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第一章 思い出と魔導具

3話 月の無い夜

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  春の暖かな日差しの下、ピカピカに磨き上げた窓を眺めて、ユリナは満足気な息を吐いた。
  子供達の先生として、孤児院に通い始めてから約一週間。今では授業だけでなく、家事や子供達の遊び相手も任せてもらえるようになった。実家に大勢の使用人を雇う余裕が無かったおかげで、家の仕事はちゃんと一通り出来る。貧乏暮らしも案外役に立つものだ。
「せんせい! あっちの雑草ぜんぶぬいた!」
  スカートを引っ張られる感触に視線を落とすと、丸い頬を紅潮させたマルクが鼻息荒くユリナを見上げていた。彼の指さす方向には、庭の隅に積み上げられた雑草の山がある。
「まあ! 頑張ったわね、マルク。偉いわ」
「えへへ……」
  ユリナに頭を撫でられて、マルクが嬉しそうに頬を緩ませる。初めは警戒していた様子のマルクだったが、この一週間でずいぶん心を開いてくれたようだ。
  子供達はみんなとても可愛くて、そんな彼らと過ごす時間もとても楽しい。けれど当初の目的も忘れた訳では無い。掃除をしながらそれとなく建物の中を調べてみたり、子供達と遊びながら彼らの様子を探ってみたりしたが、未だに『エマおねえちゃん』については分からずじまいだ。
  施設の中に隠し部屋があって、その中に密かに監禁された子供が……なんて、そんな小説みたいな事があるはずもなく、子供達にも不審な点は見当たらなかった。ならば『エマおねえちゃん』は孤児院の中にはいないということになるが、一日のほとんどを施設の中で過ごす子供達に、外の子供と知り合う機会などあるのだろうか。近隣の家の子供と仲良くなっただけなら、大人に隠す必要などないはずだし……
「マルク! ユリナ先生! そっちのお掃除終わった?」
  ユリナが磨いていた隣の窓を開け放って、ミリアが不意にそこから顔を出した。今日は月に一度の大掃除の日なので、子供達も全員総出で施設中を磨き上げている。彼女は廊下の拭き掃除を担当していたはずだ。
「ちょうど終わったところよ、ミリア。マルクがとてもよく頑張ってくれたの」
「がんばった!」
  ユリナがもう一度頭を撫でると、マルクがそう言って胸を張った。
「偉いわね、マルク。終わったなら手を洗って出かけましょ。今日はわたしとマルクがお買い物当番よ」
「うん、わかった!」
  ミリアの言葉に元気よく答えて、マルクが建物の中へと走って行く。施設の庭には小さいながら家庭菜園もあるのだが、それで補いきれない分は近くの市場へ買い出しに行くらしい。
「二人だけでお買い物に行くの? 私も一緒に行きましょうか?」
  子供二人では荷物持ちも大変だろうと軽い気持ちでユリナが訊ねると、ミリアはなぜか慌てた様子で首を振った。
「へ、平気よ。いつもわたしたち二人で行ってるもの。それに先生は、そろそろおうちに帰る時間でしょ? あんまり遅くなると心配されちゃうって前に言ってたじゃない」
  早口でそう言って、ミリアはさっさと窓の向こうに引っ込んでしまった。たしかに少し陽は傾いてきたが、それでもまだ子供たちだけで出かけられるような時間だ。いくらなんでも、それくらいで心配されたりはしない。それなのに彼女は一体何を焦っているのだろうか。
  開け放たれたままの窓を見ながら考える。これは、もしかすると……
「……よし」
  小声で呟いて、長い髪をまとめていた三角巾を解いた。ひとまずヘレン院長のところへ行って、今日はあがらせて貰おう。そしてミリア達がどこへ向かうのか、この目で確かめるんだ。

