大正浪漫奇譚 -世界は二人の外で、静かに遠ざかる-

絹ごし豆腐と麦わら猫

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第十章 淡く果てるや、燃ゆ心

其の四:淡く果てるや、燃ゆ心

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 ***(荻窪の日常)



 かたり、風呂場の外から小さな音が聞こえてきて、荻窪は自身が深い回想にいた事に気がついた。

「先生? のぼせてはいませんか?」

 気遣うような高梨の声が聞こえてきて、荻窪はその言葉通り体が揺れる。

「あ、ああ、もう上がるよ。」

 荻窪は手拭いで大事な部分を隠すようにして、扉を開けた。
 がらりと開け放てば、そこには心配げな高梨がいる。

「先生、お体が真っ赤じゃないですか。」

 そう言って、あっけらかんと笑い出した。

「早くお体を拭いてくださいね。僕は冷たい飲み物を用意しておきますから。」

 高梨はクスクスと余韻を残しながら台所へ向かい、荻窪はそんな高梨に翻弄されていることを自覚する。
 いつもみたいに跳ねっ返りでいてくれないだろうか。そうしたら、茶化して終われるのに──。

 荻窪は薄手の寝間着を身につけながら、小さく息を吐いた。がしがしと少々乱暴に髪の毛を拭く。いつも彼の髪がいつも乱れているのは、このせいだろう。

 居間へと足を向けると、そこにはちびを膝に乗せて荻窪を待つ高梨の姿があった。
 すやすや眠るちびの背中を、ゆたりと撫でる。
 指先は触れるか触れないか、毛の表面をさわりと撫でてはちびの呼吸に目を細めていた。

 伏し目がちに見下ろすそのさまは、いままで見たことがあったろうかと思うほど艶やかで、荻窪は自分の視界を隠すように額へと手を当てる。
 少しでも欲にまみれた視線を遮りたくて。

「先生、冷えたお茶を用意しましたよ。」

 つい、と荻窪へと視線を向ける高梨は、ちびを起こさないようにしているのだろう。その最小限の動きは、伏せられた瞳からぱちりと噛み合う視線に切り替わり、荻窪は言葉を飲み込んだ。
 明朗活発な青年という印象で、表情がとても豊かで真っ直ぐな人間だから、最初から好印象ではあったのだ。
 まさか、日常の一部にこんな隠れたものが潜んでいるなんて。
 こんなにも柔らかな空気を持てる青年だったとは思いもしなかった。

「あ、ああ、ありがとう。」

 声が震えてはいないだろうか。
 荻窪は卓袱台に置かれてあるお茶のグラスを掴むと、そのままひと口喉に流し込んだ。

 すっきりとした後味が余韻に残る。出会った当初はお茶すらも入れられなかった若者が、いまではこんなに完璧にお茶を入れることもできるようになっていた。
 料理だって、それは当然うまくもなるだろう。

「……落ち着いたら、寝ましょうか。ちびもだいぶ眠たそうですし。」

 何気なく落とされた言葉はいつもと同じ、穏やかな音。ただ、荻窪は「寝る」という言葉に過剰反応しそうになった。高梨はそんな意味で言ったのではない。分かっているのに。

「そうだね。……雨もだいぶ強くなってきているし。」

 荻窪は屋根を叩く雨音に耳を傾けてから、雨の音がやかましいことに気がついた。

 ばちばちと屋根を叩く雨音。

 ばらばらと雨戸を打つ音。

 遠くで雷鳴がなり、外は初夏の梅雨の嵐。

「温かくして寝ないと、風邪を引きそうですね。」

 何気ないひと言がいちいち引っかかる。口にしたのか思っただけか、荻窪はどうしようもないほど自分が緊張しているということに気づいてしまった。

「なら、掛け布団を一枚増やそうか。」

 荻窪はその場から逃げるように立ち上がり、そそくさと自室へと向かう。しかしそれは、袋小路だということを完全に忘れていた。

「あ、先生、僕もお手伝いしますよ。」

 ちびを傍らに下ろすと、高梨が立ち上がる。いつもは背広を着ているから見えなかった足が、ちらりと見えた。
 降ろされたちびは、伸びをしてから私室へと向かう二人を、静かな青の瞳で見送る。
 すん、と鼻を鳴らしてその場でもう一度寝ようと丸まった。

 衣擦れの音。

 畳を歩くその足音は、いつもの粗野な音とはまるで違う。

 なんでいつもと違うんだ、と荻窪は頭を抱えそうになった。いつもなら、足音を高らかに歩くじゃないか、家を壊すのか? というほど強い足音を立てるじゃないか。

 家にいる高梨をそもそも──仕事以外で見せる姿をあえて、知ろうとしなかっただけかもしれない。
 高梨はけっして粗暴な男ではない。むしろ柔和で優しい男なのだ。
 ただ時折粗野な行動が大きく視界に入るだけで。

