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2章
5 思わぬ招待状
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5.
朝になって村を出ると、僕らは湖に向かった。湖のほとりで僕はミズキの隣に座り、彼女が一生懸命に書き込んでいるスケッチブックを覗き込む。
僕らは船を持っていない。持っていないが、ミズキが船を描けば手に入る。無力な僕はこうしてまた彼女の能力に頼ってしまっている現在だ。
「船って描いたことないから分かんない…」
筆を片手にミズキが口を尖らせて唸る。
「あんまり描く機会のあるものじゃないしね」
僕は苦笑いしながら空を見上げる。太陽が真上に差し掛かる、うららかな昼。青空がまぶしい。
絵というのは、僕は記憶力ゲームだと思っている。正確に記憶し、それを紙にアウトプットする。その立体をいかに二次元に落とし込めるかだ。
船なんて、あまり描こうと思う機会がないものだと、ちゃんと覚えていないだろう。少なくとも僕は覚えていない。何も身になるアドバイスを持ち合わせていないのが申し訳ない。
ミズキのコウモリは今日もガルボハットの上でつぶれたように眠っている。最近、彼の警戒心は死んだのか、ミズキの帽子の上で腹を出して寝るようになった。コウモリとしてあるまじき姿だ。
「…町って人多いのかなあ…」
船を描きながらミズキが言う。彼女のスケッチブックには船というより、ボートに近いものが描かれている。相変わらず彼女の前に立ちはだかる問題は人口密度のようだ。彼女の声からは不安や不満がありありと伝わってくる。
「町は人が多いし、アマネって人が住んでるんでしょ?本当に行くの?」
「そうだね…でも、町には色々な情報がありそうだし、いつかは行かないといけないんじゃないかな。こっちの森はもう十分すぎるほど探索したしさ」
僕は短剣を首から取り上げる。手の平で握ったそれは七色に輝きながら、形を大きく変え、巨大な剣になる。刃幅が広くて刀身が黒い剣だ。工夫を繰り返し、最初に作った時よりも大分軽くなった。
瞬時に作れるよう、戻したり大剣にしたりを繰り返す。いざと言う時にすぐに作れないと困るので、こうして手が空いている時は練習するようにしていた。
しかし、ミズキの不安は最もだ。僕もこんな戦えるかも分からない状態で町へ行っていいものかと思ったが、ミズキに出会う前にもこの森はかなり探索している。つまり、探索し尽くしている。これ以上ここにいても現実に帰るための、アリスに会う手掛かりは掴めないのだ。
「すぐに町に入らないにしても、湖をどう渡れば町の中へ入れるのか調べておきたいしさ。城壁に阻まれたら遠回りになってしまう」
ミズキの能力で作った大型の道具は1日しか持たない。老人は半日もあれば町へ行けると言っていたが、道を知らない僕らでは1日以上かかってしまう可能性もなくはない。途中で消えでもしたら、僕らは溺れ死んでしまうかもしれない。
ミズキもその可能性は心配していた。能力を使っている本人なのだから、考えるのは当たり前だろう。
「そっか…」
筆を動かしながら、彼女はしょんぼりしながら手を動かす。
人がいる場所に行くのが苦手だとしても、恐らく考えていることはミズキも一緒だから、ボートを描いてくれているんだろう。
村に出てきて以降、意見がすれ違う機会はかなり増えたが…まあ人には苦手分野もあるし仕方ない。
「ねえ、ドゥエル!この間のお兄さんがいるよ!」
「おい、メベーラ!この間のお姉さんがいるぞ!」
不意に背後から聞き覚えのある声がして僕は振り返る。そこにはあの赤い軍服を身にまとった二人の子供が立っていた。
彼らは僕を見るや否やこちらに走り込んでくると、二人同時に僕に抱きつく。何が起きたのか分からないでいると、彼らは声を揃えて笑う。
「変態から助けてくれてありがとう!」
「悪党から守ってくれてありがとう!」
隣で絵を描いていたミズキも驚いたように目を丸くしてこちらを見ている。帽子の上のコウモリは相変わらずスヤスヤと寝ていた。
変態と悪党…イディオットのことだろうか。彼は決して変態でもなければ、悪党でもないが、確かに初めて彼らに会った時は助けるような形になってしまっていたことを思い出す。何と返事をすればいいか悩んでいると、双子たちは僕からゆっくりと身体を話してミズキを見た。
「お姉さん誰ー?」
「お友達ー?」
ミズキは目を丸くしたまま彼らを見ていたが、少し間を置いてからコクコクと小刻みに頷いた。
「アスカのお友達…かな?」
照れたように笑う彼女に双子はシャンと姿勢を正すと、それぞれに自分の胸を叩いた。
「私はメベーラ!ドゥエルのお姉ちゃん!」
「俺はドゥエル!メベーラのお兄ちゃん!」
2人の声と仕草は息がピッタリだ。自己紹介を聞く限り、前髪を切りそろえた長い髪の女の子がメベーラ、短いマッシュルームヘアーの男の子がドゥエルという名前のようだ。
声を揃えてそこまでいうと二人は急に顔をしかめ、お互いに睨みあう。
「何よ!私がお姉ちゃん!ドゥエルは弟でしょー!」
「違う違う!俺がお兄ちゃんだ!お前は妹だろ!」
初めて会った時と同じように、二人は取っ組み合って喧嘩を始める。本当に仲がいいのか悪いのか分からない。喧嘩するほど仲がいいのかもしれないが。
僕は2人の肩を優しく叩いて仲裁する。
「まあまあ…双子なら同い年なんだし、お互いがお兄ちゃんお姉ちゃんでいいんじゃない?」
2人は互いの髪を掴みあげたまま僕を見ると、ようやくそれぞれ手を離す。
「アスカ、いい人だね」
「アスカ、良い奴だな」
2人が声を揃えて笑うが、その時に僕は気付く。
僕は彼らの前で一度も名乗っていない。僕の名前を出したのは、恐らくミズキが初めてだ。あの時にすぐにアスカが僕であることを2人は理解したのだろう。
村の宿主が彼らは明るくて賢いと話していた。喧嘩している姿を見ていると、あまりそうは見えなかったが、あながち嘘ではないようだ。
「お姉ちゃんはアスカのカノジョ?名前は?」
メベーラが不意にミズキに振り返って尋ねる。ミズキは話題の矛先が自分に向いた驚きか、照れからなのか、ぶわっと顔を赤くして首も両手も使ってあわあわと横に振って否定する。
「な、名前はミズキだけど、かっかかか彼女とかでは全然…!」
「なんだ、アスカ男なのー?」
ミズキの話を聞いているのか聞いていないのか、彼女の言葉に被せるようにドゥエルが言う。頭の後ろで腕を組む彼は何故か少し残念そうだ。
「あー…現実では女の子だったんだけどね。こっちの世界では男の子かな」
ドゥエルに説明しながら僕は肩を竦める。
男性として過ごすようになって、もう1ヶ月以上が経過していた。
最初の頃はずっと女性として生きてきて、女性としてですら自分の身の振る舞いが分からないのに、男性として暮らせるだろうかという不安はあった。上手く女装をすれば女性としても過ごせなくはなさそうだったので、最悪はまた女性物の服を着ようと考えていた。