  *

  数十分後、ユリナは子供達の小さな背中を追って街へと繰り出していた。
  孤児院から子供の足で歩いて数分程度のところにある大通りは、通り全体がちょっとした市場になっていた。晴れた日は近くの商店や行商人達がそれぞれに露店を出してきて、集まった買い物客達で賑わう場所だ。王都の広場で開かれている大規模な市には劣るが、こちらも呼び込みの声や客達の話す声が飛び交って、十分な熱気を見せている。
  人が多ければ、それだけ尾行に気づかれる危険も低くなるが、子供達の小さな影はすぐに人波に紛れてしまう。尾けていることに気づかれず、そして彼らを見失わないギリギリの距離を保ちながら後を追うのは、なかなかに骨が折れる作業だ。しかしそうして神経を削りながら追いかけた二人は、見た限りでは普通に買い物をしているだけのようだった。
  このままただお使いを見守るだけで終わるのか、とユリナが安堵とも落胆ともつかない息を吐いた時。
「……あら?」
  二人の背中が、不意に露店の隙間に伸びる路地へと消えて行った。あんなところに店など出ているはずがない。だというのに、そんなところに何の用があるというのか。
  路地裏はあまり治安が良くない。そう言っていたラスタの言葉を思い出して、ユリナは急いで後を追いかけた。二人に何かあったら大変だ。
  しかし、小走りに路地を曲がった瞬間、そんな心配は一瞬で吹き飛んだ。
「え……っ」
  思わず声をあげそうになった口を押さえ込んで、ユリナは慌てて物陰に身を隠した。そこから少し顔を出して、子供達の様子を窺ってみる。路地の奥で、ミリアとマルクが誰かと何かを話しているようだ。若干距離があるのでよく見えないが、あの使い込んで古くなったハンチング帽には見覚えがある。先日ブローチを持って行った子供が被っていた物と同じ物だ。
  三人の子供達は、なにやら親しげに話し込んでいるようだが、ここからではその内容までは聞こえない。よく見ると、ミリアが買い物カゴから取り出した林檎をふたつ、ハンチング帽の子供に手渡したのがわかった。なるほど、こうしてこっそり食べ物を分けている事を知られないように、大人達にその存在を隠しているのだろうか。
「ばいばい、エマおねえちゃん!」
  しばらくユリナが彼女らの様子を観察していると、マルクが大きな声で元気よく別れを告げて、ミリアと共にこちらへ体を向けた。まずい。ユリナは急いで、しかし物音を立てないように気をつけながら、路地を後にした。そして市場の喧騒に紛れながら、ミリア達が無事に帰路につくのを確認した後で、再び路地の奥を覗いてみた。けれどその時には、既にハンチング帽の子供は姿を消していた。残念ながら声をかけそびれてしまったらしい。
「やっぱり、あの子が『エマおねえちゃん』なのね……」
  帽子で顔がほとんど隠れていたので性別すら分からなかったが、マルクが確かにそう呼んだのだから間違いない。あの時ぶつかってきたのは少女だったのか。
  路地の先をしばらく見つめた後、ユリナは黙って踵を返した。今日のところは声をかけられなかったが、ミリア達が迷いなくこの路地に来た事からして、あの少女はおそらくこの辺りを根城にしているのだろう。それなら、ここに来ればきっとまた会えるはずだ。今はそれだけ分かっていればいい。
  そうして物思いに耽りながら、ユリナは路地を後にした。
  その後ろ姿を見つめる視線がある事にも、気づかないままで。

  *

  その晩、ユリナは自室のベッドで横になって本を広げていた。といっても本当に広げているだけで、その内容はほとんど頭に入ってこない。
  『エマおねえちゃん』のこと。ブローチを盗られてしまったあの日のこと。考えれば考えるほど、喉に小骨が引っかかったような違和感を覚えてしまう。
  あんなに痩せた少女の腕力で、背の高いユリナが付けたブローチを引き千切る事なんて出来るのだろうか。いや、そもそもあの子は、ユリナがブローチを付けている事を、どこで知ったのか……
「うーん……」
  小声で唸りながら、蝋燭の灯りに背を向けるように寝返りをうつ。魔術で街の灯りを管理しているのは王都だけなので、この辺りでは蝋燭やランタンが欠かせない。とはいえ、蝋燭だってタダではないのだ。無駄遣いをせずにさっさと眠らなくては。
  本を閉じて灯りを消そうと体を起こした時、部屋に控えめなノックの音が響いた。
「はい?」
  こんな時間に誰だろうと首を傾げながら答えると、細く開いた扉の隙間から、ランタンを片手に持ったアランが顔を出した。
「ああ、やっぱり。灯りが少し洩れていたのでもしやと思ったのですが、まだ起きていたのですね」
「あ、ごめんなさい……すぐに火を消しますから」
「いえ。それは構いませんが、最近毎日孤児院の手伝いをしているのでしょう? 疲れているでしょうから、夜くらいはちゃんと休んでください」
  そう言いながらも、アランはこちらに歩み寄ってきてベッドの端に腰をおろした。大きな手が、下ろしたままのユリナの髪の先に軽く触れる。
「……大丈夫です、このくらい。子供達と触れ合うのはとても楽しいですし、疲れなんて全然感じませんから」
  長い指が髪に優しく絡んで、そっと梳くように撫でる。そんな微かな触れ合いも、案外悪い気はしなかった。
「貴女が楽しんでいるならなによりですが、あまり根を詰めすぎないようにしてくださいね」
  アランの指から零れ落ちた髪が、一瞬ふわりと広がって、また元の位置に戻った。アランはそれ以上、髪にも、それ以外の場所にも触れようとはしない。彼はそのまま目を逸らして立ち上がった。
「もう行ってしまわれるんですか?」
「ええ、眠る前に少し挨拶をしようと思っただけなので。……おやすみなさい、ユリナさん」
  そう言うが早いか、アランはくるりと背を向けて、振り向きもせず部屋を出て行ってしまう。
「……おやすみなさい。アラン様」
  呟いた声は閉じられた扉にぶつかって、誰にも届かず暗がりに溶けて消えていった。ため息混じりの吐息で蝋燭の炎を吹き消して、ベッドの中に潜り込む。
  アランと結婚してから一ヶ月ほど経つが、彼は決して無理にこの体に触れようとはしてこない。それは彼なりの優しさなのか、それとも……

