孤島の花嫁~転生先は滅亡寸前の小国でした~

村井 彰

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その手を取って

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  自分が、こんなにも誰か一人に執着できる質の人間だということを、ショウマに出会ってから初めて知った。
  こちらの勝手で喚び出すのだから、異世界からやって来たのがどんな人物であっても大切にしようと心に決めてはいた。とはいえ、まさか自分よりも体の大きな男がやって来るとは思っていなかったのだが、いつからだろう、そんな事もどうでも良くなるくらい、彼に惹かれている事を自覚したのは。
  些細な事にも興味を持って、驚いたり、感心したり、笑ったり。初めのうちは、そんな素直な性格を好ましく思った。
  それから、努力をいとわない真面目さや、どんな相手とも正面から向き合おうとする誠実さ、他人の痛みを自分のもののように感じられる優しさ。共に暮らすうちに知った彼の魅力は、数え上げればキリがない。
  愛おしい。ショウマの事を思う度に、そんな感情が溢れ出してくる。初めの思惑なんて関係なく、今はただ、彼を手に入れたいと思う。
  ……そうだ、いっそ本当に手に入れてしまえば良かった。されるがまま、無防備にこちらを見上げていたショウマの姿を思い出して、そんな事を考える。
  あのまま、唇も、体も、その全てを衝動のまま奪って、「どこにも行くな」と伝えていたら、こんな事にはならなかったのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
  そう声に出して呟いてしまうと、それはいよいよ空虚な響きを伴って、己の身に跳ね返ってきた。
  我ながら、くだらない事を考えるものだ。そんなことをしてみたところで、どのみち彼の心までは手に入れられなかっただろうに。それでは何の意味も無い。
  あれから数日が経つ間にも、ショウマはこの島を出る計画を着実に進めている。旅に出たいと言ったのは、冗談でも気まぐれでもなかったということだ。
  城内でも、ショウマの発言に肯定的な者は意外に多かった。慎重派のレクトなどは反対するだろうと思っていたが、あれからショウマと二人で地図を広げて話し込んでいるところを何度か見かけて、あいつが幼い頃は冒険家になりたがっていた事を思い出した。元々、レクトはこんな小さな島の中だけで満足出来るような男ではない。こんな状況の世界だからこそ、余計にあいつの興味を掻き立てる所もあるのだろう。
  それになにより、ショウマには自然と人を惹きつける性質がある。彼が声を上げれば、その後に続こうとする者は、きっとまだまだ増えるだろう。そういうところは、あの人に──兄に、そっくりだ。
  太陽のようにキラキラと輝いて、そこに居るだけで皆に愛されて、そして、気づいた時には、手の届かない場所へと飛び立ってしまっている。
  私はいつだって、それを黙って見ているだけだ。

