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狂気の渦から、
しおりを挟む「シェル、シェリクス」
ハイドが、ハイドリヒが俺の名を呼んでいる。
涙でぐしゃぐしゃになりながら、必死に俺を呼びかけている。
ああ、ようやく呼んでくれた。
そんなちっぽけなことで、俺の心は簡単に満たされて───そして、すぐに底を尽きた。
なあ、そんな遠くにいないでもっと近くに来いよ。お前がそばにいないと怖くて怖くて堪らないんだ。
もっと近く、もっと近く。
俺とお前が溶け込んで、ひとつになってしまうくらいに。
『それは出来ないよ。君と彼の縁は、あの時きれてしまったんだ』
切れた糸を手繰り寄せるように、惨めたらしく手を伸ばす俺を、誰かが冷めた声で制止する。
……あいつによく似た語り口調が気に食わない。誰だお前は。邪魔をするな。
『別に。なんでもいいでしょ?それより君、その手で彼をどうするつもりさ?』
何って、決まってるだろう。あいつと一緒になるんだ。
『そうかい。僕には君が、彼を地獄に引き摺り込む蜘蛛のように見えたけどね』
ふぅん、お前は目が悪いな。俺は綺麗で気高い黒豹なんだ。『黒豹騎士』って渾名もハイドリヒがつけたんだぞ。
思わずふふんと鼻を鳴らす俺に、ハイドもどきは困ったように笑った。
………おい、何故そんな顔をする。かっこいいだろう?黒豹騎士。俺のハイドに近づく野蛮なクズ共をばっさばっさ切り倒すんだ。
『──はぁ、相変わらず自分大好きだね、君は……』
ハイドもどき何かブツブツと呟いている。どうやら俺のハイドのセンスの良さに心を打たれたらしい。
それよりも聞き捨てならないことを聞いた。自分大好きだと?当たり前だ。ハイドの番は、綺麗で可愛くてかっこよくて強くて人類の最高傑作なんだぞ。最高だろう。まあ俺だけどな。
『……ほんと、相変わらず。今の自分の状況わかってるのかなぁ……もう君は、彼の番じゃないんだよ』
………ハイドリヒが呼んでる。もう行かなくちゃ。
『行ってどうするの?彼は君の番じゃないよ』
知るか。他の奴のモノになるなんて許さない。その前に殺してやるのさ。
『……意味わかんない。それが出来ないから現実であーなってるんでしょ』
…………なあ、どうしてだ?あいつが俺の番じゃないなら、どうして俺は、今だってこんなにもあいつが欲しくて堪らないんだ。どうしてあいつは俺を拒絶しない?
『それはそうだよ。君たちは前世まで、確かに番だったんだから』
…………は?
『長い間交わってきた君たちの縁は、前世に突然プツリと切れたんだ』
そんなこと、ありえるのか。
『ありえるよ。禁忌を犯せばね』
………信じられない。
まさか、なんで、誰が何のためにそんなことをしたんだ。
『わかんない?』
『彼の、同胞だよ』
……ハイドが孕ませてた奴か。
『そ。……意外に冷静だね。てっきり取り乱すかと思ったけど………随分元気になったんだね』
確かにそうだ。俺、なんでこんなに冷静なんだろう。
『殺すの?』
だれを?
『今世の彼』
当たり前だ。ハイドに本物の番なんていらない。
思い知らせてやるんだ。あいつにも、あいつの運命にも、俺にも。
『………そう』
………とにかく、前世どうして俺が捨てられたかはわかった。
だが、お前の言い分だともう今世は番ではないのだろう?何故ハイドは俺を番だと思っているんだ。
『番だよ』
………は?
『いや、偽物だけど、ある意味本物というか……』
何言ってるんだお前。
『……まあ、正気に戻ったらわかるよ』
そういえば自分で言うのもなんだが、今の俺は比較的マトモだ。今更だがどこだここは。いや本当に今更だな。
先ほどまでハイドの声に耳を傾け、どす黒い感情の沼を彷徨っていたのに、急に腕を引っ張られて太陽の下にすくいあげられたような感覚だ。
ゆっくりと物を考えるのは実に久しぶりだった。この男の声にはリラックス効果でもあるのだろうか。
顔を拝んでみたいが、生憎視界は閉ざされていて何も見えない。
『悪いけど君の精神に介入させてもらったよ。僕はもうこの世の人間じゃないからね』
どうして俺やハイドのことを知っている?何故わざわざご丁寧に事情を説明してくれたんだ。
お前、だれだ?
神とか言わないよな。
『神様だなんて、君らしくもない。スピリチュアル的なこと大嫌いだろ?そんなたいそうなものじゃないよ────それより、僕の今の話を聞いて君はどうするの?』
『………そう、もう少しお眠り。次に目が覚めた時は、君は立派な黒豹騎士だ……シェル』
────ハイドの、声がする。
都合よくおそってくる睡魔に、俺はゆっくりと身を任せた。
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