名前を捨てた王女と、踊り子の恋― 人形王女の選択 ―

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第11話 触れない距離で、確かに近づく

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あの夜から、私の中の何かが、少しだけ狂った。

それは壊れる、というほど大げさなものではない。歯車が一枚、ほんのわずかにズレた程度。

けれど、そのズレは、確実に私の日常に音を立て始めていた。

---

## ◆

朝。いつものノック。いつもの声。

「エレオノーラ殿下。起床のお時間です」

「……はい」

返事は、いつも通り。声の高さも、間も、正しい。

なのに。

ベッドから起き上がるとき、胸の奥に、かすかな期待があった。

――今日は、あの踊り子に会えるだろうか。

その考えに、はっとする。

……なぜ?

会う理由なんて、どこにもない。彼は、ただの余興の踊り子だ。もう、城にいる理由もないはず。

それなのに、心は勝手に、彼の姿を探している。



鏡の前で、髪を梳かしてもらう。

いつもと同じ儀式。

でも、今日は少しだけ、鏡に映る自分の顔が違って見えた。

口元が、わずかに緩んでいる。

「……殿下?」

侍女が、不思議そうに見る。

「何でもありません」

慌てて、表情を戻す。

でも、心の奥では、何かが変わり始めている。

---

## ◆

午前の講義は、いつもより長く感じた。

歴史の話も、外交の作法も、頭には入ってくる。教師の言葉に頷いて、問われれば答える。全部、正しく。全部、完璧に。

けれど、胸の奥では、別の思考が、静かに揺れていた。

――孤独そうだった。

あの夜、中庭で。

まだ誰とも話していないのに、なぜかその言葉が頭に浮かぶ。

まるで、誰かがそう言ったみたいに。



「殿下、お聞きですか?」

教師の声に、はっとする。

「……はい、もちろん」

嘘だった。

何も聞いていなかった。

教師は、少し眉をひそめたが、何も言わずに講義を続ける。

――集中しなければ。

そう自分に言い聞かせる。

でも、心は、どこか別の場所にあった。

---

## ◆

午後、私は理由をつけて中庭へ出た。

「少し、空気を吸いたいので」

侍女に告げると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。

「……お一人で、よろしいのですか?」

「ええ。すぐに戻ります」

自分で決めた、行動。

それだけで、胸が少しざわつく。まるで、何か悪いことをしているみたいに。



石畳を踏みしめ、中庭へ向かう。

風が、優しく吹く。

葉が揺れる音が、心地いい。

――もし、誰もいなかったら。

その時は、その時だ。なぜか、そう思えた。



中庭に出る。

最初は、誰もいないように見えた。

でも。

柱の影に、人影が見える。

心臓が、跳ねる。



近づくと、その人影が動いた。

振り返る。

――彼だ。

深紅の衣装ではない、簡素な服を着た男。

黒髪。穏やかな表情。

あの、踊り子。



「あ」

彼の方が、先に声を漏らした。

「……殿下」

少し驚いたように、けれど、すぐに穏やかに笑う。

胸が、きゅっと鳴った。
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