しかし、男性として過ごすのは自分にとっては驚くほど楽だった。嫌いなスカートを履かずにいられて、ブラジャーも付けなくていい。下着は布面積が広くて食い込まない。何より好きな服で好きなような仕草が許される。
足を閉じて斜めに揃えなくてもいいし、イディオットとはちょっとした下品な会話もできた。昔なら有り得なかったことだ。
もちろん、男なら弱音を吐くなと叱られたり、仕草が女っぽくて気持ち悪いとか、昨日の老人による男性への理不尽な暴力とか、そういうことは何度かある。だけど、それはスカートを履いて無理やり女性らしく過ごす苦痛に比べれば笑い飛ばせた。
こうしている僕はとても自然でいられた。最初にミズキがこの状態の僕を受け入れてくれたことは、間違いなく大きいだろう。ドゥエルにこうして答えを返すまで、自分が現実では女性であることを忘れかけるほどに。
「ほーら、私が言った通りでしょ!アスカはお兄さんで、ミズキはカノジョ!」
「あっ、彼女じゃなくて友達… 」
してやったと言わんばかりに腕を組んでニヤリと笑うメベーラにミズキは困ったように訂正を入れるが、メベーラがそれを聞いているのかは分からない。
ミズキが自分の彼女扱いされることは、見ているだけの僕からすれば正直嫌ではなかった。
彼女に特別な感情があるかと聞かれたら分からない。分からないのだが、彼女たちが僕を男性として見ていてくれている事実が嬉しかったし、ミズキが照れている姿を見ると自分に好意を寄せていてくれているのが分かって尚更嬉しくなるのだ。
ミズキとても大事で、僕の半身のような…ずっと傍にいたいし、支え合いたいとは思っているが、恋人になろうとかは考えたことはない。そもそも、ミズキには恋人がいるはずだ。そんなことを考えるほうが不埒だ。
僕が彼女に寄せる好意は限りなく友愛に近く、それでいて広い意味で僕は彼女を愛していることは何となく感じてはいた。
人はこの感情をどう形容するのか、僕は知らない。親しみ深い言葉を使うなら、ただひたすらに僕はミズキが「大好き」なんだろう。
「ミズキは僕の大事な相棒みたいなね?」
焦るミズキに助け舟を出すと、彼女は顔を赤くしたままブンブンと首を縦に振った。
「そう!そうそう!相棒とか相方とか、そんな感じの…!」
「ふーん」
「へーえ」
ミズキの言葉に双子たちは少し退屈そうに口を尖らせた。
「てか、こんな場所で何してんの?やっぱりフロージィに会いに行くの?」
ドゥエルはミズキのスケッチブックを覗き込む。そこに描かれたボートの絵を見られるのが恥ずかしいのか、ミズキは背中を丸めてそれを隠そうとする。
「おーすげー船だ」
「でも、絵じゃ渡れないよ?」
感心するドゥエルの隣でメベーラが首を傾げた。
確かにミズキの能力を何も知らずに見たら、湖を見つめながら、ありもしないボートをスケッチブックに描いている謎の2人組だ。ピクニックか何かのように見えるだろう。
「ミズキは絵に描いたものを具現化出来るんだ」
僕が補足を入れると、双子はパチクリと目を瞬かせる。2人は目を見合せ、首を傾げた。
「ミズキ配役持ちなの?」
「ミズキの配役って何?」
声を合わせて尋ねる双子に気圧されるように彼女は少し身を引いたが、はにかむように笑って首を傾げた。
「帽子屋?ってよく呼ばれてるけど…」
「帽子屋!シュラーが会いたがってる!」
「帽子屋!フロージィが会いたいって!」
双子は彼女の言葉に喜んでその場に跳ねると、2人は手を取ってくるくると回る。無邪気に踊るその姿は微笑ましい。
微笑ましいが…イディオットが言っていた言葉がふと脳裏に蘇る。
帽子屋を殺したのは恐らく眠り鼠だ、と。その眠り鼠自身が会いたがってるなんて、それは恐ろしい話じゃないか。ただでさえ、その城にはアマネもいるのに、僕もミズキも命を狙われていたら情報集めどころの騒ぎじゃない。
「ごめん…もし、誤情報だったら申し訳ないんだけど、眠り鼠が帽子屋を殺したって聞いたんだ。眠り鼠にミズキを会わせたら殺したりしない…?」
恐る恐る尋ねると、双子は真顔になって踊るのをやめる。その表情は何か別の物を見ているようで、やけに真剣なその瞳は恐怖を煽る。
彼らはじっと僕を見つめていたが、また屈託ない笑みを浮かべた。
「あのイディオット野郎が吹き込んだんでしょ!シュラーはムエキなセッショーはしないって言ってたよ!」
「頭カテーからあの兎!フロージィがミズキ殺して何か得するって思わなきゃ殺さないよ!」
無益な殺生はしないが、有益ならするといった具合か…双子の話だけではイディオットの情報の真偽は分からないようだ。
自分が殺されるかもしれないという物騒な会話を前にミズキは顔を青くしたまま黙って視線を泳がせている。そりゃそうだ。僕も最初の頃そうだった、よく分かる。
「でも、俺はアスカとミズキにフロージィに会って欲しいな!フロージィの噂ばっかじゃくて話して欲しい!」
「私も!シュラーが2人を殺そうとするなら、絶対助ける!アスカ、私たちのこと助けてくれたもん!」
ドゥエルがミズキの手を、メベーラが僕の手を取って、彼らはお強請りする子供のようにその場でじたばたと地団駄を踏む。
「お願い~!一緒に行こうよ~!」
「湖の渡り方なら教えてあげるからあ!」
イディオットはディートルダムとディートルディーの目的は撹乱だと言っていた。イディオットの言葉を信じるなら、彼らの行動は演技である可能性がある。賢い子供たち、会話の最中に見せる不思議な眼差しが何を意味しているのかも分からない。もしかしたら、裏で恐ろしいことを考えている可能性もある。
それでも…再会してすぐに僕に抱きついて、感謝を述べた彼らの行動は嘘に見えなかったんだ。僕が忘れてしまっていたことを、陥れる相手に対していちいち律儀に覚えているだろうか。そうは考えづらい。
「…行ってみる?」
悩んでいた僕より先に口火を切ったのは、あれだけ嫌がっていたはずのミズキだった。
「この子たちは信用できそうだし、渡り方を教えてくれるんだったら…」
穏やかに微笑む彼女にドゥエルはパアッと顔を明るくして抱きついた。
「ミズキ!話がわかる!俺の女になってくれ!」
「ドゥエル!」
メベーラが怒ったように声を上げると、容赦なくドゥエルの脇腹に蹴りを入れる。蹴られた衝撃でドゥエルがミズキから離れ、地面に倒れると、入れ替わるようにメベーラがミズキに抱きついた。
「レディにそんなことするのセクハラ!サイテー!処刑よ処刑!」
「そこまでしなくても大丈夫だよ。みんなありがとう」
彼らの姿に困ったように笑いながらミズキがメベーラの頭を撫でた。
僕が押しても不満気だったのに、この二人が押すと素直に町に行くんだな…賛成してくれたのは凄くありがたいが、なんだか複雑な気持ちになる。僕の方が彼らよりずっと一緒にいるのになあ、なんて思ってしまう僕は女々しいのかもしれない。
しかし、ミズキが良いと言ってくれたらくれたで、今度は僕が悩んでしまう。ミズキを危険な目に合わせたりなどしたくない。むしろ、今日中に渡れるとは考えてなかったのは僕の方だ。
今の僕なら彼女を守れるか?ミズキが自ら勇気を出して外に出ようとしてくれているのを僕が引き止めていいものか?
