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part7

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「ピアノ弾けるのか?」
 平田のシンプルな問いに「多少ですが」と日枯ひがらし も簡潔に答えた。

第二音楽室ここのピアノの音、好きなんです」
「でも、楽器自体は第一音楽室のピアノの方が高価だと聞いた気がするが」
「そうですね、それは事実です」
 日枯ひがらし はほこりをサッと払ってから、ピアノの蓋を開ける。

「でも、第一音楽室あそこは合唱部のテリトリーなんで」
「合唱部には遊びに行かないのか? この部屋、というかマンドリン部に遊びに来る感覚みたいにさ」
「それは、ちょっと、僕には厳しいですよ」
 日枯ひがらし が渋い声を出したが、それもそうだろう。

 六ヶ原ろくがはら高校合唱部は全国大会常連のいわゆる「強豪」だ。
 合唱部のメンバーに悪い感情は抱いていないが、合唱部の顧問とマンドリン部の間には今も遺恨が残っている。

「合唱部はいつも真剣で、音楽に真剣で、その真摯さ、それはそれで憧れている世界ですが」
「恐く思うのか?」
「いえ、そこまでは思ってないですよ。さすがに」
 それに合唱部の定期演奏会、僕は欠かさず行くくらいに大好きです、と日枯ひがらし が強調する。

「けれども、うちの高校で合唱部と吹奏楽部は大規模な部ですから、ささいな『行き違い』でトラブルになる可能性もありますし」
「つまり、無用な面倒の種になることは避けたい、と」
 彼は肯定こそしなかったが「今はお互い良い距離感を保てていると思います」と少し小さな声で言った。

 簡素なスケールとアルペジオを弾いてから、日枯ひがらし は「やっぱり、このピアノ、いい子ですよ」と優しく笑う。
「調律には少々の難がありますが、僕が好きな音を鳴らしてくれます」
「ちょっと古くないか? この音?」
 実際、第一音楽室のピアノに比べて、このピアノは大分くたびれているように見える。

「でも、僕にとって懐かしいんです」
「懐かしい? 音色ねいろが?」
「ええ。小学校にあったピアノに似た音がするんです」
「メーカーが同じとか?」
「そこまでは分からないです。小学生の時は楽器のメーカーに興味がなくて」
 小学生なら、まあ、そんなものか。
「でも、ふと懐かしさに浸れるこの空間、僕はとても好きですよ」

 日枯ひがらし は気の抜けたように背伸びをしてから、平田の目を覗きこんだ。
「何か聴きたい曲はありますか? 大した曲は弾けないですが、好きな作曲家がありましたら、チャレンジしてみます」
「好きな作曲家か」
 平田は首をひねる。
 自分が音楽を始めたのは高校のマンドリン部からだ。
 マンドリンのために作られた曲ならば、それなりの知識があるが、ピアノの曲となると案外すぐに頭に浮かんで来ない。

「俺はピアノは詳しくないからな。好きな曲、弾いてていいよ」
 平田の言葉に、日枯ひがらし は「なるほど」と数秒考えてから、鍵盤に対して真っ直ぐに向き直して、スッと鼻から空気を吸った。
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