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第二章 動き出す狂気【過去 宝田羽衣】
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心許ない明かりであるし、引き返すべき方向は分かっているのだから、そこまでこだわる必要なんてなかった。ペンライトなんてなくとも、ミノタウロスの森の出口までなら向かえる。けれども、ペンライトに手を伸ばそうとしたのは、その小さな明かりに安心感を得たかったからなのか。
次の瞬間、足首を何かに掴まれた。暗闇の中だから、何に掴まれたのかは分からない。ただ、タヌキは人の足首を掴んだりはしない。ウサギにも無理だろう。大きさとしては熊ならば可能かもしれないが、人間の足首を掴むという器用な真似ができるとは思えない。
――人だろう。ごく当たり前のことかもしれないが、こんなことをするのは、まず第一に人間だ。気づきたくなかったことに気づいた途端、掴まれた足首を強く引っ張られた。物凄い力で引っ張られた羽衣は、元より体重が軽いこともあって、なすすべもなく引っ張られた。
目の前に見えている鬱蒼とした木々が、物凄い早さで動き出す。と、思ったら、緑の匂いに顔を撫でられた。茂みの中に引き込まれたのだ。
ここでようやく声が出た。それは悲鳴なんてものではなく、もっと情けない濁音の垂れ流しのようなものだった。
パニック。とにもかくにもパニック。状況が激しく移り変わり、脳の処理が全くついてきてくれない。
ようやく目の前の景色が再び拓けるまで、どれくらいの時間を要したのだろうか。ほんの一瞬だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。しかし、羽衣からすれば、数時間にも感じられた。
呼吸をする。呼吸を繰り返す。それが深呼吸へと変わり、次第に頭が状況を理解しようとしていく。一体何が起きたのか。いつしか足首を掴まれている感覚はなくなっていた。
「ひっ――!」
暗闇の中にぬっと現れたそれに、羽衣は思わず声を上げてしまった。牛――牛だった。水牛と言ったほうが正しいか。乳牛ではなく、背景の漆黒に溶け込んでしまいそうな茶毛の牛。それの顔が目の前に現れたのだ。
もしかして、ミノタウロスなのか。これこそがミノタウロスなのか。暗闇の中でわけが分からないが、しかし目の前に牛の顔があることだけは間違いなかった。
「ミッ、ミノタウロス――」
震える声を絞り出すと、そのシルエットがゆっくりと振りかぶったような気がした。その先のことは――もう分からなかった。いいや、命というものを失ってしまった彼女にとって、もはや不要なものになってしまったのだった。
次の瞬間、足首を何かに掴まれた。暗闇の中だから、何に掴まれたのかは分からない。ただ、タヌキは人の足首を掴んだりはしない。ウサギにも無理だろう。大きさとしては熊ならば可能かもしれないが、人間の足首を掴むという器用な真似ができるとは思えない。
――人だろう。ごく当たり前のことかもしれないが、こんなことをするのは、まず第一に人間だ。気づきたくなかったことに気づいた途端、掴まれた足首を強く引っ張られた。物凄い力で引っ張られた羽衣は、元より体重が軽いこともあって、なすすべもなく引っ張られた。
目の前に見えている鬱蒼とした木々が、物凄い早さで動き出す。と、思ったら、緑の匂いに顔を撫でられた。茂みの中に引き込まれたのだ。
ここでようやく声が出た。それは悲鳴なんてものではなく、もっと情けない濁音の垂れ流しのようなものだった。
パニック。とにもかくにもパニック。状況が激しく移り変わり、脳の処理が全くついてきてくれない。
ようやく目の前の景色が再び拓けるまで、どれくらいの時間を要したのだろうか。ほんの一瞬だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。しかし、羽衣からすれば、数時間にも感じられた。
呼吸をする。呼吸を繰り返す。それが深呼吸へと変わり、次第に頭が状況を理解しようとしていく。一体何が起きたのか。いつしか足首を掴まれている感覚はなくなっていた。
「ひっ――!」
暗闇の中にぬっと現れたそれに、羽衣は思わず声を上げてしまった。牛――牛だった。水牛と言ったほうが正しいか。乳牛ではなく、背景の漆黒に溶け込んでしまいそうな茶毛の牛。それの顔が目の前に現れたのだ。
もしかして、ミノタウロスなのか。これこそがミノタウロスなのか。暗闇の中でわけが分からないが、しかし目の前に牛の顔があることだけは間違いなかった。
「ミッ、ミノタウロス――」
震える声を絞り出すと、そのシルエットがゆっくりと振りかぶったような気がした。その先のことは――もう分からなかった。いいや、命というものを失ってしまった彼女にとって、もはや不要なものになってしまったのだった。
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