引き止めてはいけない。貴重な彼女の意思だ。僕はそれを尊重したい。守れるか、ではない。僕が彼女を守るのだ。
ジャバウォックという配役を貰ったなら、その分だけ戦えばいい。ミズキが自分の力を使いこなすように、僕だってちゃんと自分の力を使いこなさなきゃならないだろう。
イディオットとその集落での噂話や情報だけでは、眠り鼠の目的も本人の人柄も分からないのもその通りだ。双子たちの意見も最もなのだ。真偽を確かめるならば、話を本人に聞きに行くのが1番確実なのだから。
「…ミズキがそう言うなら、行こうか。僕もアマネ以外となら少しは戦えるだろうし」
僕が頷くと、メベーラとドゥエルが両手を上げて喜んだ。それを見ているミズキも楽しそうに笑った。
「でも、私はアマネの存在だけが心配。アマネはアスカを殺したいんだよね?」
「アマネ?」
ミズキの言葉に双子が首を傾げる。
「アマネは優しいよ!俺の大好きなお兄ちゃん!」
「アマネのことが私は大好き!いい人だもん!」
思ってもなかった返答に僕とミズキは目を見合わせる。
アマネを慕う人間など、今までこの世界を旅してきて、1人も会ったことがなかった。僕自身、アマネを優しいと思ったことなど1度もないし、むしろ頭のおかしいサイコパスとしか思ってなかった。
「アマネは俺たちがお願いすれば、アスカのこと殺したりしないし、フロージィも味方してくれれば絶対に絶対に絶対に人を殺したりしない!大丈夫!」
ドゥエルが力強く言い放つ。その言葉には妙な説得力があり、僕は黙る。
アマネに出会ってしまった時、自分が生きて帰れるビジョンが浮かばないのだ。それなのに、双子の強い言葉は曇りを感じさせず、むしろ僕の心を揺るがせた。
アマネと話せるなら、それこそ話してみたい。僕は彼とまともに話したことなど一度もない。それこそイディオットも、集落の人も、村の人も。僕が知っている範囲で、アマネと話したことがあるのは双子だけ。彼らが見ているアマネがどんな人間なのかとても興味があった。
「…じゃあ、きっと大丈夫だよ」
僕は笑みを浮かべてミズキに頷いた。その様子に双子たちは両手を上げて喜び、その場を踊るようにくるくると回る。
「じゃあ、二人は船?私たちはウミガメとグリフォンの背中に乗せてもらってこの湖を渡るんだ。こっちに来て続きを描いてよ!ボート出してからじゃ持ち運びめんどくさいでしょ」
メベーラはそう言って僕らを手招きする。それに続くドゥエルに合わせ、僕とミズキも腰を上げた。
「こうやって三月兎はフロージィの悪い噂ばっかり広めるんだ。本当にアイツって嫌なやつ!イディオット!!」
僕の前を歩くドゥエルが中指を立てて、歯を見せて犬のように唸った。
最初に双子に出会った時、彼らは非常に仲が悪かったのは知っている。知ってはいたが、こうして聞いてみると、イディオットと双子の話は驚くほどに正反対だ。
イディオットの口から語られる眠り鼠とその仲間たちは冷酷無比な悪人だった。しかし、こっちでの悪人はイディオット。イディオットとは話したことがあって、実際に僕は彼の生き様や考え方に憧れを抱いていた。僕は彼が悪人ではないことをよく知っているつもりだ。
だが、同時にイディオットとは話せる時間があまりに短くて、僕はイディオットのことを詳しく知っているかと言われれば、あまり詳しくは知らない。彼が現実に帰ることに固執する理由も、生い立ちも知らない。
話したことがないから、非難することはできない。そうジャッジが言っていたことが今になってよく理解できる。
僕はまだ眠り鼠やアマネと話したことがない。彼らを何も知らずに非難などできないのだ。イディオットのことだって、彼をよく知りもせずに全て肩を持つなどしてはならない。
「そう言えば2人の配役はディートルダムとディートルディーだよね?能力ってどんなものなの?」
珍しくミズキが2人に話しかけた。僕らの1歩前を歩く彼らはチラと僕らの顔を見てから、2人で顔を見合わせ、また進行方向へと視線を戻した。
「嘘発見器?」
「何考えてるかフワッと分かる?」
2人がそれぞれに返答するが、どちらも微妙にニュアンスが違う。僕とミズキが首をかしげていると、進行方向を見たままメベーラも首を傾げた。
「説明難しいのよねえ…何となく話してる人に下心があるのかとか、本気で話しているのかが分かるって言うか…」
「さっきアスカが『誤情報だったらごめんね』ってフロージィの深い事情を聞こうとしただろ。そしたら、『アスカが本気で申し訳なく思っている』ことが直感で分かる。本気で申し訳なく思う奴がなんか下心あるとは俺は思わないから、アスカの言葉は嘘じゃないなって判断した」
メベーラに続いてドゥエルが言う。
つまり、相手が本心で言っているかの直観力に優れているという具合なのだろうか。メベーラの言う、噓発見器という表現はあながち間違いではないのかもしれない。
初めて会った時も、先ほどの妙な間も、恐らく彼らが能力を通して僕の心を読み取っていたのだろう。そう考えると、あの何を考えているのか分からない眼差しの意味が理解できる。
僕は初めての時、それを勝手に悪意と感じてしまった。だから怖かったが、こうして原理が出来ると、彼らは本当に無邪気な子供たちなのだと思う。あれは僕の勝手な被害妄想だったのだろう。
それならば、僕は現実でどれくらいの人たちに対し、その被害妄想を繰り広げてきたことだろう。話すこともせず、理解しようともせず、ただ怖いから僕は話すのをやめてきてしまった。そう思うと、それは凄く恥ずかしいことだ。
「あとは、ドゥエルの考えていることが分かる!」
「メベーラとは口に出さなくても目を見れば伝わる!」
メベーラとドゥエルは珍しくお互いに笑いかけると「ねー」と一緒に頷いた。
「…言わなくても全部伝わるって心地いいよね」
彼らの話を聞いていたミズキがポツリと呟いた。
そうだ、何も言わなくても伝わるというのは凄く心地いいものだ。僕とミズキは彼らほどではなかったが、キャンプ地で暮らしてた間に関しては、大体のものが言わなくても一致していた。だから、これだけの長時間を一緒に過ごすことが苦ではないのだろう。
でも、僕らは双子のようにはなれない。言わなくても何でも伝わるわけではない。だから、彼女が僕と2人きりに固執する姿を見る度に、僕は少し不安になる。僕がこれからミズキと一緒にどうありたいのか、彼女に明確に伝わっていない気がしていた。
ミズキは本当に僕と現実に帰ることを望んでいるのだろうか。僕はその疑問をずっとミズキに伝えられずにいる。答えを聞くのが怖かった。
4人で湖のほとりを歩いていると、次第に霧が立ち込めてくる。白む視界の奥に小さな明かりが見えた。
「あそこに桟橋があるよ!」
メベーラが光に向かって走り出し、ドゥエルも続いた。隣のミズキが迷ったように僕を見る。僕が口元で微笑むと、彼女は僕の手を取って笑った。
「いこっか!」
ミズキに引かれて小走りで双子についていく。小さな明かりは誰かがつけたランタンのようで、それは木製の粗末な桟橋の柱にくくりつけてあった。
「随分と霧が深いね」
もはや10メートル先は見通せないくらいに濃くなった霧を見渡して僕は言う。双子たちは手慣れた様子で桟橋に桟橋の上へと走って上がっていく。
「城下町に行くなら絶対にこの霧はくぐらないとダメなんだよ」
「だから、道も分からないまま行ったらソーナンするぜ!」
メベーラの言葉を補足しながら、ドゥエルが指笛を吹いた。ピーっと甲高い音が湖に響き渡るが、特に何か動きは見えない。
これは確かに彼らの助けを得て良かったかもしれない。それを知らずに渡っていたら、どれほどの時間を要したかも分からない。
「ミズキの絵はどれくらいで仕上がる?」
