因果の糸、断ち切り申す

クリヤ

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第1話 しがみつ鬼

(12)幸せの刻

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 ニャア、ニャア、ミャア。
 そう鳴けば、おつやは必ず気づいてくれる。
 気づいたら、優しい言葉をかけてくれる。

 「あら、チビ。そんなとこにいたのかい?
  もうちょっとだけ待っとくれよ? すぐにご飯をあげるからね」

 おつやは、優しくて、いい匂いがして。
 それから、とっても綺麗なおなご。
 チビのことを大事にしてくれる、きょうだい。
 おつやに出会ってチビは、寂しくなくなった。
 だから、チビもおつやをひとりにはしない。
 ……何があっても。


 ***

 ヒソヒソ、ヒソヒソ。
 おつやを見て、ほかの人たちが何か言っている。
 茶店で働くおつやは、たくさんの人から好かれている。

 「おつやちゃん、今日もかわいいねぇ」
 「俺ンとこに、嫁に来ねぇか?」
 「何言ってんだ、おめぇなんかのとこに来るもんかよ!
  おつやちゃん、俺のほうが甲斐性があるぜぇ?」
 「騙されちゃあ、いけないぜ。おつやちゃん。
  こいつときたら、飲む打つ買うの三拍子揃った放蕩もんだ。
  一緒になった暁にゃあ、あっという間に首括る羽目になるぜ」

 常連客の決まりきったやり取りにも、おつやは笑顔で返す。

 「ふふふ。アタシみたいな身寄りのない娘ひとり。
  もらってくれる人がいたら、ありがたいねぇ。
  あ、だけど、猫好きじゃなきゃいけないよ?
  チビは、一生、アタシと一緒なんだからさ」

 そう言って、おつやが笑って奥に引っ込む。
 すると、客たちのヒソヒソは、大きくなっていく。
 おつやには、聞こえないように。
 けれど、周りの皆には聞こえるように。
 ヒソヒソと噂話は、そこここで花を咲かせる。

 「おつやちゃん、ちょいとおかしくなっちまったって本当かい?」
 「あぁ。さっきの聞いただろ? 猫がいるって言うんだよ」
 「猫がいちゃ、まずいってのかい?」
 「いやいや、そうじゃあなくってさ。
  おつやちゃんの猫はさ、とうに死んじまったらしいんだよ」
 「そうなのかい? さっきの話っぷりじゃあ……」
 「そこだよ! どうも、おつやちゃんには死んだ猫が見えてるようでさ」
 「はぁ? 見えてるって?」
 「猫のために水をやったり、飯を置いといてやったりするらしいんだ」
 「そいつは、陰膳ってやつじゃあないのかい?」
 「そうなら心配は無ぇんだがよ? なんにもいないところにさ。
  何度も話しかけてるらしいんだよ。チビ、チビってな」
 「そいつは……ちょいと、おっかねぇなぁ」
 「だからよ? あんな小町娘だってのに、もらうやつがいねぇのよ」
 「さっきの連中は、どうなんだい?」
 「あぁ、あいつらは分かった上で、やり取りを楽しんでるってぇだけさ。
  本気でもらうつもりなら、あんな風には言わねぇもんさ」

 おつやには聞こえていなくとも、チビには届いている。
 ヒソヒソ話の中身も、人が出す、ちょっとした悪意も。
 かわいい、好きだと言いながらも本気でおつやに近づく者はいない。
 チビは、それでいいと思う。
 おつやとチビだけがいれば、幸せなんだと知っていたから。

 けれど、ある時から、おつやの前にひとりの男が現れた。
 栄次郎という、その男は、ほかの連中とは少し違うようだった。
 色白の顔に、細身の体つき。
 切れ長の目は、不思議な色気を感じさせる。
 優しげな口調は品よく聞こえて、おつやの心をあっさり掴んだ。

