運命色の赤マント

村井 彰

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1話 都市伝説の怪人

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  物心がついた頃から、俺には人でないモノが見えていた。
  夕暮れ時の曲がり角に佇む黒い人。ベットの下で、じっと俺の方を見つめている目玉。
  そういうモノが、俺にしか見えていないのだと知ったのは、たしか小学校に上がったばかりの時だった。

『キミ、面白い絵を描くね』

  当時の俺が描いた絵を見て、担任の教師はそう言った。教室の隅でとぐろを巻いていた、異常なほど巨大で体の長い猫を描いた絵だった。その絵は俺からすれば、見たモノをそのまま描いただけのラクガキだったのだが、何も見えない彼女にとっては、独創的で興味深い作品だったらしい。
  俺にとっては当たり前の光景を絵にするだけで、他人の関心を引ける。その事に気づいた俺は、俺にしか見えないアイツらの絵を描く事を楽しむようになった。少し成長して、描いた絵をインターネットに投稿する事を覚えると、その手のマニアに気に入られて、それなりに人気も出た。
  もっともっと、良い作品を描きたい。いろんな人に見て貰いたい。認められたい。そんな思いに囚われて、俺はいつしか、積極的に“怪異”の存在を探すようになった。俺にしか描けないリアリティを追求するためには、ホンモノをよく観察する必要があると考えたのだ。
  そう。もはや俺にとっての怪異とは、単なる創作のネタでしかなくなっていたのである。


  *


「口裂け女にフェラされたらどんな感じだと思う?」
「お前って毎日そんな事ばっか考えて生きてんの?」
  俺の質問を質問で返して、高校時代の友人は大きな口を開け、焼き鳥の串を頬張った。
「そういう事を考えるのが仕事なもんでな」
「あーな。漫画家ってのも大変だな」
「別に? 好きでやってる仕事だしな」
「そうなん? お前もともと少年誌目指してたんじゃなかったっけか。エロ漫画描いてる今の状況って、不本意なんじゃねーの?」
「俺は絵ェ描いて暮らせるならそれでいいんだよ。今の俺が描いてるモンを好きだって言ってくれる人たちもいるしな」
  ビールジョッキに口をつけて、俺は肩をすくめた。
  絵で食っていきたいという淡い夢を抱いた十代の頃から、俺は怪異どもをモチーフにした漫画を描いては、目についた賞に片っ端から応募してきた。その中で唯一俺の描いた物を拾ってくれたのが、成年向けの漫画雑誌だったのである。
  性癖というものは、人の数だけある。その中には『異形』とか『怪物』とか、そういうモノに性的な興奮を覚える層もいるのだ。そして俺の描く怪異の絵は、そういう人間たちに刺さる種類のモノだったらしい。……正直、描いている俺自身が一番ピンと来ていないのだが。
「まあでも、漫画家って夢のある仕事だよなあ。俺なんか毎日毎日上から言われた事やってるだけだし、そういうのちょっと羨ましいわ」
「そう思うんならネタ出しに協力してみないか?」
「いやムリムリ。お前の描く漫画、俺にはよく分かんねーもん。今描いてるやつ、口裂け女のエロだっけ? 俺口裂け女の事そういう目で見た事ねえし」
「……だよなあ」
  別に俺自身にもそういう性癖は無い。無いが、それでも描かなくてはいけないのだ。それを求めている人がいるのだから。
「てか悪い、俺そろそろ帰るわ。あんま遅くなると嫁にキレられる」
「あーそうか。悪いな引き止めて」
「いや、久々に会えて良かったわ。また呼んでくれ」
  友人はそう言って、自分が飲み食いした分の代金をテーブルに置き、軽く手を挙げて居酒屋を出て行った。あいつは俺の仕事を羨ましいと言ったが、中堅どころの企業に就職し、早々に家庭を持ったあいつの方が、世間的にはよほど良い暮らしをしていると言える。隣の芝生は青く見えるというやつだろう。
「……俺も帰るか」
  ダラダラとひとりで飲んでいても仕方がない。ジョッキに残ったビールを飲み干して、俺は伝票を手に取った。