 荻窪は押入れの扉を開けると、いつも自分が使っている布団と、その下の布団を取り出した。
 ついこの間、梅雨が来る前に布団を日干ししたことが良かったと思う。
 かび臭い布団を出すわけにはいかなかったから。

「先生、これを敷くんですか?」

 荻窪が敷布団を手にした瞬間、背後から高梨の声がする。びくりと肩がはねた。まるで猫に追い詰められた鼠の気分だ。荻窪は見えない汗がつぅ、と頬を伝っていくのを感じた。

「先生、僕、先生を食べようなんて思ってませんよ。」

 からからと笑うその声は軽やかで、なにかの比喩を持ち出しているわけではないのは明らかだ。荻窪自身が書いてきた怪談になぞらえた高梨なりの冗談だったのだろう、そんな口ぶりだった。

 ぎょ、として振り返ってしまった瞬間に、荻窪は失敗した、と思う。振り返ったとき、高梨は荻窪の真後ろに来ていて、布団を受け取ろうと差し出された手が、まるで、荻窪自身を受け止めるかのように見えた。どうかしている、そんなわけがないのに。

 ──もう、だめだ。

 荻窪の手から力が抜ける。ばさりと落ちた布団と、そこに崩れるようにへたり込んだ荻窪。少し遅れて後を追うように、高梨がゆっくりとしゃがみ込む。

 顔を隠すように両手を開いた荻窪の、手首をそっと掴んだ。

 とても情けない顔をしてるから見ないでほしい、なんて言葉は出ない。高梨が荻窪を覗き込む瞳は、とてもからかうようなものではなかった。ともすれば痛いほど真摯な瞳が真っ直ぐに穿つ。

「先生。」

 強くはない拘束なのに、逃げられない。
 怒鳴られているわけじゃないのに、身がすくむ。

 次にくる言葉を予想して、荻窪は固く目を閉じた。

「先生、怖がらないでください。」

 静かに語りかける高梨の声は、緩やかで甘く、それでいてどこか強い。
 掴まれた手首は優しさのまま保たれて、振り払おうと思えばできる強さだ。

「僕、先生に伝えたいことがあるんです。」

 落ち着いた、静かな声。

『俺、お前を好いている。』

 ふいに、彼の声が頭に響いた。
 だめだ、その言葉を言ってはだめだ。

 荻窪は、は、としたように高梨を凝視した。
 声を出そうとして、喉が詰まる。喉につっかえた重いものがごりごりと主張する。

 聞いてはだめだ、言ってはだめだ。

 荻窪が耳をふさごうとして、手首を振り払おうとした瞬間に。

 すぅ、と息を吸い込む音がした、とても静かに。ゆっくりと吐き出して。

 それでも視線は逸らさずに、真っ直ぐ荻窪を捉えていた。
 荻窪は高梨の静かさに動きが止まる。

 言わないでくれ。
 心がそう叫びそうになった。

「僕、先生にずっと………魅せられているんです。」

 そう言って、高梨が眉根を八の字に寄せて、どうしようもないというように笑う。抑えきれなくなった感情がこぼれたにしては、柔らかすぎた。
 愛しさが溢れるかのようなその笑みは、あまりにも綺麗だった。

 どうしようもなく抗えない、そんな感情が入り混じったような、そんな顔。

 ──魅せられている。

 その言葉の意味に荻窪の思考が到達する直前、柔らかくて温かいものが唇に触れた。

 それは口づけというにはあまりにも淡白で、真っ直ぐな。
 高梨の想いそのままがふわりと乗せられたような感覚だった。

 知らず知らずに涙が溢れた。

 重さを感じさせないその想いは温かく手の上に乗せられて、荻窪の内側へとゆっくりと流れ込む。

「高梨くん。」

 荻窪は真っ直ぐに彼を見た。少し照れくさそうな、それでも視線は離さない彼を思わず抱き寄せて。
 確かな温かさに顔を埋めた。

 涙が溢れて止まらない。この青年はいま、ゆっくりと荻窪の背を抱きしめた。その手の確かな存在に、こわばっていた息をゆっくりと吐き出せる。

「……私も、きみに魅せられている。」

 ぎゅう、と腕に力を込めた。

 逃げられない。
 逃げたくない。

 荻窪はそう、高梨に告げた。



 ──淡く果てるや、燃ゆ心。
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