179 / 581
事例2 美食家の悪食【事件篇】
38
しおりを挟む
安野が感嘆の声を漏らす。縁は両手を口に添えて、大きく息を吸い込んだ。尾崎は呆然と、ビニールシートの下に現れた見覚えのある顔を見下ろしていた。
「ミサトちゃん――。どうして?」
そう、そこに仰向けで横たわっていたのは、ほんの数時間前まで一緒にいたはずのミサトだった。頭は見事なまでにかち割られ、そして虚ろな瞳が空を見上げている。すっかりと変わり果ててしまってはいたが、それは間違いなくミサトであった。
人の命の価値というものは、どれも平等である。それは分かっているつもりではあるが、ほんの少し前まで言葉を交わし、そして同じ空間にいた人間が、変わり果てた姿で横たわっているというのは、正直なところショックが大きかった。昔からミサトのことを知っており、そして嬉しそうに名刺を眺めていた安野からすれば、なおさらのことであろう。
絶句――。安野、縁、尾崎の三人は、ミサトの変わり果てた姿に、しばらく言葉も出なかった。いつもならば、遺体を直視することにすら拒絶反応が出る縁であるが、今日はいつもと違って遺体に向き合うことができていた。きっと、本能的なものよりも怒りと悲しみの感情が勝っていたからなのかもしれない。
「――麻田、今ちょっと現場を抜けられるか?」
長い沈黙の後、安野が溜め息混じりに口を開いた。それの意味を察した麻田が「ちょっとだけならね。ママに電話を入れておけばいい?」と漏らす。安野はかすれた声で「あぁ、頼む」とだけ呟いた。遅かれ早かれ訃報はママの元へと届けられることであろう。しかしながら、安野は一刻も早く知らせてやりたかったのかもしれない。正式な手続きを踏まずにミサトが殺害されたことをママに伝えるのは、きっと守秘義務に反することであろう。しかしながら、これくらいのことは許されるべきである。――規則より大切なものは、数え切れないほどあるのだから。
現場から離れる麻田の姿を見送り、改めてミサトのほうへと視線を移すと、今度は沸々と怒りが湧いてきた。無意識に拳を握りしめた自分がいる。それは、凶悪な事件が起きているにもかかわらず、悠長に酒なんて飲んだ自分達に対して、そしてミサトの命を奪った殺人鬼に対して向けられたものだった。
――遺体を調べるなんてどころの話ではなかった。自分達の愚かさと無力さを突き付けられ、ただただ心の中でミサトに謝罪することしかできない。つい数時間前までは元気だったのに。ようやく夢に向かって大きな一歩を踏み出し、希望に満ちあふれていたというのに。どうして彼女が殺されなければならなかったのであろう。
「ミサトちゃん――すまん」
安野は深々と頭を下げると、そのままの姿勢で固まった。現場の慌ただしさの中に、鼻をすする音が聞こえたように思えたのは、きっと気のせいではないのだろう。しばらくすると目尻を拭い、安野は改めて手を合わせた。縁達も手を合わせる。そこには冥福を祈るというニュアンスよりも、申し訳なかったという謝罪の意味が強く込められていた。
「ミサトちゃん――。どうして?」
そう、そこに仰向けで横たわっていたのは、ほんの数時間前まで一緒にいたはずのミサトだった。頭は見事なまでにかち割られ、そして虚ろな瞳が空を見上げている。すっかりと変わり果ててしまってはいたが、それは間違いなくミサトであった。
人の命の価値というものは、どれも平等である。それは分かっているつもりではあるが、ほんの少し前まで言葉を交わし、そして同じ空間にいた人間が、変わり果てた姿で横たわっているというのは、正直なところショックが大きかった。昔からミサトのことを知っており、そして嬉しそうに名刺を眺めていた安野からすれば、なおさらのことであろう。
絶句――。安野、縁、尾崎の三人は、ミサトの変わり果てた姿に、しばらく言葉も出なかった。いつもならば、遺体を直視することにすら拒絶反応が出る縁であるが、今日はいつもと違って遺体に向き合うことができていた。きっと、本能的なものよりも怒りと悲しみの感情が勝っていたからなのかもしれない。
「――麻田、今ちょっと現場を抜けられるか?」
長い沈黙の後、安野が溜め息混じりに口を開いた。それの意味を察した麻田が「ちょっとだけならね。ママに電話を入れておけばいい?」と漏らす。安野はかすれた声で「あぁ、頼む」とだけ呟いた。遅かれ早かれ訃報はママの元へと届けられることであろう。しかしながら、安野は一刻も早く知らせてやりたかったのかもしれない。正式な手続きを踏まずにミサトが殺害されたことをママに伝えるのは、きっと守秘義務に反することであろう。しかしながら、これくらいのことは許されるべきである。――規則より大切なものは、数え切れないほどあるのだから。
現場から離れる麻田の姿を見送り、改めてミサトのほうへと視線を移すと、今度は沸々と怒りが湧いてきた。無意識に拳を握りしめた自分がいる。それは、凶悪な事件が起きているにもかかわらず、悠長に酒なんて飲んだ自分達に対して、そしてミサトの命を奪った殺人鬼に対して向けられたものだった。
――遺体を調べるなんてどころの話ではなかった。自分達の愚かさと無力さを突き付けられ、ただただ心の中でミサトに謝罪することしかできない。つい数時間前までは元気だったのに。ようやく夢に向かって大きな一歩を踏み出し、希望に満ちあふれていたというのに。どうして彼女が殺されなければならなかったのであろう。
「ミサトちゃん――すまん」
安野は深々と頭を下げると、そのままの姿勢で固まった。現場の慌ただしさの中に、鼻をすする音が聞こえたように思えたのは、きっと気のせいではないのだろう。しばらくすると目尻を拭い、安野は改めて手を合わせた。縁達も手を合わせる。そこには冥福を祈るというニュアンスよりも、申し訳なかったという謝罪の意味が強く込められていた。
2
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる