シュガーポットに食べかけの子守唄

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6章

2 お茶会

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2.
森は上空からでは、葉が茂りすぎていて人を探すのには適さない。僕らは前に一緒に暮らしていたキャンプ地へ降り立ち、そこから徒歩でイディオットとチェルシーを探すことにした。
「懐かしい」
様々な家具が散らばったままのその場所に降り、ゆっくりと抱えていたミズキを地面に降ろす。僕の首に回していた腕を解いて、地面に立ったミズキは周囲を見回し、しみじみと呟いた。
「ちょっと前にそこのベッドでアマネが寝ていたんだよ」
ついこの間までアマネが寝泊りしていたベッドを指さして言うと、ミズキは興味深そうにそのベッドを見ながら笑った。
「初めてここでアスカと出会った時は、アマネさんに会わないようにって話してたのに、それってなんだか不思議だね」
考えてもみれば、あの時はアマネのことをストーカー呼びしていた時代だ。それを今では名前で呼ぶなんて、本当に不思議なこともあったものだ。
「村への進行方向なら、あっちかな」
僕は見慣れたキャンプ地から見慣れた村への道へと向かい、ミズキを手招きする。ミズキはそれに小走りで近づいてくると、何も言わずに僕の手を握った。
手を繋いで足早に森の中を歩く。翼があった分、こちらの方が進行速度は早いはずだ。道さえ間違えていなければ、イディオットたちは近くにいるだろう。
「あっ、待って」
ふと、歩いていたミズキが足を止める。振り返ると、彼女はポケットからペンを取り出す。
「自分が思い描いたものが形になるなら、現実ではあり得ない物も創れるよね?」
そう言って彼女は難しい表情を浮かべ、目を閉じる。何か欲しいものの姿を思い描いているのか、彼女はペンを宙に立てたまま唸る。
それから差ほど間を置かずに、彼女は宙をキャンバスにペンを走らせた。ペン先が走った軌道に虹色の線が現れ、それは丸くて小さな物体へと変化していく。
出来上がったそれが立体化し、ミズキの手元へぽとりと落ちる。高さの低い円筒状の白いアルミ製品。蓋はガラスになっており、中には赤と黒の磁石が中央に打ち付けられていた。
「…コンパス?」
それは旅に使うコンパスのように見えた。首を傾げる僕にミズキは口元に笑みを浮かべたまま頷いた。
「うん、コンパス。三月兎さんがいる方向に赤い磁石が傾くように描いたの。これが正常に動くなら、コンパス通りに動けばすぐに出会えると思う」
「何それ、めっちゃ便利じゃん」
考えたこともなかったが、確かにそんなものがあったら効率的だ。闇雲にこの近辺を歩き回らなくていい。言われてみれば僕の大剣だってミズキの発案で恐ろしく軽くて切れ味の良い物になった。彼女の考えつくものは突拍子もなくて、僕にはない発想ばかりで魅力的だ。僕の発想力には不思議の国らしい摩訶不思議さがないので、こういう場面に直面すると感心しかなかった。
ミズキの手の中のコンパスが僕らが向かおうとしていた進行方向と逆を指し示す。それはここから鉱山の方へと戻る道だ。
「追い越してたのかな?」
そう言いながら、ミズキは来た道を戻る。確かに向こうは歩きで、僕らは上空を飛んで来た。追い越していた可能性は充分あった。
「危うくすれ違うところだったね。こんなに便利なもの、考えてくれて助かったよ」
「これが壊れてたり、思ってたのと違う出来になってないか、ちょっと心配だけどね」
感心する僕にミズキは苦笑いする。ミズキがこういった現実にはあり得ないものを創るのはコウモリ以来だ。なんなら、生き物ではなく道具という形で考えれば、このコンパスが彼女の処女作となる。そう考えれば、彼女が不安がるのも分からなくもない。
コンパスに従って僕らは来た道を戻り、森の中を歩く。日が沈むと共に鬱蒼としてくる森は、いつ歩いても気味の良いものではない。
茂みの中に出来た獣道のような道を進む。日が暮れてきて、どこかでフクロウのような声がした。
「ちなみに、それがちゃんと稼働するなら、帽子屋用コンパスを創れば、帽子屋の位置も分かるんじゃない?」