  居酒屋を出ると、外はすっかり夜の空気に包まれていた。酔い醒ましも兼ねて歩こうと、俺は駅とは別の方向に歩き出した。
  雑多な飲み屋街を離れ、人気のない夜道を歩きながら考える。先ほど友人にも話していた通り、俺は新作のネタに少々困っていた。その理由は明白。怪異との出会いに飢えているせいだ。
  俺が今描いているのは、怪異をモチーフにしたエロ漫画である。怪異が見えない人間たちには経験しようもない、ある種ファンタジーとも言うべき世界観だが、俺ならそんな世界を現実に出来る。なにしろ俺には怪異が見えるのだ。他の人間には絶対に描けない、実体験を伴ったリアルな描写が俺になら出来る。はずだった。
  成年向け雑誌でのデビューが決まった後、俺は女の形をした怪異を探して、あちこち歩き回った。より良い作品を産み出すために、怪異との性行為を試みるつもりだったのだ。
  だがしかし、邪な動機を見透かされているのか、いざ探してみると、それらしい女の怪異は一向に見つからず、俺は半ば途方に暮れていた。今はどうにか想像で補って描いているが、もともと俺は、自分で見たものしか描けない人間だ。このままでは、確実にどこかで限界がくる。だから俺は、なんとしても見つけなくてはいけないのだ。俺の漫画に登場させるに相応しい怪異を。
「どっかにちょうどいい口裂け女いねえかな……」
  独り言を呟きながら、薄暗い路地をひとり歩く。二十四年生きてきて、その手の有名どころに出会った事は、残念ながら一度もない。ああいう都市伝説的な存在は、噂の中にしか存在しないものなのかもしれなかった。
  溜息をこぼしながら曲がり角に向かい歩みを進める。その時、暗い道を照らす街灯の下に、誰かが居ることに気がついた。
  なぜ、こんなに近付くまで気づかなかったのだろう。頼りなく明滅する明かりの下、目の覚めるほど鮮やかな赤が、俺の行く手を塞いでいる。血のように赤いコートをまとったその人物は、異常なほどに背が高く、街灯の光が逆光になって、どんな顔をしているのは分からない。血の気のない真っ白な右手には、細身のナイフを持っていた。
  単なる不審者か? だとすると非常にマズい状況だが、経験上、俺には分かる。目の前にいるこいつは、人間ではない。
(まさかこいつ、口裂け女か……?)
  赤い服を着て、刃物を持ち、出会った人間に『私、綺麗?』と問いかけてくる。今のところ、その条件の三分の二まで満たしているじゃないか。
  俺の頭上で、小さく息を吸うような気配を感じた。この後、あの台詞が出たらもう確定だ。このタイミングで出会えるなんて、運命だとしか思えない。絶対にお持ち帰りしてやる。
  決意をみなぎらせる俺の頭上で、赤い怪異が発した言葉は──
「赤いマント、着せてやろうか……?」
「赤マントじゃねーか!!!」
  反射的に叫んだ俺の声に驚いた様子で、目の前に立つ男の体がビクッと震えた。そう、今の声は明らかに男のものだった。別の怪異だったとしても、せめて女なら使えたのに。期待させやがって、くそったれ。
「せっかくネームバリューあるやつに会えたと思ったのに、なんでよりによって赤マントとかいうクソ地味なやつなんだよ使えねえ……女の子襲って殺すマント着た男とかただの変質者じゃねえかクソつまんねえ、俺の漫画はそういうジャンルじゃねえんだよクソが」
  肩透かしを食らった苛立ちを込めて、ありったけの不満をぶつける。どうせ相手は人間じゃないんだ、何を言ったって良いだろう。
「あーあ、どうせ遭うならもっと派手で面白い怪異が良かったな。お前みたいなただの不審者、今どき何のネタにもなんねえよ」
  わざとらしい溜息と共に吐き捨てると、赤い影がさっきよりも激しくぶるぶると震え出した。
「…………んで……」
「あ?」
「なんで怖がらないんだよ! 夜道で刃物持った男に会ったら普通怖いだろ?!」
「人間の不審者だったら怖いけど、お前人間じゃないし」
「なんだよそれ! 人間じゃなくても怖がれよ! ていうか人間じゃない方が怖いだろ普通!!」
  裏返った声で喚き散らしたかと思うと、赤マントは刃物を投げ出して両手で顔を覆ってしまった。
「久々にオレの事が見える人間に遭えたと思ったのに、それがこんな口の悪い変人だったなんてあんまりだ……オレだって、オレだって頑張ってるのに……」
  そう言って赤マントは俺の前にうずくまり、そのままおいおいと泣き出してしまった。なんだこいつ、本当に都市伝説級の怪人なのか。着ている服も、マントというよりフード付きのコートだし。
「あー……いや、悪い。ちょっとイライラしてて、言い過ぎた。お前も十分すごいよ。都市伝説界の古参だし、お前が主役のホラーゲームとかもあるし……うん、怖い怖い。すげー怖い」
「全然心がこもってない!!」
  全力で慰めたつもりだったのだが、かえって火に油を注いでしまったらしい。大きなフードの下で涙目になって俺を睨みつけてきた赤マントは、かなり血色が悪いものの、ツルッとした顔立ちをしたなかなかのイケメンだった。これではますます怖くない。
「……オレたちは、人間の恐怖から産まれたんだ。だからお前たちを怖がらせる事が唯一の存在意義なのに、お前みたいな怖がらない人間が変な噂で上書きするせいで、オレたちを怖がる人間がどんどん少なくなってるんだ……口裂けも、八尺も、花子も、『巨乳』とか『エロい』とか、訳の分からん要素を付随されて性的消費されるのに嫌気がさして、人のいない山奥に隠居しちまった……もうこの街の都市伝説は、オレしかいないんだ……」
  なるほど、知名度の高い女の怪異に遭遇できないのには理由があったのか。しかも俺からすると、かなり身に覚えのある理由だ。
「なんか、お前もいろいろ大変なんだな」
「……うん」
  長い足をマントの裾ごと抱えて、赤マントはこっくりと頷いた。なんだか放っておけない雰囲気である。
「……ヘタレイケメンの怪異か……そういや俺、女性向けのエロって描いた事ねえな」
  想定とは違うが、これはこれで新しい境地が拓けそうな予感がする。
「お前さ、良かったらこれから家に来るか? 今さら怖がってやるのは無理だけど、話くらいは聞いてやるよ」
  俺がそう声をかけると、赤マントはきょとんとした顔でこちらを見あげた。
「お前の家……?」
「そうだよ。お前、ずっと独りだったんだろ」
  独り、という単語に反応してか、赤マントの肩がピクリと跳ねた。
「……まあ、暇だし。行ってやってもいい」
  そう言ったかと思うと、赤マントの姿はドロリと溶けて、周囲の闇に混ざり合った。消えてしまったのかと思って辺りを見回してみたら、街灯に照らされた俺の影が、うっすらと赤く染まっているのに気づいた。このまま俺の影に混ざって着いてくるつもりか。
「……まあ確かに、この方が目立たなくていいな」
  軽く頭を掻きながら、俺は帰路に着いたのだった。
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