この手に抱くぬくもりは

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紅茶の香りと沈黙

22話 救いを求めた夜 sideレオニス

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仕事を早めに切り上げて帰ったその日、屋敷は珍しく静まり返っていた。

(今日は、レティーナやユリウスと少し話せるかもしれない)
(……それに、ルシアンの様子も気になる。最近、少し顔つきが和らいできた気がする)

廊下を歩く足取りは軽かった。
数ヶ月前には考えられなかった、この穏やかな幸福が、確かにここにある——そう思えていた。

だが、その静けさは、突然崩れた。

「旦那様!!」

階段の方から駆けてくる声。セバスではない、若い女中のものだった。
慌てふためいたその様子に、レオニスの胸に嫌な予感が走る。

「……どうした?」

思わずかけた声は、自分でもわかるほど冷たかった。

「レティーナ様が……っ、倒れられて……! 今、医師を——!」

その瞬間、思考が白く染まった。
気づけば走り出していた。
廊下も、階段も、扉さえも蹴るように駆け抜け——ただひたすら、彼女のもとへ。

(なぜだ。今朝は、いつもと変わらなかった)
(少し顔色が優れないとは思ったが、レティーナは『大丈夫』と笑っていた……)

制止の声も聞こえなかった。
寝室の扉を開けると、ベッドの上に彼女が横たわっていた。

顔色は悪く、血の気が引いている。
閉じたまぶたがわずかに揺れていても、意識があるのかどうかはわからなかった。

「……レティーナ……ッ」

震える手で彼女の手を握る。
細く、冷たいその手。
これまで何度も、夜を越え、朝を迎えた温もりだった。

「……なぜ、こんな……」

声が震える。
当主としての威厳など、すでにどこにもなかった。

やがて医師が到着し、容体の確認が始まる。
レオニスはただ、祈るように傍に立ち尽くすしかなかった。

(頼む……)
(どうか、あの笑顔をもう一度……)

心の奥底で、ただそれだけを願っていた。

レティーナが倒れてから、屋敷はまるで時間が止まったようだった。
医師たちは「山は越えました」と言うが、「安心していい」とは一度も言わない。

朝が来るたび、レティーナが目を覚ますかどうか——
ただそれだけを想って過ごす日々。

(頼む……目を開けてくれ。レティーナ……)

けれど、彼女の表情は変わらぬまま。
意識が戻らない日々が続き、レオニスの心も、じわじわと削られていった。

ハンナもセバスも、本館につききりだ。
屋敷全体が緊張に包まれ、空気は張り詰めていた。

ふと脳裏に浮かんだのは——ルシアンの顔だった。

(……君は、どうしている)

あの日以来、一度も会っていない。
様子を見に行こうとは思っていた。だが、その余裕すらなかった。

けれど今日、「レティーナ様の脈が安定した」という報せを受けたとき——
気がつけば、別館の前に立っていた。

(少しだけ……声が聞きたい)

理由は、きっとそれだけじゃない。
この眠れない数日のあいだ、幾度となく思い出していた——あの夜の香りを。

ほんの少し香っただけなのに、確かに、心がほどけた。
安らいだ。

扉の前で、指先がわずかに震える。

(……何をしている。妻が倒れているというのに)

理性が咎める。
けれど、それ以上に、「誰かに救われたい」と願う自分がいた。

トン、と軽くノックすると、ほどなくして扉が開いた。

ルシアンが現れる。
目を見開き、驚いているのがわかる。
無理もない。自分自身、ここに来てしまったことに戸惑っていたのだから。

「……レオニス様……」

その声が、思ったよりも優しく響いた。

入れてもらおうとするルシアンに、レオニスは首を横に振る。

「ここでいい」

部屋に入れば、余計なことを口にしてしまいそうだった。

ルシアンをまっすぐに見て、短く告げる。

「……レティーナは、少し安定してきた。だが、まだ予断を許さない」

言い終えると同時に、ルシアンの顔から血の気が引いた。
瞳に涙が滲む。

「……助かるのですよね?」

細く、震える声。

「助かるって……言ってください……!」

その言葉に、胸が締めつけられる。

この数日、自分が抑え続けていた感情が、彼の涙ひとつで崩れそうになる。

気づけば、腕が動いていた——彼を抱きしめていた。

それは、理性ではなかった。
ただ、求めてしまったのだ。
彼の体温を。香りを。その存在そのものを。

「……落ち着きなさい」

その言葉は、彼のためであり、同時に自分自身へ向けたものでもあった。

伝わってくる体温。震える肩。浅くなる呼吸。
驚くほど細く、儚い。それでも、なぜか安心できる。

(……私は、何をしている)

そう思っても、腕を離せなかった。
この温もりの中で、ようやく心が少し緩んだ気がした。

レティーナの夫として、ユリウスの父として——
そういう立場を一時的に忘れて、ただ、救いを求める人間として。
 
心のどこかで、願っていた。
「もう少しだけ、この温もりに触れていたい」と。
 
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