ふと思いついたことをそのまま口に出す。帽子屋がもしまだ補充されていないならそれでいいし、接触が避けられるなら避けてしまいたい。僕の言葉をミズキは真顔で聞いていたが、じわじわと意味が脳に浸透していったのか、思いついたように手をたたいて人差し指を立てた。
「確かに」
「物は試しで作ってみない?」
僕の発案にミズキは頷いて、もう一個のコンパスを宙に描く。区別化が計られているのか、続いて創られたコンパスの色は黒いアルミのコンパスだ。
「こっちは帽子屋さんの位置が分かるようにしてみたけど…」
そう言うミズキの手に乗せられたコンパスはイディオットがいる方向と同じ方角を示す。それもほぼ全く同じ方向だ。
「えっ…」
作った張本人が一番に困惑の声を上げる。コンパスを持ったまま彼女はくるくると身体の向きを変えてみるが、それらは一斉に鉱山方面を指し示す。
「やっぱり不良品かもしれないこれ…上手く創れなかったのかなあ」
ミズキは困惑したまま眉をしかめる。
「どうしよう、三月兎さんの方角も違うかも…」
「いや、そうとも限らないよ」
僕は前に自分たちが描いて回った地図をポケットから取り出す。従来のコンパスであれば、赤は北を指し示す。ミズキと僕が一緒に手を尽くして調べて書き上げた地図を広げてみると、そこには鉱山側は西と表記されていた。
だとすると、ミズキが創ったコンパスは少なくとも通常とは作りが異なることが分かる。ミズキが創ったコンパスは間違いなく、別の何かを示している。
「…もしかしたら、もう帽子屋とオットーさんが遭遇している可能性もある」
一番考えたくないパターンだが、あり得なくはない話だ。この二つのコンパスが全く同じ方角を示すなら、むしろその可能性の方が高いまである。
不意に、二つのコンパスの赤い針がゆっくりと別の方角へと動く。
ゆるやかに、それでも似通った方角。どちらも僕らの正面側であることは間違いなかった。
「アスカと…アリスか?」
地面からゆっくりと顔を上げると、聞きなれた低い声がした。白いコンパスの指し示す方向、すぐ目の前には探していたイディオットとチェルシーが立っていた。
「こんなところで会うなんて、どうした。フロージィの方はどうなっている?」
訝し気に眉間にしわを寄せ、イディオットが腕組みをする。隣のチェルシーの存在は想像していたが、彼の背後には3人の男性の姿がある。どれも赤い軍服を着ており、それはシュラーフロージィの軍の者であることを示していた。
「アスカク~ン!やるじゃーん!オットーもう死なないよ~!!」
背後の三人はどうしたのかと尋ねる前にチェルシーが僕の目の前に走り込んでくる。そのまま僕の両手を握ってぶんぶんと縦に振ると、そのまま力いっぱい抱きしめて来た。
「見える未来が変わったの!これってアスカとフロージィの作戦が上手く行ったってことでしょお?凄いにゃあ!偉いにゃあ!」
「いや、でも」
「ご謙遜しなさんな!ミズキも仲直り出来て良かったじゃん!アタシもまた会えて嬉しいよ~!」
僕の言葉も聞かずに、チェルシーは続けてミズキを抱きしめる。相変わらずの苛烈なスキンシップだが、チェルシーとミズキが街へ一緒に出かける仲なのは嘘ではないらしく、ミズキは嫌がるでもなく眉をひそめて笑っている。
その脇でイディオットは肩を竦め、僕を見やった。
「その子はやはり例の子で間違いないようだな。俺たちは集落の者への伝達を済ませたとこだ。とりあえずは皆、戦争の準備を中止させ、和睦について説明した。これで、とりあえず敵対関係は終わるはずだ。チェルシーがもう俺が死ぬ未来が見えないと言うんで、何か手伝えないかと思って来たところだったんだが…」
「そうだったんですね。帽子屋は一先ず倒せたのですが、あまりに呆気なかったので、心配になって…僕とミズキだけ先にこっちへ来たところです。ちなみに、後ろの三人は…?」
事情を話つつも、僕はずっと気になっていた背後の男性たちへ視線を投げる。彼らは背筋の伸びた美しい敬礼をすると「お疲れ様です!」と声を張り上げる。絵にかいたような軍隊の方々だ。その集団の先頭に立つイディオットは普段の軍人気質も相まってリーダーのようにも見えるが、イディオットはただの外科医。いまだに僕の中では信じられない話ベストスリーに数えられる。
「彼らはフロージィがつけてくれた護衛だ。帽子屋以外にも俺を殺そうと動く者がいるなら、人手が多い方がいいだろうってな。まあ、脅されて和睦したわけではないことを証明するにも、フロージィ側の者がいる方が分かりやすいから、承諾して3人だけつけてもらった」
