える声で、精一杯の告白をして、翔真は目を閉じた。真っ暗闇の中で伝わってくるのは、かすかな衣擦れの音と、頬に触れた温かな手の感触と、それから、
「…………っ」
柔らかな何かに唇を塞がれて、翔真は咄嗟に目を見開いた。しかしそれでも、何が起きているのか理解するのに時間がかかった。
触れ合った唇から伝わってくる体温が少しずつ広がって、体の奥の深い部分に火を灯されたようだ。
そうして、その火が消えないうちに唇は離れていって、たった数秒前のことなのに、なんだか夢を見ているような心地がした。けれど夢ではない証のぬくもりが、確かにこの唇に残っている。
「……オレ、今のが初めてだったんだけど」
「それは光栄だ」
愉快そうに笑って、ラギムは翔真の肩に腕を回してきた。そのまま優しく抱き締められて、体の奥に灯る火が、ますます大きくなったように感じた。
「ショウマ。これから先、お前が経験する全部の初めてを、私にくれないか」
「……言われなくても、そのつもりだよ」
ラギムの背中を抱き締め返して、翔真はその耳元で囁いた。どんな些細な経験も、するならこの人と一緒が良い。
「……これから、忙しくなるよな。旅の準備とかさ」
「そうだな。だが焦らなくても良いだろう。なにしろ時間はいくらでもあるのだから」
「そっか……そうだよな」
翔真が共に生きる人も、帰るべき場所も、全部がここにある。これから先の未来のことは、二人でゆっくり考えていけば良い。
「なら、今はもうちょっとだけ、こうしてたいな」
頬と頬をくっつけて呟くと、ラギムがくすぐったそうに笑った。
この温かくて優しい腕の中が、今日から翔真の居場所になる。置いてきたものと同じくらい大切な、愛おしい温もりだ。
「そうだ、まだ言ってなかった」
「ん?」
顔を上げたラギムのほっぺたを両手で挟んで、真正面から見据える。そして、
「ラギム、好きだよ」
洒落た告白なんて思いつかないから、心の中にあるものを、飾らずそのまま伝える。翔真の手に挟まれたまま、ラギムは何度か目を瞬いて、それから可笑しそうに破顔した。
「……私もだ、ショウマ」
少し照れくさそうな声に嬉しくなって、翔真の口元からも自然と笑みが零れた。
こんな幸せを少しずつ重ねて、未来へ進んで行こう。
その先がどこへ続いていたって、二人なら怖くないから。
*
遠くの方から聞こえてくるざわめきに起こされて、翔真は目を覚ました。途端、その目に飛び込んできたのは、ようやく青に染まり始めたばかりの、どこまでも透明な空だった。
ベッドに横たわったまま、こうして仰向けになって見上げる空も、もう数え切れないほど見てきた物のはずなのに、今日はなんだか特別に見える。この窓が向いている城の中庭は静かなものだが、遠くから断続的に聞こえてくる陽気な破裂音は、きっと海辺で打ち上げられている花火の音だろう。まだ太陽は昇ったばかりだというのに、ずいぶんと気の早いことだ。やっぱりみんなも浮かれているに違いない。
「う、ん……」
隣でもぞもぞと身動ぎする気配に気づいて、翔真はそちらに顔を向けた。翔真が目覚めたのにつられてか、横で眠っていた彼も目を覚ましたらしい。
「おはよ、ラギム」
ラギムの頭をそっと引き寄せて、その額に口付けると、眉間にきゅっとシワが寄った。ラギムの寝起きが悪いことはよく分かっているので、気にせずその体を抱き寄せて、ほっぺたを優しく撫でる。
「もう朝だよ」
「ん……まだ、早朝じゃないか……出発は昼過ぎだと言っていただろう……」
薄目を開けて、翔真の肩越しに窓の外を見上げたラギムは、いかにも眠そうな声でそう言って、またもぞもぞと顔を引っ込めてしまう。
「あ、こら。出発のギリギリまで寝てたら間に合わないだろ」
このまま放っておいたら延々と二度寝されてしまいそうなので、翔真はラギムが潜っていった薄い布の端っこを掴んで、そのまま勢いよくひっぺがした。するとその瞬間、布の下に隠れていた真っ白な体が顕になる。お互いの裸なんてもう散々見てきたはずなのに、こうして明るい空の下で見ると、やっぱりちょっと照れくさい。
「ほら、起きろー」
なんとなく気恥ずかしい気持ちを誤魔化すため、少し強めにラギムの肩を揺さぶると、面倒そうに顔を顰めながら、ラギムはようやく体を起こした。
「……お前もろくに寝ていないはずなのに、なぜそんなに元気なんだ」
「ラギムより若いからじゃない?」
「なんだと……」
ムッとした調子で言って、ラギムが軽く体当たりしてきたので、翔真はぶつかってきた体をそのまま抱き止めた。年中暖かな気候のせいで、ついこうして裸でダラダラしていたくなってしまう。
「……とはいえ、ここに来た頃と比べたら、オレもちょっとは年取ったよなあ」
昔より少し短くなったラギムの髪を撫でて、翔真は遠い空の先を見上げた。
翔真がこの国に来た日から、今日でもう五年ほどが経つ。時計やカレンダーが無いので正確な年月は分からないが、星の動きから計算するとそれくらいになると、先日レクトが教えてくれた。
思い返してみれば、この五年で随分いろんな事が変わった。翔真自身、あの頃よりもまだ背が伸びたし、ラギムとは反対に髪も少し長くなった。そしてなにより……
