灰を喰う男

猫熊アザラシ

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5話「現場」

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 規制線の内側に入った瞬間、匂いが変わった。

 焦げた木材と、何か溶けたものの匂いが混ざり合って、夜の空気に滲んでいた。律は思わず息を浅くした。現場の匂いだ、と思った。これがそういうものなのだと、頭では理解していた。でも、実際に嗅ぐのは初めてだった。慣れなければいけない。そう思いながら、手帳を開いた。

 現場は古い倉庫だった。外壁の一部が黒く焦げて、窓が二枚割れている。内部への延焼はなかったようで、扉は原形を保っていた。建物自体はまだ立っている。被害は外観だけだ。一件目も二件目も、こうだったという。死傷者なし。建物への被害は軽微。それだけが、三件に共通していた。

 夜の倉庫街は静かだった。風が吹くたびに、規制線のテープがかすかに揺れる。野次馬は十人ほど、規制線の外で遠巻きに眺めていた。スマートフォンを向けている者もいる。律はそちらを一度だけ見て、視線を戻した。今は関係ない。

 律は現場の中を動き始めた。焦げた外壁の状態を確認する。手帳にメモを取る。窓の割れ方を見る。またメモを取る。異能使用の痕跡がどこに残っているか、鑑識の担当者に声をかけて確認する。担当者は丁寧に答えてくれた。外壁の中央付近、地面から一メートルほどの高さに、残滓が集中しているという。白っぽい粉状のものが薄く積もっているのが見えた。

 律はそれを手帳に書き留めながら、男を探した。

 いた。

 倉庫の正面から少し離れた場所に、ポケットに両手を突っ込んだまま立っていた。動いていない。周囲を見回すわけでも、鑑識に話しかけるわけでも、メモを取るわけでもない。ただ、立っている。ぼんやりと、焦げた外壁の方を向いて。

 その姿を見た鑑識の担当者が、律に気づく前に男に気づいた。

「あ、喰島さん」

 声のトーンが、微妙だった。驚いた、というより、来たのか、という感じの声だった。苦笑いが混じっていた。馬鹿にしているわけではない。でも、全面的に歓迎している様子でもない。なんとも言えない、そういう反応だった。

「お久しぶりです。また厄介な事件(やつ)が来ましたね」

 別の鑑識担当者が言った。こちらも苦笑いだった。男の方をちらりと見て、また自分の作業に戻る。挨拶はした。でも、それ以上は近づかない。そういう距離感だった。

 パトカーの近くにいた捜査官の一人が、男に気づいて軽く手を上げた。会釈に近いような、でも会釈よりも砕けた動作だった。男はそれを見たのか見ていないのか、ポケットに手を突っ込んだまま小さく頷いた。それだけだった。

 律はそのやり取りをすべて見ていた。

 馬鹿にはしていない。それはわかった。でも、尊敬しているという感じでもなかった。困ったやつだけど、まあ、という空気がそこにあった。実績は本物だから、そこだけ信用していい、と霧島が言っていた。その言葉の意味が、少しだけわかった気がした。実績以外は、あまり信用しなくていい、ということなのかもしれない。

 律は視線を手帳に戻した。

 三件の共通点を整理する。すべて深夜の犯行。すべて人気のない建物を狙っている。死傷者はゼロ。建物への被害は軽微。異能使用の痕跡が残っている。火を操る系統の異能。これだけ揃えば、同一犯の連続犯行と見て間違いない。動機は何か。愉快犯なのか。それとも別の何かがあるのか。

 律は倉庫の周囲をゆっくりと歩きながら、現場の状況をさらに手帳に書き込んでいった。建物の構造。周囲の地形。最寄りの道路からの距離。逃走経路として使えそうな路地の位置。一つ一つ確認して、記録する。

 男は動いていなかった。

 律が倉庫を一周して戻ってきたとき、男はまだ同じ場所に立っていた。姿勢も変わっていない。ポケットに手を突っ込んだまま、焦げた外壁を見ている。いや、見ているのかどうかも定かではない。目が開いているのは確認できた。でも、焦点がどこに合っているのかはわからなかった。

「喰島さん」

 律は声をかけた。男がゆっくりとこちらを向いた。

「残滓の位置、確認しましたか。外壁の中央付近に集中しているそうです。一件目、二件目の残滓の位置と比較したいので、過去の資料を確認したいんですが」

「……ああ」

 男は短く答えた。それ以上は何も言わなかった。残滓の方を見るわけでも、近づくわけでもない。ただ、ああ、と言っただけだった。

 律は男の反応を待ったが、何も起きなかった。

 周囲では鑑識が淡々と作業を続けていた。シャッター音。測定器の音。担当者同士の短い会話。現場の空気は静かで、緊張していて、でも男のいる場所だけが妙に違う温度をしていた。

 律は手帳を閉じた。

 まだわからないことが多すぎる。この現場で何が起きたのか。誰がやったのか。なぜやったのか。わからないことだらけだ。でも、一つだけわかることがあった。

 目の前の男は、律とはまったく違う動き方をする。

 それがいいことなのか悪いことなのか、律にはまだ判断できなかった。
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