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第2話|何も語らず去る令嬢
しおりを挟む「あなたを、このまま一人で去らせるわけにはいかない」
公爵の言葉に、私は首を横に振った。
「お気遣いは嬉しいですが、公爵様。あなたまで私に関わっては、あなたの立場が危うくなります」
「私の立場など、どうでもいい」
公爵は即座に答えた。その口調には、一切の迷いがない。
「それに、あなたは誤解している。私は同情でこう言っているのではない」
「では?」
「興味があるのだ。あなたという人間に」
公爵の黒い瞳が、月明かりの中で私を捉える。
「国のために自らを犠牲にする。しかも誰にも語らず、誰にも理解されないまま――そんな生き方を選んだ人間を、私は初めて見た」
「それは……買いかぶりすぎです」
「そうだろうか」
公爵は窓辺に歩み寄り、外を見た。
「明日、あなたは王都を去る。おそらく国境近くの辺境へ向かうつもりだろう」
その推測は正しかった。私は驚きを隠せない。
「なぜ、それを?」
「あなたの領地は北の辺境にある。そして最近、隣国との国境付近で小競り合いが増えている。あなたはそこへ向かうつもりだ」
「……」
「違うか?」
私は何も答えられなかった。公爵の洞察力は、恐ろしいほど鋭い。
「エリアナ・ヴェルノン。あなたは王都を追放されてもなお、この国を守ろうとしている」
「私は、ただ……」
「いい。今は答えなくていい」
公爵は私に向き直った。
「だが、覚えておいてほしい。あなたが一人で戦う時代は終わった。少なくとも、私はあなたを見ている」
そう言って、公爵は部屋を出ていった。
残された私は、窓の外の月を見上げた。
誰かに見られている――その事実が、不思議なほど胸を温かくした。
-----
翌朝、夜明け前。
私は簡素な旅装に身を包み、屋敷を後にした。
馬車には最小限の荷物だけ。使用人たちは昨夜のうちにすべて解雇した。誰も巻き込むわけにはいかない。
「お嬢様……」
馬車の陰から、マリアが現れた。
「マリア! どうして」
「最後まで、お嬢様のお傍にいたいんです」
彼女の目は真っ赤だった。きっと一晩中泣いていたのだろう。
「ダメよ。あなたには未来がある。私のような追放者についていくべきじゃない」
「でも……」
「マリア」
私は彼女の手を取った。
「あなたは良い子だから、きっとすぐに新しい仕事が見つかる。王都で幸せになって」
「お嬢様……」
「これは、命令よ」
私は努めて微笑んだ。
マリアは唇を噛み締めながら、深々と頭を下げた。
「お嬢様が……どんなに優しい方か、私は知っています。いつか、きっと誰かがわかってくれます」
「ありがとう、マリア」
私は彼女を抱きしめた。これが最後だと分かっていたから。
-----
馬車が王都の門を出る頃には、朝日が昇り始めていた。
振り返ると、白亜の王宮が朝焼けに染まっている。
あの場所で過ごした日々――それは決して楽しいものではなかった。
常に気を張り詰め、誰も信じることができず、一人で策を巡らせ続けた。
だが、後悔はしていない。
「これで、あの国はしばらく持つでしょう」
私は小さく呟いた。
王太子殿下とルシア様が結ばれれば、王宮には新しい風が吹く。私が暴いた貴族たちの汚職も、しばらくは沈静化するだろう。
私という「共通の敵」を失った派閥たちは、一時的に静観するはずだ。
その間に、殿下が成長してくれれば――この国は、きっと大丈夫だ。
「お嬢様」
御者が声をかけてきた。老いた御者は、唯一私についてきてくれた使用人だった。
「どうしたの、セバスチャン」
「道の先に、馬車が止まっております」
「馬車?」
私は窓から外を見た。
確かに、黒い馬車が一台、道の真ん中に止まっている。そして、その傍らに立つ長身の人影。
「公爵様……?」
ディートリヒ・フォン・シュタインベルク公爵が、私の馬車を待っていた。
私の馬車が止まると、公爵が近づいてきた。
「おはよう、エリアナ・ヴェルノン」
「公爵様、どうしてここに」
「見送りに来た」
そう言って、公爵は懐から一通の手紙を差し出した。
「これは?」
「私の領地への通行証と、推薦状だ。もし辺境での生活に困ることがあれば、私の領地へ来るといい」
「そんな……受け取れません」
「なぜだ?」
「公爵様が、追放者の私を庇えば……」
「私を誰だと思っている」
公爵は僅かに笑みを浮かべた。
「冷酷公爵と恐れられるこの私だ。誰も逆らえない」
その言葉に、私は思わず小さく笑ってしまった。
「公爵様は、冷酷ではありませんね」
「そうか? 世間の評価は違うが」