「なるほど」
僕はイディオットの言葉を噛みしめるように呟く。
チェルシーが見ている未来が変わったというのは、どうやら本当のことのようだ。それに、チェルシーが話していたイディオットの死に様は城下街での出来事。もしここで帽子屋の襲撃に遭って死ぬならば、確かに場所が予知とは異なってくるだろう。
「あっ、あのね、チェルちゃん」
チェルシーに羽交い絞めにされていたミズキが困ったように笑いながら、彼女の苛烈なスキンシップからやんわりと逃れる。
ミズキが人に愛称を付けて呼ぶなんて初めて見た。シュラーフロージィの話からは聞いていたが、本当に二人は仲良くやっていたのだろう。
「聞きたいんだけど、今見えている未来ってどんな未来なの?」
「あ~、オットーは大丈夫そうなんだけどね…」
チェルシーは自分の顎を人差し指と親指の間におさめ、口を曲げて唸る。
「フロージィとアスカが城の廊下で話してて、記憶の改ざんがどうのって話してるんだよね。よく聞き取れないんだけど…」
「記憶の改ざん?」
横から尋ねると、チェルシーは腕を組んで大げさに首を傾げた。
「そうみたい?グズグズしてらんない、みたいな?だから急いで城に戻ろうと思って、オットーとここまで来たんだよね」
彼女の話を聞きながら、僕の頭に先ほどまでミズキと話していた話題が頭をよぎる。
意図としない証言の齟齬。誰かによって操作されているかもしれないこの世界について、まだシュラーフロージィも知らない操作された情報が、この後になって分かるということじゃないだろうか。
だとすれば、まだこんなところでイディオットの生還を祝っている場合ではないのではないだろうか。この不可思議な現象はまだ続くということだ。
「そういう話題なら、実は俺も少し心当たりがあってな」
眉間に深いしわを刻んだまま、イディオットが何かを思い出そうと首を捻る。
「この不思議の国はどんなに歴史を遡っても5年前が最古の記録なんだ。証言もそうだ。大勢に聞き込みをしたが、古参の人間たちは皆口を揃えて4、5年前に来たと言う。俺も自分は4年前に来たと思っているんだ」
不意にイディオットの背後にいる男性の一人が、態勢を崩す。足が疲れたのか、背筋が痛くなってきたのか、休めの姿勢へと近づくのが僕の視界から見えた。
「俺は二代目に来た三月兎であると多くは口を揃えて言うし、初代の三月兎は女性だったと一部の人間から聞いた。だが、チェルシーは前の三月兎は男だったと言っている。男もいたなら、それだと辻褄が合わない。大体からして、俺が来た時にはすでにこの国のほとんどが出来上がっていた。そんなに自分は古株だと思えないんだ。年月は確かに数えていたはずなのに」
話を続けるイディオットの背後で、先ほどの軍人が一歩だけ後ろへと下がる。姿勢を崩しただけではないのかと、僕は思わず自分の背後を見る。シュラーフロージィは後でアマネを送ると言っていたので、もしかすると音もなくアマネが来たのかと思って振り返ってみたが、僕らの背後には誰もいない。
なら、何故あの軍人は後ろへ下がったんだ?
「ん?アスカ、どした?」
チェルシーが僕の様子に首を傾げる。
嫌な予感がした。ざわざわと背中が逆毛立つような、言いようのない不安。僕はすぐ隣のミズキを見る。
「ねえ、ミズキ。帽子屋を示すコンパスって今どこを向いてるの?」
「え?」
僕の言葉に、ミズキが思い出したようにコンパスを握っていた手を広げる。黒と白のコンパスがまた同じ方角を向いている。
一寸たがわぬその方角にいるのは、イディオットとその背後の軍人だ。
「僕の考えすぎかもしれないんですが、オットーさん…」
コンパスから顔を上げた瞬間、イディオットの背後に立つ軍人が頭上高く右手を上げて笑っている姿が飛び込んでくる。
彼がパチンと指を鳴らすと、その姿が真っ白な薔薇に包まれ、その傍にいた軍人のうちの一人が花びらになって地面へと消え落ちた。
「皆さん!離れて!」
残った軍人が慌てたように手に持っていた銃剣を構える。彼の声に全員が振り返る前に、その軍人の頭を何かが打ちぬく。彼の後頭部が破裂するように血しぶきが上がり、正面からその様子を見ていたミズキの顔から一気に血の気が引いた。
「何事だ!」
イディオットが背後を振り返る。血にまみれた赤い何かが軍人の頭を貫いて、そのまま地面を転がって僕の足に当たった。