メベーラに言われ、ミズキは思い出したように腰に下げたスケッチブックを取り出す。先ほどのボートの絵を見つめ、彼女は小首を傾げる。
「あとは色を塗るだけだから…20分あれば出来るかな?」
「じゃあちょうどいいや!今、ウミガメとグリフォンを呼んだから、そのうち来るよ」
ドゥエルはそう言うと、ペタリとその場にあぐらをかいて座る。メベーラもその隣に同じようにあぐらをかいて座った。
あの指笛はどうやら彼らの乗り物を呼ぶもので間違いはなかったようだが、20分もかかるというのがさすが不思議の国といったところか。現実の通信機器でタクシーを呼ぶのとはわけが違う。
「それなら、私も急いでかかないとね!」
双子の傍にミズキも腰を下ろすと、スケッチブックを広げて、途中のまま握っていたパレットと筆を手に取った。心なしか、二人きりで描いていた時よりも彼女の筆の進みが早い。
双子は乗り物を呼び、ミズキは乗り物を作る。僕に出来ることと言えば…何もない。いつも申し訳なく思うが、4人の中で自分だけ仕事がないのは申し訳なさが割り増しする。
「何も出来なくてごめんね」
苦笑いする僕に、ミズキは笑顔で首を横に振った。
「いつもアスカにしてもらってばっかりだから、これくらいできるよ!」
「そう言われると救われるよ。ミズキは本当に優しいね、ありがとう」
ミズキは僕がこうして何もできない時に決して責めたりしなかった。僕はそれがありがたくて、だからこそ彼女の隣は心地よかった。役割分担を許してくれる彼女に感謝しながら、僕も彼女の隣に座った。僕ももっと、彼女の役に立って恩返ししたいな。
4人で並んで霧が立ち込める湖を眺める。双子たちはたまに欠伸をしたり、伸びをしたりとのんびりしていた。沈黙が流れるが、不思議とそれは苦にならなかった。
人と話す時、僕はいつも気まずい沈黙が流れないかよく考えていた。初対面の人間だと、特にそういった状況に陥りやすい。相手が話すことが思い浮かばないようであれば、僕は積極的に話題を提供しなくてはならない。
それはなかなかに疲れるのだが、ドゥエルとメベーラは子供であるからか、はたまた彼らの裏表のなさがそうさせるのか、その沈黙にはその気まずさがなかった。
うんと小さい頃によくこうして、何も話すでもなくクラスメイトと家に帰ったっけ。話したい時に話したいことだけを話す。大人になっていくと、どうしてそれが出来なくなっていくのだろうか。いつから、人を疑うようになったんだろうか。
気まずく思うのは、自分に自信がないからなのだろうか。一緒にいる相手に、一緒に過ごさせることを悪いと思ってしまう。だから、きっと僕は相手が僕に悪印象を抱いていると疑ってしまうのだ。
一緒いても気兼ねないミズキは明確に僕に好意を抱いていて、僕なしでは何も出来ないだろうという驕りがあるから、僕が自分の価値を疑わないでいられるからだろう。
「…メベーラとドゥエルは現実では何をしていたの?」
ミズキの絵の完成を待ちながら、ふと思い浮かんだ疑問を彼らに投げた。彼らは一斉に僕を見ると、同時に首を傾げた。
「わかんない」
「ゲンジツってなにー?」
思ってもいなかった答えに僕は目を丸くし、ミズキも顔を上げる。
「二人って中学生くらいに見えるけど、学校とか行ってなかったの?」
ミズキはすぐにスケッチブックに視線を戻したが、手を動かしながら僕に続いて疑問を述べる。彼女の疑問は最もだ。
皆、この世界にいる人たちはここの世界が夢であると自覚している。夢である自覚があるならば、現実の記憶も持っているはずだ。僕自身、現実の意味が分からない人間と話すのは初めてだった。
ミズキの疑問にドゥエルは顔をしかめて腕を組んだ。
「学校って町にあるやつだろ?フロージィが通えって言ってたけど、俺たちは通ったことない。別に行きたくないし、アマネやフロージィに遊んでもらってる方がよっぽど楽しい」
「ここに来る前までは真っ暗だったの。あったかくて、居心地のいい場所にいたと思う。でも、それだけ。気付いたら村にいたよ」
ドゥエルに続いてメベーラが言う。彼らの言葉に嘘や誇張は感じられない。本当に分からないのだろう。
記憶喪失だろうか…。これくらいの年齢なら自我を持っていても何も変ではないだろうに、情報があまりに抽象的だ。
「ゲンジツって何なのか分からないけど、そんなに大事なの?こんなに楽しい世界なのに…」
口をとがらせて言うと、ふとメベーラが何かに気付いたように立ち上がる。それと同時にドゥエルも立ち上がった。
「ウミガメだ!」
「グリフォンだ!」
その言葉に僕も彼らの視線を追った。その先にはまだ霧しか見えないが、耳を澄ますと確かに何かが聞こえる。湖の水面がなびき、上空から重たい羽音がした。
ミズキの帽子の上で腹を出して寝ていたコウモリがビクリと身体を震わせ、裏返るように身体を起こしてキョロキョロと周囲を見回す。次第に霧の奥から見えてきたそれは、鷲の上半身とライオン下半身をかけ合わせたような巨大な生き物。まさしく本で見たようなグリフォンだ。
「こっちこっちー!」
双子が声を重ねて手を振り、その場で跳ねた。バサバサと風を起こしながらドゥエルの前にそれは着地すると、見た目に似合わず静かにその場に座った。
グリフォンの嘴には手綱がつけられおり、背中には一人分の鞍が付けられている。騎乗を想定されていることがそれだけで十分に分かった。
「本物だ…」
スケッチブックを膝に乗せたままミズキが驚いたように呟いた。その水色の瞳は今までで一番大きく見開かれており、彼女がどれほど驚いているのかがよく分かった。
僕も思わず立ち上がり、グリフォンに近づく。今までこれでもかと現実味のないものを見てきたが、こういった伝説の生き物を目の当たりにするとさすがに驚く。いや、今の自分の容姿を思えば、僕も人のことは何も言えないのだろうが。
「おとなしいから触っても平気だぜ」
フンと得意げにドゥエルが言う。おとなしいから大丈夫と言われても、さすがにちょっと戸惑う。そんなに大きな嘴で嚙まれたら、僕の手首がなくなってしまいそうだ。どうせ再生するのだろうが、初めてアマネに肩の一部をそぎ落とされた痛みを思い出すと、進んで手首は失いたくないものだ。
「い、いいの!?」
日和る僕とは対照的にミズキは目を輝かせて恐る恐るグリフォンの首に手を伸ばす。グリフォンは彼女の手に頭を擦り付けるように首を寄せ、喉を鳴らす。
「可愛い~!」
グリフォンの様子にミズキは大興奮で、頬を高揚させてグリフォンの首をさらに撫で回す。気持ち良さそうに目を細めるグリフォンは確かに可愛いが、なかなかミズキも肝が座っている。本当に動物が好きなのだろう。
「ドゥエルが乗るの?」
「そうそう!」
僕の質問に答えながらドゥエルがよじ登るようにグリフォンの背中に乗った。鞍には薔薇の紋章が施されており、よく見るとそれはドゥエルとメベーラの軍帽にも同じものがあるのが分かる。
ハートの女王を名乗る眠り鼠。彼女に従う双子の軍帽と同じ紋章が入っているということは、グリフォンも眠り鼠の所有物なのかもしれなかった。
ドゥエルがグリフォンに跨ったが早いか、今度は水面から大きな音を立てて何かが顔を出す。その音に驚いてコウモリが飛び立った。
「私のウミガメ!」
メベーラが声を上げて桟橋から飛び降りる。甲羅を持ったウミガメと呼ばれたそれは、驚いたことに牛の顔をしていた。
「牛…?亀…?」
思わず疑問を口に出すと、ウミガメはモーと鳴いた。完全に鳴き声は牛のそれだ。
「私、見たことある…不思議の国のアリスの挿絵に出てくるウミガメって牛の顔してるよね。ウミガメのスープにされてしまうって泣いてるの」
目をパチクリさせながらもミズキが言う。ミズキは確かに初めて出会ったときに不思議の国のアリスが好きだと言っていたが、そんなコアな情報まで知っているとは思わなかった。
僕も割と不思議の国のアリスについては詳しい方だと思っていたのだが、ミズキはこの世界についてより通の人のようだ。
「そうなの?知らないけど、私を運んでくれるウミガメはこの子!」
メベーラが笑ってウミガメの頭を撫でると、ウミガメはまたモーと鳴く。なんだかシュールだ。
驚いて飛び立ったコウモリはバサバサと僕らの周りを周回していたが、ようやく警戒心が解けたのか再びミズキの帽子へと戻ってくる。帽子の淵に逆さまにぶら下がり、羽を自身の身体に巻きつけた。
「実は私の船もさっき出来たんだよ!」
ミズキがそう言うとスケッチブックの紙を破いて海へと放る。その紙からムクムクと巨大な木製の船が立体として姿を現す。絵本に描かれるような、可愛らしい二人乗り用のボートだ。漕ぐことを想定してかオールもついている。
「お疲れ様、ありがとう!」
「いいえ!」
お礼を言うと、ミズキも笑って桟橋からボートへと乗り移る。僕もそれに続き、オールを手に取った。ここはミズキに頑張ってもらった分、僕がボートを漕ぐ番だ。
全力で漕ぐぞ。僕の出番は力仕事と交友関係くらいでしかないのだ。ミズキに良いとこを見せたい。僕は袖を捲る。
「じゃあ、出発しよ!霧が濃いからはぐれないようにしてね!」
メベーラがぽんぽんとウミガメの頭を軽く叩く。それに合わせてウミガメが先導するように海を泳ぎだした。
向かうは霧の向こうの城下町だ。今まで出会ってきた人たちが知らない、眠り鼠が支配する町。
アリスは本当にそこにいるのだろうか。
朝になって村を出ると、僕らは湖に向かった。湖のほとりで僕はミズキの隣に座り、彼女が一生懸命に書き込んでいるスケッチブックを覗き込む。
僕らは船を持っていない。持っていないが、ミズキが船を描けば手に入る。無力な僕はこうしてまた彼女の能力に頼ってしまっている現在だ。
「船って描いたことないから分かんない…」
筆を片手にミズキが口を尖らせて唸る。
「あんまり描く機会のあるものじゃないしね」
僕は苦笑いしながら空を見上げる。太陽が真上に差し掛かる、うららかな昼。青空がまぶしい。
絵というのは、僕は記憶力ゲームだと思っている。正確に記憶し、それを紙にアウトプットする。その立体をいかに二次元に落とし込めるかだ。
船なんて、あまり描こうと思う機会がないものだと、ちゃんと覚えていないだろう。少なくとも僕は覚えていない。何も身になるアドバイスを持ち合わせていないのが申し訳ない。
ミズキのコウモリは今日もガルボハットの上でつぶれたように眠っている。最近、彼の警戒心は死んだのか、ミズキの帽子の上で腹を出して寝るようになった。コウモリとしてあるまじき姿だ。
「…町って人多いのかなあ…」
船を描きながらミズキが言う。彼女のスケッチブックには船というより、ボートに近いものが描かれている。相変わらず彼女の前に立ちはだかる問題は人口密度のようだ。彼女の声からは不安や不満がありありと伝わってくる。
「町は人が多いし、アマネって人が住んでるんでしょ?本当に行くの?」
「そうだね…でも、町には色々な情報がありそうだし、いつかは行かないといけないんじゃないかな。こっちの森はもう十分すぎるほど探索したしさ」
僕は短剣を首から取り上げる。手の平で握ったそれは七色に輝きながら、形を大きく変え、巨大な剣になる。刃幅が広くて刀身が黒い剣だ。工夫を繰り返し、最初に作った時よりも大分軽くなった。
瞬時に作れるよう、戻したり大剣にしたりを繰り返す。いざと言う時にすぐに作れないと困るので、こうして手が空いている時は練習するようにしていた。
しかし、ミズキの不安は最もだ。僕もこんな戦えるかも分からない状態で町へ行っていいものかと思ったが、ミズキに出会う前にもこの森はかなり探索している。つまり、探索し尽くしている。これ以上ここにいても現実に帰るための、アリスに会う手掛かりは掴めないのだ。
「すぐに町に入らないにしても、湖をどう渡れば町の中へ入れるのか調べておきたいしさ。城壁に阻まれたら遠回りになってしまう」
ミズキの能力で作った大型の道具は1日しか持たない。老人は半日もあれば町へ行けると言っていたが、道を知らない僕らでは1日以上かかってしまう可能性もなくはない。途中で消えでもしたら、僕らは溺れ死んでしまうかもしれない。
ミズキもその可能性は心配していた。能力を使っている本人なのだから、考えるのは当たり前だろう。
「そっか…」
筆を動かしながら、彼女はしょんぼりしながら手を動かす。
人がいる場所に行くのが苦手だとしても、恐らく考えていることはミズキも一緒だから、ボートを描いてくれているんだろう。
村に出てきて以降、意見がすれ違う機会はかなり増えたが…まあ人には苦手分野もあるし仕方ない。
「ねえ、ドゥエル!この間のお兄さんがいるよ!」
「おい、メベーラ!この間のお姉さんがいるぞ!」
不意に背後から聞き覚えのある声がして僕は振り返る。そこにはあの赤い軍服を身にまとった二人の子供が立っていた。
彼らは僕を見るや否やこちらに走り込んでくると、二人同時に僕に抱きつく。何が起きたのか分からないでいると、彼らは声を揃えて笑う。
「変態から助けてくれてありがとう!」
「悪党から守ってくれてありがとう!」
隣で絵を描いていたミズキも驚いたように目を丸くしてこちらを見ている。帽子の上のコウモリは相変わらずスヤスヤと寝ていた。
変態と悪党…イディオットのことだろうか。彼は決して変態でもなければ、悪党でもないが、確かに初めて彼らに会った時は助けるような形になってしまっていたことを思い出す。何と返事をすればいいか悩んでいると、双子たちは僕からゆっくりと身体を話してミズキを見た。
「お姉さん誰ー?」
「お友達ー?」
ミズキは目を丸くしたまま彼らを見ていたが、少し間を置いてからコクコクと小刻みに頷いた。
「アスカのお友達…かな?」
照れたように笑う彼女に双子はシャンと姿勢を正すと、それぞれに自分の胸を叩いた。
「私はメベーラ!ドゥエルのお姉ちゃん!」
「俺はドゥエル!メベーラのお兄ちゃん!」
2人の声と仕草は息がピッタリだ。自己紹介を聞く限り、前髪を切りそろえた長い髪の女の子がメベーラ、短いマッシュルームヘアーの男の子がドゥエルという名前のようだ。
声を揃えてそこまでいうと二人は急に顔をしかめ、お互いに睨みあう。
「何よ!私がお姉ちゃん!ドゥエルは弟でしょー!」
「違う違う!俺がお兄ちゃんだ!お前は妹だろ!」
初めて会った時と同じように、二人は取っ組み合って喧嘩を始める。本当に仲がいいのか悪いのか分からない。喧嘩するほど仲がいいのかもしれないが。
僕は2人の肩を優しく叩いて仲裁する。
「まあまあ…双子なら同い年なんだし、お互いがお兄ちゃんお姉ちゃんでいいんじゃない?」
2人は互いの髪を掴みあげたまま僕を見ると、ようやくそれぞれ手を離す。
「アスカ、いい人だね」
「アスカ、良い奴だな」
2人が声を揃えて笑うが、その時に僕は気付く。
僕は彼らの前で一度も名乗っていない。僕の名前を出したのは、恐らくミズキが初めてだ。あの時にすぐにアスカが僕であることを2人は理解したのだろう。
村の宿主が彼らは明るくて賢いと話していた。喧嘩している姿を見ていると、あまりそうは見えなかったが、あながち嘘ではないようだ。
「お姉ちゃんはアスカのカノジョ?名前は?」
メベーラが不意にミズキに振り返って尋ねる。ミズキは話題の矛先が自分に向いた驚きか、照れからなのか、ぶわっと顔を赤くして首も両手も使ってあわあわと横に振って否定する。
「な、名前はミズキだけど、かっかかか彼女とかでは全然…!」
「なんだ、アスカ男なのー?」
ミズキの話を聞いているのか聞いていないのか、彼女の言葉に被せるようにドゥエルが言う。頭の後ろで腕を組む彼は何故か少し残念そうだ。