  瞼を開いても、一筋の明かりさえも差し込まない。今夜は、月すら見えない夜だった。

  *

  翌朝、ユリナはいつも通りに身支度を整えて、屋敷を後にした。そうして向かう先も、いつも通りの孤児院……ではない。今日は前々から決まっていた休日だ。しかし屋敷の者にはそれを伝えていないから、今日も孤児院の手伝いをしていると思われていることだろう。
  つまり、今日だけは自由に動けるという事だ。

  焦りを押し隠して足早に向かう先は、昨日訪れた市場だった。商人達の朝は早く、通りには既に露店が並び、街は賑やかさに溢れている。
  しかしその喧騒も表通りだけのこと。ひとたび裏路地に入れば、まるで異世界に迷い込んだかのように一瞬にしてざわめきが遠くなる。薄暗く湿った空気の漂うそこは、パウエルの工房があった通りよりも、さらに狭苦しく汚れて見えた。腐った果物の皮が足元で異臭を放っている。人が増えれば、その分だけ多くの物も行き交う。きっと表通りが栄えるほどに、この場所には穢れが吹き溜まっていくのだろう。
  雨でもないのに濡れた道に、ユリナの硬い足音だけが響いている。昨日の少女がいたのは、確かこの辺りだったはずだ。今日も同じ場所にいる保証はないが、それでも何か……
「こんなとこになんの用? 貴族のおねーさん」
  背後からかけられた声に、ギクリと足を止める。ぎこちない動きで振り向いたその先で、ユリナの目に飛び込んできたのは、探し求めていたあのハンチング帽だった。
「おねーさん、昨日もここに来てたよね? ダメだよお金持ちがこんなとこに来ちゃ。綺麗な服が汚れちゃうよ」
  使い古された帽子と、そこから覗く短い黒髪。確かに昨日見た『エマおねえちゃん』と同じ格好だ。
  しかしその喉の奥から発せられた声は、声変わり直前の、少し掠れたのものだった。
「やっぱり……」
  どうやら、ユリナの考えは間違っていなかったようだ。
「……はっ? ちょ、どこ行くんだよ!?」
  背後に少年の焦った声を聞きながら、ユリナはスカートの裾を軽く持ち上げて、薄暗い路地の奥へと駆け出した。予想外の行動に驚いたのか、少年が追ってくる気配はまだない。ならば今のうちだ。
  物陰に目を凝らしながら走る。この路地は一本道だ。きっとそう離れた場所にはいないはず……
「……あっ」
  いた。壊れて打ち捨てられた酒樽の影に蹲る、小さな影。驚きに見開かれた瞳は、髪と同じ深い黒。後ろから慌てて追ってくる少年と、全く同じ色だ。
「見つけた……あなたが『エマおねえちゃん』ね」
「な、なんでわたしの名前……っ」
「おい、あんた! エマから離れろ!」
  怒りを露わにしてユリナに掴みかかろうとした少年は、ユリナがエマの肩を抱くようにして捕まえたのを見た瞬間、その場に縫い付けられたように動きを止めた。
「トム……っ」
  黒髪の少女が焦った様子で少年の名前を呼ぶ。少々可哀想だが、今はまだ彼女を離す訳にはいかない。
「そっちのあなたはトムっていうのね。二人ともよく似ているわ。双子かしら」
  ユリナの問いには答えず、トムと呼ばれた少年は苦々しい表情でユリナを見上げた。
「……なんで、もうひとり隠れてるって分かった?」
「一週間くらい前、あなた達にブローチを持って行かれた時に、少しおかしいと思ったの。私がブローチを身につけたのは工房の中だったのに、表通りから駆けて来たあなたは、迷いなく手を伸ばして目的の物を盗み取ってみせた」
  工房からいつ客が出てくるか、その客は金目の物を身につけているか、身につけている場所はどこか……それらを確認するためには、客が店から出てくる様子を近くで見張っていなければならない。しかしあの狭い路地を、客に気づかれず表通りへ移動するのは不可能だ。