「ラギム」
翔真の胸に頭を預けて、またうとうとし始めたラギムの肩を軽く叩いて、翔真は彼の名前を呼んだ。
「ん……?」
億劫そうに目を開けたラギムの頭に手を添えて、そっと顔を上げさせる。そうして翔真は、薄く開いたラギムの唇に、躊躇うことなく自らの唇を重ね合わせた。
「ん」
一瞬驚いたように体を強ばらせたラギムは、しかしすぐに脱力して、翔真の腕に手を這わせてきた。こんな行為も二人にとっては当たり前のものになった事が、一番の大きな変化と言えるかもしれない。
「っ、ふ……」
綺麗に並んだ形の良い歯や、その中に収まった柔らかい舌を丁寧に味わううちに、少しずつ、お互いの鼓動が速くなっていくのを感じる。そうしてラギムはしばらくされるがままになっていたが、不意に翔真の腕に触れていた手を首筋に、そして頬にまで滑らせてきた。
「ん……っ?!」
頬をやわやわと撫でていた指の先が、不意に翔真の耳たぶをくすぐった。柔らかい指の腹で耳の形を確かめるようになぞられて、触られた部分がじわじわと熱くなる。
「ん、う」
ラギムの指の動きに合わせて背中を震わせる翔真をからかうように、ラギムは手のひら全体で覆うようにして翔真の耳を塞いだ。口付けの度に響く、いかがわしい水音が頭の中で反響して、背筋がぞくぞくと痺れる。
「……っ、あんまエロいことすんなよ……起きたくなくなるだろ」
「お前が言うんじゃない」
堪らず唇を離した翔真の耳たぶをむにっと摘むと、ラギムはそのまま翔真の腕の中を離れて、ベッドの端に脱ぎ散らかしていた服を拾いに行った。その耳が少し赤くなっているのに気づいて、なんだかくすぐったい気持ちになる。
翔真自身も、近くに紛れていた衣服を拾って身につけながら、既に着替え終えたラギムの元へ近づいて、もう一度彼を背中から抱き締めた。
「ラギム」
「……今度は何だ」
「今日、晴れて良かったなって」
金色の髪に鼻先を埋めて伝えると、ラギムは窓の方に顔を向けて、小さく頷いた。
「そうだな、本当に。旅立ちには最高の日だ」
「……うん」
期待と、高揚と、少しの寂しさと。いろんな感情を持って、翔真達は今日、ファレクシアを旅立つ。この日のために、長い時間をかけて準備を進めてきたのだ。
「突然の嵐、とかにならなくてホント良かった。せっかく、レクトさんとパッセルが、昨日遅くまで船の整備してくれてたんだから」
「ああ……あの二人がどちらも着いてくると言い出しただけで驚いたものだが、まさかそうやって協力する姿勢が見られるとはな」
「本人達は渋々やってる感じだったけど。オレはあの二人、案外良いコンビだと思うな」
相変わらず事ある毎に口喧嘩をしているようだが、パッセルがファレクシアへ来たばかりの頃を思い出せば、喧嘩が出来るようになっただけでもかなりの進歩と言えるだろう。あの二人の関係も、この数年で起きた大きな変化のひとつだ。
そんなレクトやパッセルのように、共に旅立つことを決断してくれた人達も、ここで帰りを待っていてくれる人達も、みんながそれぞれの決意を持って、自分の生きる道を選んだ。翔真達は、彼らみんなの思いを受け取って旅に出るのだ。
「ショウマ」
「ん、どうかした?」
聞き慣れた、艶っぽくも穏やかな声に名前を呼ばれて、翔真は腕の中に視線を落とした。仰向けにこちらを見上げているラギムの瞳は、窓の外で輝く太陽のような色をしている。
「ショウマ。お前と一緒なら、きっと私は、どこまででも進んで行けるんだろうな」
そう言って、ラギムは翔真の胸に体を預け、自分を抱く翔真の腕を、ぎゅっと抱きしめ返した。触れ合った部分から、じんわりと暖かさが滲み出してきて、なぜか不意に泣きたくなる。
「……そうだな。二人一緒なら、どこまででも行けるよ」
この世界は、決して終わったわけじゃない。閉ざされているわけでもない。
この小さな国から見上げた空も、遥か果ての世界に続いているのだから。ここから一歩踏み出せば、どこまでも広い世界へと行けるだろう。
その旅路に、愛しい人が共にいてくれるのだから、こんなに贅沢で幸せな事はない。
「……ラギム。オレと生きてくれて、本当にありがとう」
「なんだそれは。終わったような言い方をするんじゃない。……何もかも、まだこれからだろう」
不満そうなラギムに髪を引っ張られて、そんな子供っぽい仕草につい笑ってしまう。そうだ。この世界で翔真が生きる時間は、まだまだ終わらない。
「そうだよな。じゃあ……これからもよろしく?」
笑いながら頬を撫でると、ラギムも嬉しそうに笑って、もぞもぞとこちらに体を向けてきた。そうしてもう一度、どちらからともなくキスを交わす。
一度は終わった命の続きを、翔真はこの世界で貰った。そうして今度は、ここで出会った大切な人達と共に、この世界の続きを探しに行く。終わりはないかもしれない。だけど、それで良い。
この命が続く限り、遥か彼方まで歩いて行こう。
愛する人と、いつまでも一緒に。
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