「あー…現実では女の子だったんだけどね。こっちの世界では男の子かな」
ドゥエルに説明しながら僕は肩を竦める。
男性として過ごすようになって、もう1ヶ月以上が経過していた。
最初の頃はずっと女性として生きてきて、女性としてですら自分の身の振る舞いが分からないのに、男性として暮らせるだろうかという不安はあった。上手く女装をすれば女性としても過ごせなくはなさそうだったので、最悪はまた女性物の服を着ようと考えていた。
しかし、男性として過ごすのは自分にとっては驚くほど楽だった。嫌いなスカートを履かずにいられて、ブラジャーも付けなくていい。下着は布面積が広くて食い込まない。何より好きな服で好きなような仕草が許される。
足を閉じて斜めに揃えなくてもいいし、イディオットとはちょっとした下品な会話もできた。昔なら有り得なかったことだ。
もちろん、男なら弱音を吐くなと叱られたり、仕草が女っぽくて気持ち悪いとか、昨日の老人による男性への理不尽な暴力とか、そういうことは何度かある。だけど、それはスカートを履いて無理やり女性らしく過ごす苦痛に比べれば笑い飛ばせた。
こうしている僕はとても自然でいられた。最初にミズキがこの状態の僕を受け入れてくれたことは、間違いなく大きいだろう。ドゥエルにこうして答えを返すまで、自分が現実では女性であることを忘れかけるほどに。
「ほーら、私が言った通りでしょ!アスカはお兄さんで、ミズキはカノジョ!」
「あっ、彼女じゃなくて友達… 」
してやったと言わんばかりに腕を組んでニヤリと笑うメベーラにミズキは困ったように訂正を入れるが、メベーラがそれを聞いているのかは分からない。
ミズキが自分の彼女扱いされることは、見ているだけの僕からすれば正直嫌ではなかった。
彼女に特別な感情があるかと聞かれたら分からない。分からないのだが、彼女たちが僕を男性として見ていてくれている事実が嬉しかったし、ミズキが照れている姿を見ると自分に好意を寄せていてくれているのが分かって尚更嬉しくなるのだ。
ミズキとても大事で、僕の半身のような…ずっと傍にいたいし、支え合いたいとは思っているが、恋人になろうとかは考えたことはない。そもそも、ミズキには恋人がいるはずだ。そんなことを考えるほうが不埒だ。
僕が彼女に寄せる好意は限りなく友愛に近く、それでいて広い意味で僕は彼女を愛していることは何となく感じてはいた。
人はこの感情をどう形容するのか、僕は知らない。親しみ深い言葉を使うなら、ただひたすらに僕はミズキが「大好き」なんだろう。
「ミズキは僕の大事な相棒みたいなね?」
焦るミズキに助け舟を出すと、彼女は顔を赤くしたままブンブンと首を縦に振った。
「そう!そうそう!相棒とか相方とか、そんな感じの…!」
「ふーん」
「へーえ」
ミズキの言葉に双子たちは少し退屈そうに口を尖らせた。
「てか、こんな場所で何してんの?やっぱりフロージィに会いに行くの?」
ドゥエルはミズキのスケッチブックを覗き込む。そこに描かれたボートの絵を見られるのが恥ずかしいのか、ミズキは背中を丸めてそれを隠そうとする。
「おーすげー船だ」
「でも、絵じゃ渡れないよ?」
感心するドゥエルの隣でメベーラが首を傾げた。
確かにミズキの能力を何も知らずに見たら、湖を見つめながら、ありもしないボートをスケッチブックに描いている謎の2人組だ。ピクニックか何かのように見えるだろう。
「ミズキは絵に描いたものを具現化出来るんだ」
僕が補足を入れると、双子はパチクリと目を瞬かせる。2人は目を見合せ、首を傾げた。
「ミズキ配役持ちなの?」
「ミズキの配役って何?」
声を合わせて尋ねる双子に気圧されるように彼女は少し身を引いたが、はにかむように笑って首を傾げた。
「帽子屋?ってよく呼ばれてるけど…」
「帽子屋!シュラーが会いたがってる!」
「帽子屋!フロージィが会いたいって!」
双子は彼女の言葉に喜んでその場に跳ねると、2人は手を取ってくるくると回る。無邪気に踊るその姿は微笑ましい。
微笑ましいが…イディオットが言っていた言葉がふと脳裏に蘇る。
帽子屋を殺したのは恐らく眠り鼠だ、と。その眠り鼠自身が会いたがってるなんて、それは恐ろしい話じゃないか。ただでさえ、その城にはアマネもいるのに、僕もミズキも命を狙われていたら情報集めどころの騒ぎじゃない。
「ごめん…もし、誤情報だったら申し訳ないんだけど、眠り鼠が帽子屋を殺したって聞いたんだ。眠り鼠にミズキを会わせたら殺したりしない…?」
恐る恐る尋ねると、双子は真顔になって踊るのをやめる。その表情は何か別の物を見ているようで、やけに真剣なその瞳は恐怖を煽る。
彼らはじっと僕を見つめていたが、また屈託ない笑みを浮かべた。
「あのイディオット野郎が吹き込んだんでしょ!シュラーはムエキなセッショーはしないって言ってたよ!」
「頭カテーからあの兎!フロージィがミズキ殺して何か得するって思わなきゃ殺さないよ!」
無益な殺生はしないが、有益ならするといった具合か…双子の話だけではイディオットの情報の真偽は分からないようだ。
自分が殺されるかもしれないという物騒な会話を前にミズキは顔を青くしたまま黙って視線を泳がせている。そりゃそうだ。僕も最初の頃そうだった、よく分かる。
「でも、俺はアスカとミズキにフロージィに会って欲しいな!フロージィの噂ばっかじゃくて話して欲しい!」
「私も!シュラーが2人を殺そうとするなら、絶対助ける!アスカ、私たちのこと助けてくれたもん!」
ドゥエルがミズキの手を、メベーラが僕の手を取って、彼らはお強請りする子供のようにその場でじたばたと地団駄を踏む。
「お願い~!一緒に行こうよ~!」
「湖の渡り方なら教えてあげるからあ!」
イディオットはディートルダムとディートルディーの目的は撹乱だと言っていた。イディオットの言葉を信じるなら、彼らの行動は演技である可能性がある。賢い子供たち、会話の最中に見せる不思議な眼差しが何を意味しているのかも分からない。もしかしたら、裏で恐ろしいことを考えている可能性もある。
それでも…再会してすぐに僕に抱きついて、感謝を述べた彼らの行動は嘘に見えなかったんだ。僕が忘れてしまっていたことを、陥れる相手に対していちいち律儀に覚えているだろうか。そうは考えづらい。
「…行ってみる?」
悩んでいた僕より先に口火を切ったのは、あれだけ嫌がっていたはずのミズキだった。
「この子たちは信用できそうだし、渡り方を教えてくれるんだったら…」
穏やかに微笑む彼女にドゥエルはパアッと顔を明るくして抱きついた。
「ミズキ!話がわかる!俺の女になってくれ!」
「ドゥエル!」
メベーラが怒ったように声を上げると、容赦なくドゥエルの脇腹に蹴りを入れる。蹴られた衝撃でドゥエルがミズキから離れ、地面に倒れると、入れ替わるようにメベーラがミズキに抱きついた。
「レディにそんなことするのセクハラ!サイテー!処刑よ処刑!」
「そこまでしなくても大丈夫だよ。みんなありがとう」
彼らの姿に困ったように笑いながらミズキがメベーラの頭を撫でた。
僕が押しても不満気だったのに、この二人が押すと素直に町に行くんだな…賛成してくれたのは凄くありがたいが、なんだか複雑な気持ちになる。僕の方が彼らよりずっと一緒にいるのになあ、なんて思ってしまう僕は女々しいのかもしれない。
しかし、ミズキが良いと言ってくれたらくれたで、今度は僕が悩んでしまう。ミズキを危険な目に合わせたりなどしたくない。むしろ、今日中に渡れるとは考えてなかったのは僕の方だ。
今の僕なら彼女を守れるか?ミズキが自ら勇気を出して外に出ようとしてくれているのを僕が引き止めていいものか?