石ころだ。どこかで見た光景。白い薔薇が散ったその場に出てきたのは、アマネの姿だ。
「人数揃った。フォーカード」
アマネの姿をしたそれは息を漏らすように笑い、再度手を空に掲げて指を鳴らす。
「あと一人揃えば、ファイブカードだったけど充分だな」
パチンとそれが再び音を立てると、今度は地面から大量の白い薔薇が咲き乱れ、盛り上がるようにして人の形を形成する。アマネを中心に左からドゥエル、メベーラ…一番右に帽子屋だ。
「良かった!うっかり油断してたらやられちゃって、どうしようかなって思ってたんだけど、みんなこっち側に来てくれたから、すぐにまた会えたね!」
森に茂る木々の隙間から差し込む月明かりの下で帽子屋が無邪気に笑った。宝石みたいな緑の瞳と、金細工のような髪の毛がキラキラと月明かりを反射する。
さっき、人が一人死んだばかりだなんて思えないほど、なんの悪意もない再会を喜ぶ言葉だ。人工的な美しさを放っている彼はにっこりと笑って手を叩いた。
「お前、いつの間に…」
威嚇するように低い声で問いただすイディオットに、帽子屋は嬉しそうに両手を合わせて微笑む。
「驚いた?実は昨日の夜、森の途中で軍隊の人に交代をお願いしたんだ。嫌がって大きな声を出そうとするから、口を塞いだら死んじゃったけど…どうしても驚かせたくて!いきなり僕の姿のままで出て行ったら、すぐネタばらしになって退屈でしょう?」
人を殺しておいて、まるで彼は罪悪感が無いようだ。悪気のない笑顔で彼は話しながら、少しばかり困ったように眉を寄せた。
「死んじゃった人に成り代わって、今日の朝までみんなで行動してたんだけど、今日の朝になって同室の軍人さんが僕のことを何だか変だって言うから…」
「殺したのか?」
帽子屋の言葉を待たずにイディオットが言うと、帽子屋はキョトンとした顔で彼を見る。怒りに歪んだ彼の表情を前に、帽子屋は口を開けて笑って人差し指を立てた。
「正解!だから、出発前にその人の分も変幻して、みんなと合流できるのをずっと待ってたんだ!パーティーするなら、人数は多い方が楽しいでしょう?」
もう当初のアマネの倫理観の方がよっぽど可愛げがあるように感じるくらいに、帽子屋の感性が狂っていることに気付かされる。到底、話なんて伝わらない。できる気がしない。彼の言う「楽しい」は僕らの持つ尺度では測りえないのだろう。
恐らく彼の行動は全て、自らの尺度でのみ図られた楽しいもので構成され、それを平気で人に押し付ける。僕らの表情や雰囲気で、自分以外がどう感じるかなんて考えていない。他人に微塵も合わせる気がない。そうでなければ、この困惑と怒りだけが立ち込める空間でヘラヘラと笑ってなんていられないだろう。
絶望的なほどに存在しない共感性。それが彼との会話に感じる違和感と無秩序の原因だ。
話を聞いていたイディオットの表情は、アマネと対峙した時に負けないくらいに険しく、激しい怒りで歯をギリギリとならしていたが、ミズキとチェルシーは帽子屋の言っていることが理解できないのか完全に呆気にとられていた。
そう言う僕も頭が痛くなりそうだった。苛立ちも怒りもあったが、呆れと落胆みたいな感情が混在している。
和解が望めないと何となく思ってはいたが、本当にこんなに話が出来なさそうだとは思っていなかったから、がっかりしていたのかもしれない。思わず大きなため息が出た。
「あっ、あのさぁ…楽しいパーティーするんでしょお?そしたら、そんな凶器持った物騒なパーティーは、や、やめにしない…?」
困惑と恐怖でか、震える声でチェルシーが言う。表情はなんとか笑顔を貼り付けているが、上擦る声が全てを物語っていた。
帽子屋はじっとチェルシーを見つめる。エメラルドのような瞳に彼女の姿が鏡のように映し出されていた。
「…そっか!じゃあ、こんなパーティーはどうだろう!」
パチンと帽子屋が指を鳴らす。すると、帽子屋とその傍にいた分身たちも含めた全員が薔薇を纏い、別人へと変化する。
「あっ…」
それらの姿を見たチェルシーが声を漏らす。そこに出てきたのは、全員見知らぬ男たちだったが、煌びやかな衣服を纏った容姿端麗な者ばかりだ。
シャンパンを両手で丁寧に持ち、中央の金髪の男性が声を張り上げる。
「こちらの姫に頂きました!」
彼がそれを上に掲げると、周囲の男性たちが拍手や指笛を吹き鳴らす。
