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10月6日(日)

(1)――悪夢の正体は、間違いなくこの猫だった。

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 昨日、どうにか少女の誤解を解くことに成功し。
 また明日、と約束を交わして帰ってきてから、僕は重大なことに気がついた。
 それは、弁当のリクエストを聞きそこねたということである。
 金曜日のうちに行った買い出しで、弁当おかずの定番となる材料は押さえていたというのに、なんという失策。いろいろとあって、忘れてしまった。せっかく一緒に食べるのだから、少女の好物もたくさん入れてやりたかったのに。
 そんなことを考えながら寝た所為だろうか、夢見は最悪だった。巨大化したピーマンの肉詰めが僕を追いかけてきて、頭から食われる夢だったのである。
「……お前か」
 カーテンの隙間から差し込む朝日、枕元で鳴り続ける目覚まし時計のアラーム音。
 それから、僕の頬をざりざりと舐める猫。
 悪夢の正体は、間違いなくこの猫だった。
「うん、起きた起きた。大丈夫だって。おはよ」
 執拗に僕の顔を舐めたがる猫を引き剥がし、頭を撫でる。
 しばらくはじと目で僕を見ていた猫は、しかし次第に目を閉じ気持ち良さそうに喉を鳴らし始めた。昨日に続き、朝から僕に絡みに来るのは珍しいなあと考え、何故そんな行動に至ったのかが理解できてしまえて、小さくため息をついた。
 そういえば、この時期はいつも父さんと母さんの寝室に居たんだっけ。
 そりゃあ寒くて、こうして僕のところへも来るようになるか。
「うりゃうりゃ」
 猫が満足するまで、僕は猫を撫で続けた。
「おはよ。ごめん、遅くなっちゃった」
「おお、起きたんけ。よろっと起こさねばねって思ってたところだったんだわ」
 午前八時三十分。
 なかなか猫にご満足いただけず、思ったより時間が過ぎてしまった。
 今日も早起きをしてくれたらしいばあちゃんは、先んじて弁当の準備を始めていた。テーブルの上には、既に完成したポテトサラダと唐揚げが置かれ、冷ましている最中である。
「今の子はなに食べるかわからねすけ、勘弁の」
 コンロの前で玉子焼きを作りながら、ばあちゃんは言った。
「どれも好きなやつだよ。ありがとう」
「いがった。だば、美秋もはよ朝ご飯食べなせ。ほかはばあちゃんがやっとくすけ」
「ああ、うん」
 頷き、トースターに食パンをセットする。
「しっかし、今年の文化祭はひっで力入れてらんだな」
 玉子焼きを作り終え、皿に移しながら、ばあちゃんが不思議そうに言った。
「なにが?」
 ココアを淹れて椅子に座りながら尋ねると、ばあちゃんは、たしか、と記憶を辿るように目を細めながら言う。
「夏樹のときは、休みの日まで練習してねがったんでねっか?」
「あー、ほら、兄さんのときとは、またやりかたが変わったんだよ」
「はー、そういん」
「そ」
 どぎまぎしつつ、なんとか誤魔化す。
 そもそもの話、僕が学校行事にここまで真剣に取り組んだ前例がないから、余計に不審がられているかもしれない。小学校のときでさえ、適当に参加しているだけだったのだ。そりゃあ、ばあちゃんが多少不審に思っても無理はない。
 しかし、どう思われようと、僕が少女に会いに神社へ行くことをやめることはない。それだけは確かだ。
 だけど、この先。
 気持ちの整理をつけて、家に帰る日が必ずやってくる。
 そうなったら、少女はあの神社を出たあと、どうするつもりなんだろう。いや、『どうする』ではなく『どうなる』と言ったほうが正しいのかもしれない。僕らはまだ子供で、大人の言うことに従うことしかできない。こんな田舎の村じゃ、なにをするにも大人の助けが必要で、余計にそうなってしまう。
 不意に、腕の中に昨日の感触が蘇る。
 僕より頭ひとつぶん背の高い少女は、しかし僕の腕の中にすっぽりと収まった。うっかり力を入れ過ぎてしまえば折れてしまうのではないかと思うほどの華奢な身体。その細い身体に、どれだけの感情を背負い込んでいるのだろう。考えれば考えるほど、自分の無力さにうんざりする。
「美秋」
 ばあちゃんに名前を呼ばれ、はっと我に返った。
「え、あ、なに」
「今日は大学芋作らんろ? 食べ終わったんなら、ほら、顔洗って支度してきなせ」
「あ、うん。ごちそうさまでした」
 見れば、時計の針は九時過ぎを指していた。
 いけない、ゆっくりし過ぎてしまった。
 慌てて食器を片付け、顔を洗い、身支度を整えて台所へ戻る。かなり急いで支度をしてきたつもりだが、その僅かな時間に、ばあちゃんは不要な食器を片付け、大学芋を作る準備を済ませてくれていた。
 まずはさつまいもを洗い、皮は剥かずに一口大に切っていく。
 昨日、少女と一緒に弁当を食べたから、食べやすい大きさはもうわかっている。傷はもう傷まないと本人は言っていたが、あれだけの痣が残っているのだ、まだ大口を開けるようなことは控えたほうが良いだろう。そう考えながら、気持ち小さめに切っていく。
 切ったさつまいもは十分ほど水に晒してから、水気を切る。
 油を引いたフライパンにさつまいもを投入したら、柔らかくなるまで火を通し、ばあちゃんの目分量によって、醤油、みりん、砂糖、黒ごまがぶち込まれた。この辺は長年の経験がものを言うというやつだ。どれだけざっくりやっているように見えても、絶対に美味しくなるのである。そうして調味料が全体に絡めば、あっという間に完成だ。
「ばあちゃん、味見、お願い」
「ん」
 見た目はやはり歪になってしまった大学芋を、ばあちゃんがひょいと口に放り込む。
「しかもうんめ」
「良かった。ありがと、ばあちゃん」
 大学芋が完成すれば、あとは昨日と同じようにおにぎりを拵え、準備完了だった。
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 見送りに来てくれたばあちゃんに、僕は笑顔で挨拶をしてから玄関を出た。
 寒さに肩を縮こまらせながら自転車に跨がり、家を出発する。
 普段から人気のない村だが、日曜日の朝となると、それはより一層加速する。いつもに増して車の通りも少なく、すれ違う人などほぼ皆無だ。自転車を漕ぎながら、多少よそ見運転をしたところで、なにともぶつかる心配はない。
 少しだけ視線を上げると、葉先が色づいてきた木々が目に入った。綺麗に紅葉するまで、もう少しと言ったところだろう。
 ほんの少し先の未来。
 それがわからないことに、こんなに不安を覚えるのは初めてだった。
 目先のことに手一杯になっていたわけではない。ただ今までは、大人が用意してくれていた少し先の未来の上を歩いていたから、不安を感じる隙もなかっただけの話だ。
 少女はきっと、この村のことをほとんど知らない。
 田舎だからなんの娯楽もないところだけど、自然だけは豊かなのだ。秋は紅葉が綺麗だし、冬はスキー授業がある。春になれば川沿いに桜が咲き、夏は花火大会や祭りだってあるのだ。それらを少女と一緒に楽しみたいと思うのは、果たして僕の望み過ぎになってしまうのだろうか。
 深い溜め息を吐きながら、身体を少し後ろに倒す。
 秋晴れの空は雲ひとつなく、いつものように僕を見下していた。
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