引き止めてはいけない。貴重な彼女の意思だ。僕はそれを尊重したい。守れるか、ではない。僕が彼女を守るのだ。
ジャバウォックという配役を貰ったなら、その分だけ戦えばいい。ミズキが自分の力を使いこなすように、僕だってちゃんと自分の力を使いこなさなきゃならないだろう。
イディオットとその集落での噂話や情報だけでは、眠り鼠の目的も本人の人柄も分からないのもその通りだ。双子たちの意見も最もなのだ。真偽を確かめるならば、話を本人に聞きに行くのが1番確実なのだから。
「…ミズキがそう言うなら、行こうか。僕もアマネ以外となら少しは戦えるだろうし」
僕が頷くと、メベーラとドゥエルが両手を上げて喜んだ。それを見ているミズキも楽しそうに笑った。
「でも、私はアマネの存在だけが心配。アマネはアスカを殺したいんだよね?」
「アマネ?」
ミズキの言葉に双子が首を傾げる。
「アマネは優しいよ!俺の大好きなお兄ちゃん!」
「アマネのことが私は大好き!いい人だもん!」
思ってもなかった返答に僕とミズキは目を見合わせる。
アマネを慕う人間など、今までこの世界を旅してきて、1人も会ったことがなかった。僕自身、アマネを優しいと思ったことなど1度もないし、むしろ頭のおかしいサイコパスとしか思ってなかった。
「アマネは俺たちがお願いすれば、アスカのこと殺したりしないし、フロージィも味方してくれれば絶対に絶対に絶対に人を殺したりしない!大丈夫!」
ドゥエルが力強く言い放つ。その言葉には妙な説得力があり、僕は黙る。
アマネに出会ってしまった時、自分が生きて帰れるビジョンが浮かばないのだ。それなのに、双子の強い言葉は曇りを感じさせず、むしろ僕の心を揺るがせた。
アマネと話せるなら、それこそ話してみたい。僕は彼とまともに話したことなど一度もない。それこそイディオットも、集落の人も、村の人も。僕が知っている範囲で、アマネと話したことがあるのは双子だけ。彼らが見ているアマネがどんな人間なのかとても興味があった。
「…じゃあ、きっと大丈夫だよ」
僕は笑みを浮かべてミズキに頷いた。その様子に双子たちは両手を上げて喜び、その場を踊るようにくるくると回る。
「じゃあ、二人は船?私たちはウミガメとグリフォンの背中に乗せてもらってこの湖を渡るんだ。こっちに来て続きを描いてよ!ボート出してからじゃ持ち運びめんどくさいでしょ」
メベーラはそう言って僕らを手招きする。それに続くドゥエルに合わせ、僕とミズキも腰を上げた。
「こうやって三月兎はフロージィの悪い噂ばっかり広めるんだ。本当にアイツって嫌なやつ!イディオット!!」
僕の前を歩くドゥエルが中指を立てて、歯を見せて犬のように唸った。
最初に双子に出会った時、彼らは非常に仲が悪かったのは知っている。知ってはいたが、こうして聞いてみると、イディオットと双子の話は驚くほどに正反対だ。
イディオットの口から語られる眠り鼠とその仲間たちは冷酷無比な悪人だった。しかし、こっちでの悪人はイディオット。イディオットとは話したことがあって、実際に僕は彼の生き様や考え方に憧れを抱いていた。僕は彼が悪人ではないことをよく知っているつもりだ。
だが、同時にイディオットとは話せる時間があまりに短くて、僕はイディオットのことを詳しく知っているかと言われれば、あまり詳しくは知らない。彼が現実に帰ることに固執する理由も、生い立ちも知らない。
話したことがないから、非難することはできない。そうジャッジが言っていたことが今になってよく理解できる。
僕はまだ眠り鼠やアマネと話したことがない。彼らを何も知らずに非難などできないのだ。イディオットのことだって、彼をよく知りもせずに全て肩を持つなどしてはならない。
「そう言えば2人の配役はディートルダムとディートルディーだよね?能力ってどんなものなの?」
珍しくミズキが2人に話しかけた。僕らの1歩前を歩く彼らはチラと僕らの顔を見てから、2人で顔を見合わせ、また進行方向へと視線を戻した。
「嘘発見器?」
「何考えてるかフワッと分かる?」
2人がそれぞれに返答するが、どちらも微妙にニュアンスが違う。僕とミズキが首をかしげていると、進行方向を見たままメベーラも首を傾げた。
「説明難しいのよねえ…何となく話してる人に下心があるのかとか、本気で話しているのかが分かるって言うか…」
「さっきアスカが『誤情報だったらごめんね』ってフロージィの深い事情を聞こうとしただろ。そしたら、『アスカが本気で申し訳なく思っている』ことが直感で分かる。本気で申し訳なく思う奴がなんか下心あるとは俺は思わないから、アスカの言葉は嘘じゃないなって判断した」
メベーラに続いてドゥエルが言う。
つまり、相手が本心で言っているかの直観力に優れているという具合なのだろうか。メベーラの言う、噓発見器という表現はあながち間違いではないのかもしれない。
初めて会った時も、先ほどの妙な間も、恐らく彼らが能力を通して僕の心を読み取っていたのだろう。そう考えると、あの何を考えているのか分からない眼差しの意味が理解できる。
僕は初めての時、それを勝手に悪意と感じてしまった。だから怖かったが、こうして原理が出来ると、彼らは本当に無邪気な子供たちなのだと思う。あれは僕の勝手な被害妄想だったのだろう。
それならば、僕は現実でどれくらいの人たちに対し、その被害妄想を繰り広げてきたことだろう。話すこともせず、理解しようともせず、ただ怖いから僕は話すのをやめてきてしまった。そう思うと、それは凄く恥ずかしいことだ。
「あとは、ドゥエルの考えていることが分かる!」
「メベーラとは口に出さなくても目を見れば伝わる!」
メベーラとドゥエルは珍しくお互いに笑いかけると「ねー」と一緒に頷いた。
「…言わなくても全部伝わるって心地いいよね」
彼らの話を聞いていたミズキがポツリと呟いた。
そうだ、何も言わなくても伝わるというのは凄く心地いいものだ。僕とミズキは彼らほどではなかったが、キャンプ地で暮らしてた間に関しては、大体のものが言わなくても一致していた。だから、これだけの長時間を一緒に過ごすことが苦ではないのだろう。
でも、僕らは双子のようにはなれない。言わなくても何でも伝わるわけではない。だから、彼女が僕と2人きりに固執する姿を見る度に、僕は少し不安になる。僕がこれからミズキと一緒にどうありたいのか、彼女に明確に伝わっていない気がしていた。
ミズキは本当に僕と現実に帰ることを望んでいるのだろうか。僕はその疑問をずっとミズキに伝えられずにいる。答えを聞くのが怖かった。
4人で湖のほとりを歩いていると、次第に霧が立ち込めてくる。白む視界の奥に小さな明かりが見えた。
「あそこに桟橋があるよ!」
メベーラが光に向かって走り出し、ドゥエルも続いた。隣のミズキが迷ったように僕を見る。僕が口元で微笑むと、彼女は僕の手を取って笑った。
「いこっか!」
ミズキに引かれて小走りで双子についていく。小さな明かりは誰かがつけたランタンのようで、それは木製の粗末な桟橋の柱にくくりつけてあった。
「随分と霧が深いね」
もはや10メートル先は見通せないくらいに濃くなった霧を見渡して僕は言う。双子たちは手慣れた様子で桟橋に桟橋の上へと走って上がっていく。
「城下町に行くなら絶対にこの霧はくぐらないとダメなんだよ」
「だから、道も分からないまま行ったらソーナンするぜ!」
メベーラの言葉を補足しながら、ドゥエルが指笛を吹いた。ピーっと甲高い音が湖に響き渡るが、特に何か動きは見えない。
これは確かに彼らの助けを得て良かったかもしれない。それを知らずに渡っていたら、どれほどの時間を要したかも分からない。
「ミズキの絵はどれくらいで仕上がる?」
メベーラに言われ、ミズキは思い出したように腰に下げたスケッチブックを取り出す。先ほどのボートの絵を見つめ、彼女は小首を傾げる。
「あとは色を塗るだけだから…20分あれば出来るかな?」
「じゃあちょうどいいや!今、ウミガメとグリフォンを呼んだから、そのうち来るよ」
ドゥエルはそう言うと、ペタリとその場にあぐらをかいて座る。メベーラもその隣に同じようにあぐらをかいて座った。
あの指笛はどうやら彼らの乗り物を呼ぶもので間違いはなかったようだが、20分もかかるというのがさすが不思議の国といったところか。現実の通信機器でタクシーを呼ぶのとはわけが違う。
「それなら、私も急いでかかないとね!」
双子の傍にミズキも腰を下ろすと、スケッチブックを広げて、途中のまま握っていたパレットと筆を手に取った。心なしか、二人きりで描いていた時よりも彼女の筆の進みが早い。
双子は乗り物を呼び、ミズキは乗り物を作る。僕に出来ることと言えば…何もない。いつも申し訳なく思うが、4人の中で自分だけ仕事がないのは申し訳なさが割り増しする。