「なんだこれ…」
イディオットがその光景を見回し、困惑の声を上げた。
後ずさるチェルシーの背中に、背後に立っていたミズキがぶつかる。ミズキは不安そうに彼女の肩を掴んだまま、僕を見た。
「ホストクラブ…?」
前にチェルシーから、彼女がホストクラブに通いつめていた時の話を聞いたことがある。僕の呟きは、男性たちによる歓声にかき消される。
「チェルシー、いつもありがとう。俺、頑張ってナンバー取るから今日もよろしく」
金髪の男性がミズキなど構いもせずにチェルシーの肩を抱き寄せる。それを他の男性たちが取り囲み、惜しみない拍手を送った。
白い薔薇が男性たちの足元から咲き乱れる。咲いたその薔薇は異様に甘い香りを放ち、長く香りを吸うと頭がぼうっとした。
気付くとそこには煌びやかなシャンデリア、巨大な水槽とネオンの光。高級感のある床に敷かれた絨毯の脇の巨大な台座には、シャンパングラスのタワーが築かれている。
テーブル席が幾重も並んだ部屋の中で、男性たちはマイクを持って口ずさむ。
「もっとちょうだい、もっとちょうだい、姫の愛をもっとちょうだい!なんと超超可愛い、素敵な姫から愛情頂きました!」
突然、歌のようなコールが始まり、男性たちがシャンパンをラッパ飲みで回していく。最後に回された金髪の男性がそれを受け取ると、一気に全てを飲み干した。
「ここなら毎晩ずっと、俺に会えるよチェルシー。お金もいらない。何もいらない。俺はお前を一番に愛せるよ。ずっと傍にいてくれ」
男性の言葉にチェルシーの瞳が揺らぐ。
「嘘だよ、くれなかったじゃん。今まで」
「嘘じゃないよ。今までチェルシーのことを傷つけてきて、本当にごめんな。ずっとお前が俺を支えてきたの、俺はちゃんと分かってるよ。今まで支えてくれた分だけ、俺が愛情で返すからさ」
金髪の男性はそう言うとチェルシーの手を握る。優しく髪を撫で、頬に触れる。
「チャンスを貰えない?絶対に後悔させない。お前が満足するまで、ずっと傍で愛すって誓うから」
彼の目を見て、宙をさまよわせ、彼女は震える唇で笑った。
「…本当に?」
「チェルシー!」
イディオットが声を上げて駆け寄るが、他の男性が彼の道を塞ぐ。
「やめろ、チェルシー!耳を貸すな!」
道を塞ぐ男性たちを押しのけ、止める手を払いのけ、イディオットがなんとかチェルシーの元へ向かう。その姿を見て、呆気に取られていたようやく僕は我に返る。それと同時に、まるでシャボン玉が弾けたみたいに目の前に見えていた情景が消え、僕の視界が白い薔薇にまみれた森に戻る。
そうだ、飲み込まれてはならない。これは帽子屋が作り上げた幻想のパーティーだ。この薔薇がきっと人をおかしくさせるんだ。今の空間は、この薔薇の香りが見せる幻影。
手伝いに向かおうとすると、イディオットの肩を掴んだ1人の男性が変幻する。その姿はアマネだ。
「邪魔してんじゃねえぞ、クソザコナメクジ」
アマネが振るう斧に、イディオットが聖書で応戦する。ガキンッと硬い音が響き渡り、本物に引けを取らない力強さにイディオットの足が滑った。
「オットーさん!」
アマネとイディオットの間に滑り込み、僕は大剣を作り出してアマネの斧を切り上げる。僕の剣に弾かれ、後退したアマネはニィと笑いながらポケットから棒付きキャンディを取り出して口にくわえた。
「なんで邪魔すんだ。お前らだって、夢の中くらい楽しい夢を見たいだろお」
彼は顎でチェルシーの方をしゃくって見せた。
チェルシーは震える手で金髪の男性の手を取り、笑う。彼女の目からボロボロと涙が溢れ、地面を濡らしていく。
その涙を吸って、地面から白い薔薇がまた咲いていく。それはまるでチェルシーを取り込むように、じわじわと侵食し、ついには彼女の身体にまで咲き始める。
「本当にお金いらない?お金なくても、アタシのこと愛してくれる?」
「もちろんさ。この世界ならお金なんかいらない。他の客も取らないし、顔も合わさない。ずっとお前のところだけにいるよ」
チェルシーの背後にいたミズキが彼女の肩を揺する。ミズキの存在など全く眼中になくなってしまったのか、チェルシーはそれでも金髪の男性から目を離さない。
「チェルちゃん!その人は偽物だよ!本物の人とは違うんだよね?チェルちゃん、今は三月兎さんが好きなんだよね?」
「偽物でも、愛は愛でしょ…?」
ミズキに振り返らずにチェルシーが答えた。