 「ねぇ、チビ。栄次郎さんと一緒になってもいいかねぇ?
  初めてなんだよ。一緒にいたいって思ったお人はさ。
  もちろん、チビ。あんたも連れてくよ。ずうっと一緒だからね」

 ニャア、ニャア!
 嬉しそうなおつやの顔が見られるなら、チビはいいと思えた。
 それに……。
 栄次郎は、皆が無視するチビにも話しかけてくれる。

 「チビや。そこにいるんだろ? ぼんやりだけど、見えてるよ。
  アタシは、蒲柳の質でねぇ。ずっと寝たり起きたりのくり返しさ。
  ようやく、少しマシになってきてねぇ。
  おつやちゃんに出会えたのは、僥倖だったよ。
  皆が見えないチビが見えるのも、この質のおかげかねぇ?
  それなら、この弱い体も捨てたもんじゃ無いのかも知れないねぇ」

 ミャア!
 チビがひと鳴きすると、栄次郎はふふふと笑って撫でてくれる。

 「なるべく長くおつやちゃんといられるように。
  アタシも励むからさ。チビも助けておくれよ?」

 チビは、満ち足りていた。
 おつやと栄次郎は、幸せそうに笑っている。
 久助という弟分も出来た。
 小さな久助は、チビの姿が見えてはいないようだ。
 それでも、チビは構わない。
 久助は、おつやと栄次郎の宝ものだから、チビにも宝だ。
 ずっとずっと、皆がいればいい。
 あぁ。
 この幸せが続くためならば、チビはなんだってするつもりだ。


 *****

 グスッ、グスグス。
 繭玉が見せる染みを見ていた巳之吉が、さっきからうるさい。
 両のまなこからは涙をあふれさせ、鼻水は止めどなく流れる。
 桔梗は、そんな巳之吉に呆れる素振りも見せず、スッと手拭いを差し出す。

 「おぅ……。すまねぇな、桔梗よぅ。
  俺ァ、こういうのに弱くっていけねぇ。
  事の顛末を知ってると、ますますいけねぇ。
  どうして、このまま幸せじゃあいけねぇんだって思っちまう」
 「はい……」
 「おっと。でも手拭いは、平気だぜ。俺ァ、俺の手拭いが……」

 そう言いながら、巳之吉が帯に手をかけると、そこで気がつく。

 「あぁ、そうだ。俺のは、さっき……」
 「ええ。いいんですよ。私のをお使いください」
 「けどよ。おまえさんのは、なんだか汚しちゃならねぇ気がしてよ?」
 「手拭いは、汚れるもの。どうかお気になさらず」
 「そ、そうかい? それじゃあ……」

 桔梗の手拭いを受け取ると、巳之吉は、ぐしゃぐしゃの顔を拭う。
 その手拭いからは、どこかで嗅いだことのあるような香りがする。
 けれど、どこで嗅いだものなのか巳之吉は思い出せない。
 スッキリした顔の巳之吉に、桔梗が言う。

 「あぁ、ほら。もう少し、見せたいものがあるようです」

 ぐにゃり。
 幸せそうな景色が歪む。
 川べりに咲く露草が、その可憐な姿を揺らしている。
 どこかの水辺に灯る光のチカチカは、身を焦がす蛍か。

 ピタリ。
 動きを止めた繭玉の染みが、次に見せたものは死にかけの男の姿。
 ゴホッ、ゴホッ。ゲフッ、ゲフゲフ。
 ヒューーー、ヒュー。
 咳き込んでいるのは、栄次郎。
 喉からは、隙間風のような音が止まない。
 ずいぶんと頬がこけている。
 目は虚ろで、宙をぼんやりと見ている。

 「栄さん! 今、帰ったよ。今日はねぇ、滋養のつくもんをさ……」

 長屋の戸が開くと共に、おつやの声が聞こえてくる。
 その声は、栄次郎の虚ろな目の光をこの世に呼び戻す。
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