「何も出来なくてごめんね」
苦笑いする僕に、ミズキは笑顔で首を横に振った。
「いつもアスカにしてもらってばっかりだから、これくらいできるよ!」
「そう言われると救われるよ。ミズキは本当に優しいね、ありがとう」
ミズキは僕がこうして何もできない時に決して責めたりしなかった。僕はそれがありがたくて、だからこそ彼女の隣は心地よかった。役割分担を許してくれる彼女に感謝しながら、僕も彼女の隣に座った。僕ももっと、彼女の役に立って恩返ししたいな。
4人で並んで霧が立ち込める湖を眺める。双子たちはたまに欠伸をしたり、伸びをしたりとのんびりしていた。沈黙が流れるが、不思議とそれは苦にならなかった。
人と話す時、僕はいつも気まずい沈黙が流れないかよく考えていた。初対面の人間だと、特にそういった状況に陥りやすい。相手が話すことが思い浮かばないようであれば、僕は積極的に話題を提供しなくてはならない。
それはなかなかに疲れるのだが、ドゥエルとメベーラは子供であるからか、はたまた彼らの裏表のなさがそうさせるのか、その沈黙にはその気まずさがなかった。
うんと小さい頃によくこうして、何も話すでもなくクラスメイトと家に帰ったっけ。話したい時に話したいことだけを話す。大人になっていくと、どうしてそれが出来なくなっていくのだろうか。いつから、人を疑うようになったんだろうか。
気まずく思うのは、自分に自信がないからなのだろうか。一緒にいる相手に、一緒に過ごさせることを悪いと思ってしまう。だから、きっと僕は相手が僕に悪印象を抱いていると疑ってしまうのだ。
一緒いても気兼ねないミズキは明確に僕に好意を抱いていて、僕なしでは何も出来ないだろうという驕りがあるから、僕が自分の価値を疑わないでいられるからだろう。
「…メベーラとドゥエルは現実では何をしていたの?」
ミズキの絵の完成を待ちながら、ふと思い浮かんだ疑問を彼らに投げた。彼らは一斉に僕を見ると、同時に首を傾げた。
「わかんない」
「ゲンジツってなにー?」
思ってもいなかった答えに僕は目を丸くし、ミズキも顔を上げる。
「二人って中学生くらいに見えるけど、学校とか行ってなかったの?」
ミズキはすぐにスケッチブックに視線を戻したが、手を動かしながら僕に続いて疑問を述べる。彼女の疑問は最もだ。
皆、この世界にいる人たちはここの世界が夢であると自覚している。夢である自覚があるならば、現実の記憶も持っているはずだ。僕自身、現実の意味が分からない人間と話すのは初めてだった。
ミズキの疑問にドゥエルは顔をしかめて腕を組んだ。
「学校って町にあるやつだろ?フロージィが通えって言ってたけど、俺たちは通ったことない。別に行きたくないし、アマネやフロージィに遊んでもらってる方がよっぽど楽しい」
「ここに来る前までは真っ暗だったの。あったかくて、居心地のいい場所にいたと思う。でも、それだけ。気付いたら村にいたよ」
ドゥエルに続いてメベーラが言う。彼らの言葉に嘘や誇張は感じられない。本当に分からないのだろう。
記憶喪失だろうか…。これくらいの年齢なら自我を持っていても何も変ではないだろうに、情報があまりに抽象的だ。
「ゲンジツって何なのか分からないけど、そんなに大事なの?こんなに楽しい世界なのに…」
口をとがらせて言うと、ふとメベーラが何かに気付いたように立ち上がる。それと同時にドゥエルも立ち上がった。
「ウミガメだ!」
「グリフォンだ!」
その言葉に僕も彼らの視線を追った。その先にはまだ霧しか見えないが、耳を澄ますと確かに何かが聞こえる。湖の水面がなびき、上空から重たい羽音がした。
ミズキの帽子の上で腹を出して寝ていたコウモリがビクリと身体を震わせ、裏返るように身体を起こしてキョロキョロと周囲を見回す。次第に霧の奥から見えてきたそれは、鷲の上半身とライオン下半身をかけ合わせたような巨大な生き物。まさしく本で見たようなグリフォンだ。
「こっちこっちー!」
双子が声を重ねて手を振り、その場で跳ねた。バサバサと風を起こしながらドゥエルの前にそれは着地すると、見た目に似合わず静かにその場に座った。
グリフォンの嘴には手綱がつけられおり、背中には一人分の鞍が付けられている。騎乗を想定されていることがそれだけで十分に分かった。
「本物だ…」
スケッチブックを膝に乗せたままミズキが驚いたように呟いた。その水色の瞳は今までで一番大きく見開かれており、彼女がどれほど驚いているのかがよく分かった。
僕も思わず立ち上がり、グリフォンに近づく。今までこれでもかと現実味のないものを見てきたが、こういった伝説の生き物を目の当たりにするとさすがに驚く。いや、今の自分の容姿を思えば、僕も人のことは何も言えないのだろうが。
「おとなしいから触っても平気だぜ」
フンと得意げにドゥエルが言う。おとなしいから大丈夫と言われても、さすがにちょっと戸惑う。そんなに大きな嘴で嚙まれたら、僕の手首がなくなってしまいそうだ。どうせ再生するのだろうが、初めてアマネに肩の一部をそぎ落とされた痛みを思い出すと、進んで手首は失いたくないものだ。
「い、いいの!?」
日和る僕とは対照的にミズキは目を輝かせて恐る恐るグリフォンの首に手を伸ばす。グリフォンは彼女の手に頭を擦り付けるように首を寄せ、喉を鳴らす。
「可愛い~!」
グリフォンの様子にミズキは大興奮で、頬を高揚させてグリフォンの首をさらに撫で回す。気持ち良さそうに目を細めるグリフォンは確かに可愛いが、なかなかミズキも肝が座っている。本当に動物が好きなのだろう。
「ドゥエルが乗るの?」
「そうそう!」
僕の質問に答えながらドゥエルがよじ登るようにグリフォンの背中に乗った。鞍には薔薇の紋章が施されており、よく見るとそれはドゥエルとメベーラの軍帽にも同じものがあるのが分かる。
ハートの女王を名乗る眠り鼠。彼女に従う双子の軍帽と同じ紋章が入っているということは、グリフォンも眠り鼠の所有物なのかもしれなかった。
ドゥエルがグリフォンに跨ったが早いか、今度は水面から大きな音を立てて何かが顔を出す。その音に驚いてコウモリが飛び立った。
「私のウミガメ!」
メベーラが声を上げて桟橋から飛び降りる。甲羅を持ったウミガメと呼ばれたそれは、驚いたことに牛の顔をしていた。
「牛…?亀…?」
思わず疑問を口に出すと、ウミガメはモーと鳴いた。完全に鳴き声は牛のそれだ。
「私、見たことある…不思議の国のアリスの挿絵に出てくるウミガメって牛の顔してるよね。ウミガメのスープにされてしまうって泣いてるの」
目をパチクリさせながらもミズキが言う。ミズキは確かに初めて出会ったときに不思議の国のアリスが好きだと言っていたが、そんなコアな情報まで知っているとは思わなかった。
僕も割と不思議の国のアリスについては詳しい方だと思っていたのだが、ミズキはこの世界についてより通の人のようだ。
「そうなの?知らないけど、私を運んでくれるウミガメはこの子!」
メベーラが笑ってウミガメの頭を撫でると、ウミガメはまたモーと鳴く。なんだかシュールだ。
驚いて飛び立ったコウモリはバサバサと僕らの周りを周回していたが、ようやく警戒心が解けたのか再びミズキの帽子へと戻ってくる。帽子の淵に逆さまにぶら下がり、羽を自身の身体に巻きつけた。
「実は私の船もさっき出来たんだよ!」
ミズキがそう言うとスケッチブックの紙を破いて海へと放る。その紙からムクムクと巨大な木製の船が立体として姿を現す。絵本に描かれるような、可愛らしい二人乗り用のボートだ。漕ぐことを想定してかオールもついている。
「お疲れ様、ありがとう!」
「いいえ!」
お礼を言うと、ミズキも笑って桟橋からボートへと乗り移る。僕もそれに続き、オールを手に取った。ここはミズキに頑張ってもらった分、僕がボートを漕ぐ番だ。
全力で漕ぐぞ。僕の出番は力仕事と交友関係くらいでしかないのだ。ミズキに良いとこを見せたい。僕は袖を捲る。
「じゃあ、出発しよ!霧が濃いからはぐれないようにしてね!」
メベーラがぽんぽんとウミガメの頭を軽く叩く。それに合わせてウミガメが先導するように海を泳ぎだした。
向かうは霧の向こうの城下町だ。今まで出会ってきた人たちが知らない、眠り鼠が支配する町。
アリスは本当にそこにいるのだろうか。
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魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
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