大正浪漫奇譚 -世界は二人の外で、静かに遠ざかる-

絹ごし豆腐と麦わら猫

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第四章 ちょろり光るや、猫の目ふたつ

其の一:ちょろり光るや、猫の目ふたつ

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 その昔、とはいってもまだまだ近代の「昔」ではあるのだけれど。もうそろそろ東京放送局からラヂオが流れ出しそうな、そうではないようなそんな時分で。近頃大陸で戦争が始まって、もうそろそろ終結を迎えるのかもしれぬ、あやふやな時期のことである。




 か細い鳴き声が荻窪の耳に届いた。
 まだまだ赤子のような、小さな小さな鳴き声である。
 ほんの一瞬、あれ・・かとも思いはしたものの、そんなはずがあるかと気持ちを奮い立たせて、もう一度耳を澄ませた。
 空耳ではない、やはりそれは聞こえていた。
 そろそろ寝ようとしていた荻窪が、がばりと掛け布団を引き剥がすと、半纏はんてんを羽織って廊下に出る。

 声は小さいながらも、更に良く聞こえてくるようになった。これは庭のどこかに小さな生き物がいる、と確信した荻窪は、硝子戸を開けて雨戸を開け放つ。

 雪に半ば埋もれた突っ掛けを探し当て、身震いするほど冷えたそれに素足を突っ込んだ。

 ──ぴぁ……。

 か細い声は軒下からか。
 荻窪は雪に手をついて軒下に目を凝らす。少しでいい、なにか見えないだろうか。
 闇にうごめく白い塊を視界に捉え、荻窪は迷うことなく手を伸ばしていた。

 手のひらに収まるほどのそれは、まだまだ乳離れしていないのではないかと思うほどの、仔猫だった。
 仔猫独特の青い瞳が辛うじて開くくらいの目やに、がたがた震える体は冷え切っていて、荻窪は思わず自身の懐へと子猫を入れた。

 この子はこのままでは死んでしまう、確信が手のひらから伝わってくる。
 急いで家の中に入ると、荻窪は寝る時間も惜しまず、子猫の看病に費やした。
 身体を温めるために火鉢を起こし、火鉢が安定するまでは懐で抱きしめる。ぬるま湯を用意して、顔を拭く。もちろん、乾いた手ぬぐいで濡れた部分を拭くのを忘れない。

 座布団と手拭いと、自身の羽織を丁寧に丸く形を拵(こしら)え、仔猫をそこに寝かせてみる。
 ゆらゆらよろよろとしながらも、荻窪の手を追う仕草を見せる仔猫の、そのひたむきな生命(いのち)の輝きに、荻窪は危うく心を奪われそうになった。

 ──この子は生きようとしているんだな。

 荻窪は指に付けた水をそっと、仔猫の口元に寄せてみる。朝になれば獣医院も開くだろうしそれまでの辛抱だ。
 ちゅ、と吸いつかれた指先に、荻窪は確かに、この小さな命が手繰り寄せようとしている『明日』の重みを感じた。

「朝までの辛抱だ。頑張ってくれよ。」

 ──この子の生命力は強い。
 ──かすかな声でも助けを呼んでいたのだから。

 荻窪はその夜、一晩寝ずの看病をして、朝いちで獣医院に駆け込んだのである。

 栄養剤と目薬、それから、それに当時はそれが最善と信じられていた「牛乳を薄めて飲ませる」という処置を教わる。
 ただ、歯は生えているとのことで、乳離れは辛うじて済んでいるらしく、塩味の少ないものを食べやすくしてから与えるように、とも教えてくれた。

 荻窪は安堵して、腕の中の小さくて白い仔猫を見下ろしていたら、獣医師から声がかかる。

「で、この子の名前はなんだい? カルテに書かないといけないからね。」

 なんて言われてしまう。

「ああ、では……ちびでお願いします。」

 この瞬間、白猫の名前がちびとなった。名前なんてなにも考えていなかったし、まさか自分が名付け親になるとも予想したことは、一度もなかった。
 これがきっかけで、高梨にはずっと「先生は名付けのセンスがありませんね」とからかわれることになる。
 咄嗟に出たのが「ちび」だったのだから、仕方がない。だが、腕の中で眠る白猫の仔猫がちび、という名になったと思うだけで、気持ちが温かくなるのも事実だ。

 保護して、元気になったら香世さんに押し付けようと思っていたのに──、名前をつけてしまっては手放しにくくなるではないか。
 荻窪は獣医院からの帰り道、ずしり、ずしりと雪を踏みしめながら、寒くないようにとちびを懐に抱いていた。



 ***(荻窪の怪談)



 外に干してある濡れ布巾が、じわりじわりと凍りつくほどに寒い夜。積もり積もった雪はすべての音を吸収して、無音だった。その中でゆらりゆらりと動くもの。宿を失った亡霊のような体でふらりと歩いては、力尽きたように足を止める。見上げる空は濃紺で、ただ大きな月だけが輝いていた。


「う、にゃぁ……。」


 絞るように、身体を震わせてひと声啼いた。しかし、声はそのまま無音の闇へと吸い込まれていった。これ以上は歩けない、というように猫はその場に座り込んだ。そして、そのまま横たわってしまったのである。


 ──だれも通るはずもなく、猫はそのまま小さな灯火がかき消されようとしていた、そのとき。


「おや、可哀想に……。」


 雪の上に横たえた猫の身体を、大きな手のひらがすくい上げた。雪に消えぬ黒色の毛並みがその瞬間の猫の命をつないだかのように見えた。すくい上げた猫の身体は抱き上げられてもくたりと横たわったまま動くことはない。だが、かろうじてまだ息はあった。微かながら鼻息を感じ取ることができたのだ。はやく連れて帰ってやらなければ、と焦りの気持ちが背筋を駆け抜けていく。


 猫を拾い上げた男は、懐に猫を入れると足早に立ち去った。あまりにも抵抗を感じないその腹に、もしかすると、という思いも駆け抜けたがいまはただ助かって欲しいと願うのみである。


 心優しきこの男、これまで幾たび、こうして野良の命を拾い上げてきたことか。情が深いのか、はたまた救いがたいお人好しなのか。
 目の前で困っている人を助けずにはいられない──、ほとほと困り果てた嫁が明らかに迷惑そうな表情を浮かべてしまうのも、分からぬわけでもない。がしかし。この嫁、思っているよりも少々意地悪なところがある。
 猫や犬や小鳥やなにや、それらにはこちらが分からぬほどに嫌っていた。それでもこの男、それに気が付かぬかのようにこうして拾ってしまうのである──。


 この男はこれほどまでに優しいから故、このような女を嫁に迎えてもにこにこしていることができたのであろう。それほど、この女の評判はもともと良くはなかったのだ。
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