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第一章
第1話 カラスが鳴いた日
しおりを挟む中華の都、煌都。香の煙と喧騒の絶えないこの街は、表では豪華絢爛な宮廷文化が息づき、裏では闇社会が蠢いていた。
その一角に、名家・線勾家があった。豪商として栄えたその屋敷には、幼き兄妹の笑い声が絶えなかった。
長男──香鳥。その子は天真爛漫で、妹に花を編んでやるのが日課の、まるで天使のような少年だった。
庭には蓮池が広がり、季節ごとに色とりどりの花が咲き誇る。夏の夕暮れ、縁側では一家の笑い声が響いていた。
「兄上!ほら見て!お花で冠つくったの!」
妹の華美が誇らしげに頭上をかかげる。まだ幼い少女は、無邪気な笑顔で兄を見上げた。
「わぁ、よくできてるね。さすが花香!お返しに僕も編んであげるね」
器用な手つきで花冠を作り妹の頭にそっと載せた。
「ほら、華美。お姫さまみたいだ」
両親はその様子を優しく見守っていた。
父は深い声で笑いながら、「香鳥、将来は商いよりも花屋が似合うかもしれんな」と冗談を言い、母は「どちらにせよ、人を喜ばせる心を持つのは良いことよ」と目を細めた。
そのときの香鳥は、誰よりも純粋で、誰よりも家族を愛していた。
***
夕暮れの市は、提灯が灯りはじめ、人々のざわめきと香辛料の匂いで賑わっていた。
香鳥は買い物籠を抱えて、軽やかに道を駆け抜けていた。妹にせがまれた甘味をこっそり忍ばせ、帰ったら驚かせてやろうと胸を躍らせて。
「ふふ、華美。喜んでくれるかな?」
「……!」
妹の笑顔に胸を馳せているのも束の間、屋敷の門の前で、その足は止まった。門番の従者が二人、倒れていたからだ。白目を剥き、喉から血を垂らして。
籠が手から滑り落ち、甘味が石畳に転がる。心臓が嫌な音を立てる。足は勝手に走り出していた。廊下に踏み入れた瞬間、鼻腔を突いたのは鉄臭い匂い。赤黒く染まった畳。切り裂かれた屏風。壁にかけられた絵は血で汚され、まるで地獄絵図のように見えた。
「……母様? 父様?」
声は震え、返事はなかった。
居間の扉を開け放った時、香鳥の世界は色を失った。そこにあったのは、両親の無惨な姿だった。
父は胸を深々と貫かれ、母はその胸にすがるように倒れている。まるで最後まで寄り添うことを選んだかのように。
血が二人を結びつけていた。
さらに奥。妹の華美が、畳の上に倒れていた。小さな体は刃で切り裂かれ、伸ばした手は、まるで「兄を待っていた」かのように宙に向かって止まっていた。
「――――ぁ」
声が出ない。喉が焼ける。
視界が赤く揺れ、膝から力が抜けた。
「は、なび……?」
その時、不意に背後から声がした。
「……遅かったな、坊ちゃん」
振り返れば、紅蓮幇の黒装束の男たちが、血に濡れた刀を下げて立っていた。
先頭の大柄な男が、唇を歪める。
「大事なもんは、みんな壊してやったよ。お前もすぐに仲間入りだ」
その言葉で、香鳥の胸の奥が軋んだ。
血の匂いが喉の奥まで満ちて、世界が遠くなる。目の前の景色は、まるで分厚い硝子越しに見るようにぼやけて見える。紅蓮幇の男
――先頭の大柄な男が、血の滴る刀を肩に下げてこちらを見下ろしている。唇の端で薄く笑いが浮かんでいるのが見えた。
「ここのもんはつまんねぇなぁ、本当に平和ボケした所への襲撃はおもんねぇ。ほらよ」
そう言いながら男は香鳥の側に短剣を投げつけた。
「……」
「これでも使って抵抗してみろよ。坊ちゃん」
何もかもが失ったばかりの幼い体は鉛のように重く、足は地面に根を張ったように動かない。短刀を握るはずの右手は、指先がしびれているみたいに動かない。
頭の中では「動け、動け」と何度も自分を叩いている声があるのに、筋肉が命令を聞かない。心臓は破裂しそうに速く打っているのに、その鼓動が遠い太鼓の音のようにしか届かない。
男がゆっくりとこちらへ近づく。刃先が光り、空気が冷たく震える。鼻先をかすめる血の匂い、床に落ちた華美の髪飾りの色、母の着物の襟に跳ねた赤——断片が目に刺さる。目の前で動くその手を、どうにか止めたくて必死で体を動かそうとするが、まるで別の人間の体を着せられているように、
何もできない。
(なんで、?なんで動かないの?やだ、なんで…)
男は足元に蹲り、低く鼻で笑った。
「お前、何もできねぇのか?」
「………ッ!」
その言葉は嘲笑であり硝煙だった。胸の奥で、凍ったように固まっていた何かが音を立てて砕けた。怒りが、初めて鈍い痛みとして身体に戻ってくるが、その瞬間にはまだ手は震え、刃を振るう力は湧かなかった。
ただ、唇の端から出たのは震える声でも叫ぶ事でもない。微かな息遣いだけだった。
動けない自分が情けなくて、屈辱に腹が煮えくり返る。
だがその屈辱が、あとで刃となることだけはわかっている。勝ち目がないと分かっている今はただ、目の前の男たちから逃げなければならない。必死に、必死に逃げなければならない。たとえ足がちぎれようとも。
香鳥は死体の匂いの中で、震えながらも必死に足を動かした。
自分の足だけが最後の微かな希望でしか無かった。
涙は流れない。ただ、血のように濃い怒りが、心臓を焼き尽くした。
「……殺す」
幼い声には似つかわしくない、低い呟きだった。
その夜、香鳥の「天使のような心」は完全に崩れ落ち、血に染まった。
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