「オットーはアタシに一番をくれない」
「チェルシー!俺たちの話を聞け!」
イディオットが叫ぶと、アマネが再び彼に切りかかる。遠心力を生かしたフルスイング、僕はイディオットの前に滑り込んで傘を開いた。
ボンッと弾むように傘は斧を柔らかく弾き返す。弾力でアマネが掛けた力がそのまま彼に跳ね返り、アマネがよろよろと後退した。
「オットーさん、チェルシーさんをお願いします!アマネの偽物は僕が相手します!」
「分かった!」
イディオットが僕の後ろを駆け抜けると、今度は他の男性2人がドゥエルとメベーラに変幻する。鎖鎌と銃剣で飛びかかってくる彼らの攻撃を否し、イディオットが少しづつチェルシーに近づいて行く。
それを見ていたミズキが何かを空に描く。生み出されたのは黒くてもちもちと丸い身体をした、二本足で立つ小さな兎だ。
「この男の人をチェルちゃんから引き剥がして!」
彼女はどんどんと同じ兎を描きあげる。量産されたその小さな兎たちが群がり、金髪の男性を引っ張ったり押したりする。
徐々に力を増すそれは、少しづつ男性をチェルシーから遠ざけていく。
「やだ!やだ!行かないで!」
チェルシーが男性にすがるように抱きついて泣き叫ぶ、それを男性も抱きしめる。優しく、それでも力強く、包み込むように。
「彼らが俺たち2人の幸せを壊そうとしてるんだ。彼らさえいなければ、ずっと一緒に暮らせるのに」
男性はチェルシーの耳元で甘く囁く。
「だから…彼らを消してもいいかい?」
男性の、帽子屋の言葉にチェルシーの瞳が真ん丸に見開かれる。涙に揺れるその瞳の視線が泳いだ。
「チェルシー!」
イディオットが双子を蹴散らし、隙を縫って走り抜ける。
「くそっ」
アマネが舌打ちをしてイディオットの方へと走り出そうとする。それを僕は傘を構えて弾丸を打ち込んだ。
7回の爆発音と共に虹色の弾丸が射出される。アマネをホーミングするそれらをアマネは素早く回避し、弾が爆発するまで避けきると、苛立ったように食べ終えた棒付きキャンディを吐き出し、眉間と鼻の上にしわを寄せて唸るように怒鳴った。
「なんでお前はいつもいつも!みんな現実なんかに帰りたくねえって言ってんだろお!」
「違う!」
目の前にいるアマネは本物じゃない。偽物だ。
偽物のくせに、アマネのことをよく知りもしないくせに。目の前にいるアマネの皮を被った帽子屋に僕も叫ぶ。
「アマネの姿で勝手に彼の意志を穢すなあ!」
大剣を握りしめ、僕は目の前の偽物に斬り掛かる。
許せなかった。みんなでここまで歩いてきたことを愚弄されているようだった。頭に熱が集まり、痛むように脳が鼓動する。
「お前の幸せの尺度で、人の意志を勝手に測って踏みにじりやがって!自分の価値観押し付けてんじゃねえ!」
自分の喉が裂けるかと思うような怒号が口から出た。二重になって聞こえた自分の声はドラゴンの鳴き声のようにも聞こえる。ビリビリと空気が揺れ、目の前のアマネが揺れる鼓膜が痛いのか片目を細めて歯を噛み鳴らす。
アマネの斧と僕の大剣がぶつかり合って火花が散った。ギリギリと鍔迫り合いをし、アマネの斧にヒビが入る。
「兎くんたち!」
ミズキが小さなホイッスルを生み出し、彼女が力いっぱいにそれを吹いた。
甲高い音が空に響きたわたる。それは号令なのか、沢山の小さな兎たちは一斉に耳を立てて金髪の男性に群がった。
チェルシーの手が男性から離れる。彼女を侵食するように咲き乱れる白い薔薇を残った兎たちが蹴散らし、食いちぎり、食べていく。
「チェルシー!」
男性から離れたチェルシーの手をイディオットが取る。そのまま彼女を彼が抱き寄せ、胸に抱えた。
「…みんな、どうしてせっかくの楽しいパーティーを壊すの?」
バラバラと薔薇の花弁になって散りながら、男性が笑う。花弁が取れるたびにその姿は帽子屋の本来の姿へと戻っていく。
「あなたのパーティーは楽しくなんかない」
ミズキが声を張り上げる。
それに対して帽子屋はただ笑ったまま首を傾げた。
「何故?今まではアリスも僕が見せたパーティを楽しんでくれてたじゃないか」
「そう…なのかもしれない。分からない」
ミズキは首を横に振る。彼女には記憶がない。自信がなさそうなその声色は当たり前だろう。ここにいる全員が昔の彼女を知らなくて、帽子屋だけが知っているのだから。
それでも、彼女は帽子屋を見て、言葉の続きを紡いだ。