「少なくとも、今の私にとっては」
私は手紙を受け取った。
「ありがとうございます。大切にします」
「それと、もう一つ」
公爵は真剣な表情になった。
「あなたが辺境で何をしようとしているのか、私には分かる。だが、無理はするな」
「……」
「あなたは十分にやった。これ以上、一人で背負い込む必要はない」
「でも、国境の情勢が……」
「それは私が調査する」
公爵の言葉に、私は目を見開いた。
「公爵様が?」
「ああ。あなたが気にしている隣国との小競り合い、あれは偶発的なものではない。誰かが意図的に緊張状態を作り出している」
「やはり……」
「あなたも気づいていたのか」
私は頷いた。
「最近の国境での衝突は、あまりにもタイミングが良すぎます。まるで誰かが、王宮の注意を外へ向けさせようとしているような」
「その通りだ」
公爵は腕を組んだ。
「おそらく、あなたが暴いた貴族たちの残党が動いている。彼らは王宮内での失地を回復するため、外部に混乱を作り出そうとしている」
「では、私が辺境に行っても……」
「無駄だ。いや、危険だ」
公爵は私を見据えた。
「彼らはあなたを恨んでいる。辺境であなたを亡き者にしようとする可能性もある」
「それでも、私は行きます」
私は決意を込めて言った。
「もし本当に貴族たちの残党が動いているなら、現地の状況を把握する必要があります。王宮にいる殿下たちでは、すぐに動けない」
「エリアナ……」
「大丈夫です。私は一人で生き延びる術を知っています」
公爵は長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……分かった。だが、条件がある」
「条件?」
「月に一度、私に手紙を送れ。状況報告でいい。それさえしてくれれば、私はあなたの選択を尊重する」
「それは……」
「これは交渉ではない。命令だ」
公爵の口調は厳しかったが、その瞳には――心配の色があった。
「……分かりました。約束します」
「よし」
公爵は馬車に戻りかけたが、途中で振り返った。
「エリアナ・ヴェルノン」
「はい」
「あなたは、もう一人じゃない。それを忘れるな」
その言葉を残して、公爵は馬車に乗り込んだ。
黒い馬車が去っていくのを見送りながら、私は胸に手を当てた。
温かい。
誰かに心配されること。誰かに見守られること。
それがこんなにも、心を満たすものだとは知らなかった。
-----
王都から三日の道のり。
私は辺境の小さな村に到着した。
ここは私の領地の端、隣国との国境まで半日の距離にある場所だった。
「ここが……」
村は小さく、質素だった。だが人々の表情は明るく、子供たちが元気に走り回っている。
私はこの村を守るために来た。
王宮では誰も気にしない、名もない小さな村。だが、ここに住む人々の命は、貴族たちの命と同じように大切なものだ。
「すみません」
私は村の入り口で作業をしていた老人に声をかけた。
「この村の村長さんのお宅を教えていただけますか?」
「村長? ああ、あの家だ」
老人が指差す方向に、少し大きな家が見えた。
「ありがとうございます」
「お嬢さん、旅の方かい?」
「ええ、少しの間、この村に滞在させていただこうと思って」
「そうかい。なら、気をつけなされ」
「気をつける?」
老人は声を潜めた。
「最近、国境の方が物騒でね。夜になると、怪しい連中が行き来してるらしい」
「怪しい連中……」
「ああ。村の若い衆が何人か、様子を見に行ったきり帰ってこないんだ」
私の背筋に緊張が走った。
やはり、何かが起きている。
「分かりました。ありがとうございます」
私は村長の家へと向かった。
辺境での新しい生活が、今始まる。
そして私は――まだ知らない。
この小さな村で起きている出来事が、やがて王国全体を揺るがす大きな陰謀の一端であることを。
-----
その頃、王都では。
王太子アレクシスは、執務室で書類に目を通していた。
「殿下、エリアナ様が王都を発たれたそうです」
侍従が報告する。
「……そうか」
アレクシスは短く答えただけだった。
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これまでエリアナがいた頃は、常に何かしらの問題が起きていた。貴族の諍い、予算の問題、人事の混乱。
だが今は、驚くほど静かだ。
「これでいい。ルシアと、平和な日々が送れる」
アレクシスは自分にそう言い聞かせた。
だが、胸の奥に引っかかる小さな違和感を、彼はまだ無視していた。
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