赤の系譜

濯見 羊佑

文字の大きさ
3 / 10
赤い虎

しおりを挟む
 義信が躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたの居館に戻ってくると、正室のおつねが待っていた。武家の妻というより、公家の娘のような上品さと柔らかさがある。義信は妻をおつねしか娶っておらず、一途に愛していた。

 おつねは義信に微笑みかけると、義信も笑顔で返した。

「あら、義信様。何かありましたか?」
「ん。何もないが」
「嘘。義信様が満天の笑みを浮かべているときは、何かを隠しているときですのに」
「ははは。おつねは何もかもお見通しだな」

 義信は肩をいからせていることに気付き、力を抜いた。これだけの動作なのに、気持ちがらくになった気がする。おつねのおかげだろうか。

「少しばかり決心をしてきたのだ」
「決心?」

 おつねは義信の顔を覗きこんできた。 

「御館様との関係ですかね。今は武田家が一丸となるとき。私のことは考えなくても良いのですよ」
「そういうな。わしはそちにこれ以上悲しい想いをさせたくないのだ」
「有り難いお言葉。しかし、義信様は武田家の跡取り。お家を第一に考えてください」
「当然だ。全ては武田の未来のため。力と恐怖で人を繋ぐ父のやり方は間違っておる。わしは慈悲で絆を築きたい。ふふ、理想論だと笑うか?」
「立派なお考えです」
「うむ。とはいえ、まだわしにその力はない。まずは目に見える所からじゃ。自分の妻すら幸せにできない男に何か変えられるわけがないからな」

 義信はおつねの白く細い手を引き寄せると、胸に抱えこんだ。今にも折れそうなうなじから、香のかおりがする。

「そちは何も心配するでない。わしが守るでな」

 義信は胸にうずくまったおつねの肩に手を回し、天井をぼっと見つめていた。小さい肩だ。おつねだけは守りたい。いや、守る。何があっても守るのだ。

 義信と信玄の確執は退くに退けないところまで来ていた。

(わしは断じて間違っていない)

 義信は唇を強く噛み締めた。

 そもそも確執の原因はどこにあるのか。
 話は一月前にさかのぼる。

 信玄と義信は向かい合い激しく口論をしていた。
 三国同盟(甲斐・駿河・相模)の存続についてもめていたのである。

「父上。三国同盟を破棄するとは本当ですか?」
「本当だ」
「それは駿河(静岡県)を攻めるということですか?」
「そうだ」
 
 義信は唾を飲んだ。

 駿河の今川義元が桶狭間の戦いで討たれてから今川家は急速に力を失い、同盟国としての意味をなさなくなった。
 信玄の戦略は領地拡大にある。甲斐は貧しい国なため、領地を広げるしか国を富ませる術がない。弱小国となった今川家を新しい標的としたかったのである。
 しかし、義信は同盟破棄を呑むことはできなかった。
 妻のおつねが今は亡き今川義元の娘なのである。父に先立たれたうえ、故郷を戦地に晒されるなど、あまりに可哀想ではないか。

 義信は目を見開き、信玄の目を見据えたまま、まくし立てた。

「父上。お言葉ですが、三国同盟は武田の屋台骨。それを破棄するなどもってのほか」
「屋台骨などとうの昔。いまや今川に力などない。均衡は崩れ、三国同盟はすでに終わったようなものなのだ。妻が気になるか? お前の妻は今川義元の娘だ。今川家に人情でも湧いたか?」
「ち……、違います! 同盟国を裏切って攻めるなどすれば天下から信用を失います。このような行いに、誰が着いてきましょう?」
「世迷いごとを。乱世は弱肉強食だ。弱きものを強きものが喰う。自然の摂理ではないか。強さこそが正義なのだ。強ければ誰もが従う。信用とはそういうことではないか? 勝たせてくれる者こそが信用を持つ」
「強さは正義、おっしゃる通りです。しかし、人には心というものがあります。恐怖で支配するだ」
「黙れ! やはり人情が湧いたか。心を鬼に徹しきれんものは武田にはいらん。帰れ」
「父上!」
「帰れ!」

 二人はそれ以来会っていない。
 義信は父の意見に屈する気は毛頭なかった。自分の考えが間違っているとも思わないし、気持ちでは既に父と同格のつもりでいた。川中島の戦いでも武功を上げており自信もついてきている。
 何より、虎昌という武田最強の槍が味方なのだ。

(父上は間違っている)

 義信は信玄と対立することで、より一層強固な信念を持っていった。それは今も変わらない。

「いたいっ」

 気付くと、義信は強い力でおつねを抱きしめており、慌てて離した。

「すまん」
「いえ、いいのです。義信様、これだけは覚えておいてください。私よりもお家を優先すること。義信様は優しすぎますから」

 おつねは一礼すると、小走りで去っていった。

 家が優先。わかっている。
 ただ、武田家の未来を思うにしても、やはり同盟国が弱まったからといって刃を向けるべきではない。
 何度自問自答しても、たどり着く答えは同じだった。
 信玄を説得するなど無理な話なのだ。ならば方法は一つしかない。

(やるしかない)

 義信は呪詛を唱えるように、何度も何度も復唱した。

 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...