「でも、今の私には楽しいって思えないし、ここにいるみんなもそうなんじゃないかって思ってる。お願いだから、もう私たちに関わらないで」
「うーん、困ったな。君はずっと僕のものだったのに、そこの人たちに変なことを吹き込まれたの?あのジャバウォックのせい?」
帽子屋はただ笑いながら歩みを進める。その表情は整った顔立ちゆえに、人間味がなくて不気味だ。彼はミズキに近寄ろうと手を差し出す。
「この世界のパーティは君がいなくちゃ成り立たないんだ。だから、僕は君を引き止めるよ。アリス、僕と一緒に終わらない夢を見ようよ」
「来ないで!」
ミズキがペンを走らせる。すると、帽子屋とチェルシーの間に巨大な鉄格子のフェンスが地面から突き上げるように現れ、チェルシーを抱きしめるイディオットと帽子屋を分断するように境を創った。
「いやあ!消えないで!嘘でいいから!!その場しのぎでいいの!一番が欲しいの!お願い!!」
「落ち着け」
泣き叫んで暴れ回るチェルシーを少し強引に自分の腕の中に押し込め、イディオットが彼女の肩を掴む。
「その場しのぎの幻想は麻薬と変わらない。そんなものに手を出すな」
「うるさい!うるさい!アタシの何も知らないくせに!!何もくれないくせに!!」
「ああ、知らない。何も知らないし、お前が求めてるものが俺にはよく分からん」
金切り声を上げて頭を掻きむしるチェルシーの手を優しく止め、イディオットが彼女の顔を真っ直ぐ見つめる。
「でも、俺はお前の呑気なところも、マイペースなところも好きだ。頭が堅い俺に愛想を尽かさないでいてくれたことも感謝しているし、ずっと慕っててくれて嬉しい。これからも一緒にいたい。それじゃだめなのか」
鍔迫り合いをしていたアマネの斧がバキンと大きな音を立てて割れる。大きくよろけたアマネの頭に僕は銃口を突きつける。引き金を引くと、破裂音と共にアマネの脳天を銃弾が貫通し、後頭部が砕け散った。
「よくも!」
「やってくれたな!」
ドゥエルとメベーラが隔たれたフェンスの隙間からイディオットの背中に向けて銃口を向け、鎖鎌を投げつける。
イディオットがそれを背中で受け止めるが、硬化させているのかビクともしない。
「兎くん集合ー!」
ミズキが手を上げて笛を鳴らす。帽子屋の一部である白い薔薇を食い散らかしていた兎たちは一斉に彼女に振り返ると、彼らは1箇所に集まって積み重なっていく。
それらはやがて1匹の巨大な兎へと変化する。巨大な兎は双子たちを背後からつまみ上げると、イディオットに悪さができないように、もちもちとした柔らかい腹の中に抱き込んだ。兎の腹の中で双子たちが何かを叫んでいるようだったが、兎の腹肉に埋もれてよく聞こえなかった。
「俺はお前が思っているより、お前のことが好きだぞ。どうしたら、お前がそれを一番だと認識するのか俺には分からんし、お前が欲しいものじゃないのかもしれないが…そういう好意じゃいけないのか?」
イディオットの言葉にチェルシーが静かになる。彼を見つめたまま、彼女は目を丸くした。
見開かれた瞳からボロボロと再び涙を流しながら、チェルシーは口を曲げる。震える唇をきつく結び、寄せた眉が深いしわを刻んでいたが、それは徐々にゆっくりと震えながら、ゆるやかに弧を描き、彼女は笑った。
「…それがオットーの言う一番なら、その一番が欲しい」
彼女の言葉にイディオットは困ったように肩を竦めて笑った。
「それなら、話の続きはまた後でだな。お前は先にフロージィの元へ向かえ」
僕の目の前で頭を飛ばしたアマネの身体がみるみる再生していく。さすがアマネのコピーだ。凄まじい生命力はそのままのようだ。
「ミズキ!帽子屋の目が届かない場所までチェルシーを運んで!」
戦闘に向いていないチェルシーは、申し訳ないが足でまといだ。彼女の予知能力は今ここで生きることはないだろうし、こちらに人数がいるだけ相手が増えてしまう。
ミズキなら彼女を素早く送り届ける何かを生み出すことも出来るだろう。チェルシーを逃がすのは彼女以上の適任はいない。それに、話を聞く限り帽子屋の狙いはやはりアリスである彼女だ。退避させて損はない。
「わ、分かった!私はチェルちゃん送ったら戻ってくるから…気を付けてね」
「ありがとう!」
僕はアマネから目を離さずに笑う。ゾンビのように怪我を治癒させ、元の姿に戻っていくアマネが息を漏らすように笑い、首をゴキゴキと鳴らした。