  潮風が強く吹き抜けて、ラギムの長い髪を掻き乱した。この岬にはいつでも風が吹いている。
  ここにあるものは、空と、海と、真っ白な墓標だけ。そこに刻まれた兄の名を見つめれば、その声も、姿も、今でも鮮明に思い出せる。もしかしたら、明日にでもひょっこりと帰って来るのではないかと、そんな事を考えてしまうくらい、はっきりと。
  いつかショウマ達が旅に出た後も、自分はここでこうして、海の彼方にいる懐かしい人達を思い出して、感傷に浸るだけの日々を送るのだろうか。明日には帰って来るだろうか、明後日はどうだろうかと、指折り数えながら? そんな虚ろな時間を、死ぬまで繰り返すのか。
『ラギムも一緒に来て欲しいんだ』
  ショウマに言われた言葉が、頭の奥で響く。
  この地を離れて旅に出るなんて、そんな事は今まで想像すらした事がなかった。世界が崩壊する前から、ラギムにとっては、この小さな島国こそが世界の全てだったからだ。国交のために行き来する事はあっても、この国以外の場所でずっと生きるなんて事は、考える必要すら無い事だった。
  それなのに、今目の前に突きつけられた選択肢に、酷く混乱している自分がいる。
  迷うという事は、もうひとつの選択肢に惹かれているという事だ。ショウマの手を取って、この国を出るという選択に。
  けれど、そんな事が許されるとは思えない。島の復興とてまだ十分とは言えないし、ヨナムやミランもまだ幼いのだ。元々の王位継承者は兄の息子であるヨナムだが、ようやく読み書きが出来るようになったばかりの子に、何もかも押し付けて行く訳にはいかない。
  やはり、この国を離れることなんて──
「陛下」
  その時不意に、穏やかな女性の声を背中越しに聞いて、ラギムは顔を上げて振り返った。
「姉上」
  視線を向けた先に立っていたのは、兄の妻であるリズラだった。彼女はいつもと同じように、おっとりとした笑顔を浮かべてラギムの隣に立った。雨が降る日も、風が強い日も、リズラは毎日欠かさずこの岬に通っている。ここに墓標を建てた日から、ずっとだ。
「ここでお会いするのは少し久しぶりですね、陛下」
「そうですね。……気づけば足が遠のいてしまって、ここへ来るのも数日ぶりです」
「良いではありませんか。それだけ毎日が充実しているということです。……きっと、ショウマ様がいらしたからですね」
  当たり前のような調子で言われ、ラギムは少し気まずい思いで足元に視線を落とした。
  そうだ。確かに、ショウマに出会ってから毎日が忙しくて、過去を顧みる余裕もなくなっていた。それまでは事ある毎に思い返していたくせに、我ながら現金なものだ。
  しかし、そうして俯くラギムの隣で、リズラは静かに微笑むばかりだ。
「ショウマ様は不思議な方ですね。あの方がいらしてから、長らく止まっていた時間が動き出したかのような心地がします。あの災害の日以降、こんなにも毎日を新鮮に感じられる日がまたやってくるなんて、想像もしていませんでした」
  ──止まっていた時間、か。
  リズラの言葉を心の中で反芻して、ラギムは物言わぬ墓標を見つめる。
  外の大陸と違って、この島では季節が移ろう事はない。以前はそれをどうとも思いはしなかったが、人や物の行き来が耐えて久しい今、まるで形を変えない日常を、檻のようだと感じた事もある。
  この島は、美しい牢獄だった。人々と時間を閉じ込めて、ゆっくりと朽ちていくだけの閉じた世界。
「……けれど、もう少しすれば、また寂しくなってしまいますね。陛下も、ショウマ様と共に行かれるのでしょう?」
  ふと当然のように投げかけられた問いに、ラギムは驚いてリズラの横顔を振り返った。
「私は行きません。この国を離れる事など出来ませんから」
「あら、どうしてですか?」
「どうしてって……」
  眉を寄せるラギムを、リズラは優しい表情で見上げている。それは子供達に向けるのと同じ、温かな母の表情だった。
「陛下は責任感の強いお方ですから、そのように思われるのでしょうけれど、わたくしはもっと自由でも良いと思いますよ。あの方だってそうだったじゃありませんか。いつだって自由で、ご自分の思うままに生きて、最後はあなたに何もかも押し付けて行ってしまわれた。わたくしはあの方のそういう所もお慕いしていましたけれど、最後のことだけは、まだ怒っているんですよ? ラギム様がおひとりで背負い込んでしまう方だと、誰より理解しておられたはずなのに、勝手が過ぎるじゃありませんか」
  そう言ったリズラは、ここへ来て初めて笑顔以外の表情を見せた。眠たげな垂れ目をきゅっと寄せたこの顔で、しょっちゅう兄を叱っていた事を思い出す。この人は、兄が唯一逆らえない人だった。
「姉上……私は、役目を押し付けられただなんて、そんなふうには思っていません」
「ラギム様がそうおっしゃってしまう方だからこそ、わたくしは怒っているのです。あの方は何があっても、『ラギムに任せておけばいい。あいつは俺より優秀だから』とばかりおっしゃって。そのせいで、いつもラギム様の方が大変な思いをされていたでしょう?」
「そんな、事は……」
  あるのだろうか。兄がそういった台詞を言うのは悪気があっての事ではないと分かっていたし、頼られているようで嫌な気もしなかった。けれど、その事でずっとリズラに心配をかけていたなんて。
  言葉を失うラギムに向き直って、リズラは自らの腰に手を当てた。彼女はラギムより年上だが、そういう仕草をすると、いつまでも少女のように見える。
「ともかく、あの方だってそうやってラギム様に頼ってばかりだったのですから、ラギム様だって、大変だと思うことは周りの誰かに押し付けてしまえば良いのです。……たとえば、このわたくしにでも」
  そう言って、リズラは悪戯っ子のように笑った。
「姉上……しかし、それは」
「ラギム様はお忘れですか? たとえ血が繋がっていなくとも、わたくしはあなたの姉なのですよ。姉弟が助け合うのは、当たり前のことではありませんか。……それとも、あなたのお兄様がいなくなってしまった今、わたくしはもう、あなたにとって他人と同じですか?」
「そんなことはありません!」
  考えるよりも先に、ラギムは声を上げていた。
  兄がリズラを妻として選んだ日から、彼女はラギムにとっても家族の一員になった。その関係が今さら変わる事はありえない。たとえ彼女がこの先、兄以外の人を選ぶ事があったとしてもだ。
「私にとって、貴女はずっと、ただ一人の姉上です」
  ラギムの答えを聞いて、リズラは嬉しそうに笑った。
「それなら、どうかわたくしを信じて頼ってください。……さあ、あなたを縛る物は全部わたくしに預けて。ラギム様ご自身が、今したいことは何ですか?」
「私が、したい事……?」
  やるべき事ではなく、したい事。自分自身の、願い。
  そんなものは、初めから決まっている。
「私は……ショウマと共に、行きたい。彼の手を、離したくありません」
  彼が旅立つと言うのなら、その一番隣に立っていたい。まだ誰も見た事のない景色を、彼の一番近くで、共に見たいと思う。
  思うだけで、口に出すことは許されないと思っていたけれど。
「それなら、何も迷うことはないじゃありませんか。……大丈夫、わたくしだってかつては王の妻だったのですから。それに、ミランやヨナムだって、すぐに大人になります。どんな困難があっても、家族で助け合えば怖くありません」
  そう言って、リズラはそっとラギムの肩を押した。
「あの人はもう、手の届かないところへ行ってしまわれたけれど、ショウマ様の手はまだ届くところにあるのですから」
  そうだ。あの日、飛び立っていく背中を引き止めなかった事を、今でもずっと後悔している。あんな思いは、もうしたくない。
  今ならまだ、間に合う。
「……行ってきます、姉上」
「はい。いってらっしゃい」
  微笑んで手を振ってくれるリズラに頭を下げて、ラギムは白い墓標に背を向けた。
  そして、歩き出す。今も答えを待ってくれているだろう彼の手を取るために。

  潮風と、太陽と、果てなく広がる海。
  本当は、初めから心のどこかで期待していたのだろう。この閉じた世界に、新しい風を運んでくれる人を。
  けれど、それが彼でなければ、こうして自ら駆け出して行こうとは思えなかった。
  ……ああ、そうか。きっと彼こそが、私にとっての運命だったのだ。間違いでも、手違いでもない。
  あの日、あの瞬間。私は確かに、出会うべき人に出会えていたのだ。



  ──最終章へ続く
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