「路地の奥で工房の様子を窺いながら、表通りに出てきた客を狙うことは出来ない……なら、あの場所には、もうひとり居たと考えるのが自然じゃないかしら」
  路地に隠れて標的を確認し、表通りで待機している相棒になんらかの形で合図を送る役目の者がいたはずだというユリナの推測は、『エマおねえちゃん』と同じ見た目の少年が現れた事で確信に変わった。
「二人一緒には行動せずに、必ずもうひとりが少し離れた場所から様子を窺う。……あなた達はそうやって、お互いの身を守り合いながら生きてきたのね」
  ユリナの言葉を聞いた少年は、微かに顔を顰めた。
「……やるじゃん、おねーさん。呑気なお貴族様だと思ってたのに」
「私も必死だったもの。……あのブローチを、どうしても諦められない理由があるの」
  ユリナがそう零した瞬間、ずっと触れていたエマの肩がぴくりと震えた。
「……わたしたち、どうなるんですか」
「え?」
  掠れた声で少女が呟いた言葉の意味が掴めず、ユリナは咄嗟に聞き返した。背後から少女の肩に両手を乗せているユリナには、彼女がどんな表情をしているのか分からない。戸惑うユリナの声など耳に入らない様子で、エマがさらに震える声で言葉を紡ぐ。
「あのブローチを盗ったあとで気づいたんです。おねえさんと一緒にいた男の人、騎士団の偉い人だって。……あのブローチ、もう売ってしまって、同じ物は返せなくて……で、でも、わたし何でもします。だから、あの、トムだけでも許してください……お願いします……こ、殺さないで……っ」
  あまりにも想定外の言葉に、今度はユリナの方が動揺する番だった。
「ちょっと待って、あなた何を言っているの? 私もアラン様も、あなた達をどうこうしようなんて」
「トム……トム、逃げて……」
  今にも泣き出しそうな少女の声に、トムがハッと体を強張らせるのが分かった。
「エマ! エマ落ち着け! ダメだ、やめろ……っ」
  トムがこちらに向かって駆け出そうとするより早く、エマの体が氷のように冷たくなるのを手のひらに感じた。
「な、なに……?」
  尋常ではない気配を感じて、ユリナは体を引いた。その間にも周囲にはみるみる冷気が満ちて、エマの黒い髪にも毛先から霜が降りていく。 
  異常事態に混乱する頭が、ほんの少し冷静になった時には、もう遅かった。鋭く尖った氷柱つららが三本、ユリナの眼前に浮かんでいる。
「これ……まさか、魔術……?」
  どうして、こんな路地裏に住む少女が魔術を使えるのか。いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
  凶悪なほどに鋭利な氷柱の切っ先の、その全てが、真っ直ぐにユリナの方を狙っている。
「エマ……!」
「あああああああぁっ!!」
  少女の悲鳴を合図にして、氷柱が一斉に空を舞う。その瞬間がやけにゆっくりに見えて……なぜか、背後から駆けて来る足音が聞こえた気がした。
「…………っ」
  逃げられないと悟ったユリナは、咄嗟に身を硬くして目を瞑った。しかし、いつまで経っても予想した痛みはやって来ない。一体何が起きているのかと、おそるおそる開いたユリナの瞳に映ったのは、にわかには信じ難い光景だった。
「アラン様……?! どうして……」
  ユリナを背中に庇って魔術の氷柱を全てその身で受け止めたのは、見間違えるはずもない、ユリナの夫であるアランその人だった。
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