「逃げんのかあ?恥ずかしいと思わねえのか、カース」
「戦略的撤退って言うんだよ」
僕は笑う。ミズキがホイッスルで合図を出すと、巨大な兎が双子を抱えたままミズキとチェルシーが乗れるように頭を下げた。どうやら、双子の偽物はそのまま連れて行くようだ。
帽子屋の目が届かない場所まで行けば、帽子屋が変幻出来るのは2人分になる。それであれば、遠くまで行けばあの双子はいずれ消えて薔薇の花弁になると踏んだのかもしれない。
ミズキが押し込むようにチェルシーを兎の頭に乗せる。彼女が乗ったのを確認し、ミズキもそれに続いて兎の頭に乗ると、ゆっくりと兎は頭を上げた。
「オットー!待ってるから!」
チェルシーの言葉にイディオットが眉間にしわを寄せたまま、ふんと鼻で笑った。
「すぐ片付ける」
走り去る兎の足音が遠ざかる。フェンスで分断されていたイディオットと合流するために僕は鉄格子を大剣で切り裂いた。空いた隙間から身体を滑り込ませてイディオットと合流すると、彼は聖書を手に帽子屋たちを見やる。
散々兎たちに花弁を食い散らかされていた帽子屋は、食べられた分だけ薔薇の花弁を増やして再生していく。アマネの偽物さながら、帽子屋もゾンビのようだ。
「鏡に背を向けても、写っている人数に変わりはないんだよ?」
パチンと帽子屋が指を弾くと、薔薇の花弁が再び地面から盛り上がるように生え、人型を形成する。それはミズキが持って行ってくれたはずの双子たちの姿を模す。
「瞬間移動できるのか…」
これは非常に面倒だ。僕は嘆息する。ミズキたちが遠く離れるまでこの人数を相手をしなくてはならないのだ。
「2人が逃げ切るまでの辛抱だ。そう時間はかからんだろう」
イディオットが話している間に双子が彼に一斉に飛びかかる。飛んでくるドゥエルの銃撃を聖書で弾き返し、鎖鎌を腕で否す。
「コイツら2人と俺は相性がいい。怪我もなく倒せる自信はあるが、アマネばかりはどうにもならん。また任せていいか?」
「もちろんです!」
彼の言葉に僕は強く頷いて傘を構える。
最初こそ、現実にいない生物だからと帽子屋を攻撃することに戸惑っていたが、今となっては僕はシュラーフロージィの意見に全面的な肯定を示すことが出来るようになっていた。
帽子屋はこのままにしておけない。彼は悪意のない邪悪の塊だ。僕らに関わろうとする限り、消し去らなくてはいけないのだろう。
アマネの偽物に銃口を向け、傘の上段にレバーを作る。安全装置を外し、レバーを下げた。
大きな破裂音と共にそれを目の前のアマネに打ち込む。アマネはそれを、いつか見た時と同じように斧でそれを叩き切るが、分断された弾がその場で爆発を起こす。
白とも赤とも取れるそれは太陽のように灼熱の光を発し、アマネの身体を焼き焦がす。彼はそれを手で払って消そうとするが、僕が放った弾丸は溶岩のようにベッタリと彼の体に貼り付いて離れない。
僕だって同じ鉄は踏まない。新しい武器は全て、僕の頭の中にあるのだ。
「クソザコナメクジはそっちだな」
僕は口の端を上げて傘に狙撃用スコープを作り出し、アマネの脳天に狙いを定める。
「本物のアマネだったら、こんなに弱くないよ。もう少し、人間の気持ちや意志について勉強したらいいんじゃないかな」
引き金を引き、アマネの頭を撃ち抜く。急所を撃ち抜かれた彼は前と同じように頭から血しぶきを上げながら、身体を大きく仰け反らせる。それでも倒れない彼に僕は大剣を持って走り込んだ。
ぐちゃぐちゃに切り裂けば、再生に多少なりとも時間がかかるはずだ。そうすれば、ミズキたちは逃げ切って、人数が減るはず。
戦況は優勢。勝てる、イディオットと2人なら。
「明日香ちゃん」
剣を振り上げた僕に女性の声が降りかかる。その瞬間に、僕の身体が言うことを聞かなくなった。
剣が振り下ろせない。
「なんでアンタはいつもそうやって他人のことを思いやれないの?可哀想だと思わないの?」
気付くと、アマネだと思っていた人間が幼い子供になっている。彼は自分の腕を抱えて泣いていた。
「明日香ちゃんが噛み付いた!」
「なっ…」
剣を掲げたまま僕は困惑する。この光景、見たことがあった。ずっとずっと幼い頃。あの時の僕をはまだ保育園児だった。
僕の足元に白い薔薇が咲く。異様に甘くて脳が痺れるような香り。
気付くと僕は清潔そうな広いフローリングの部屋の中にいた。背丈の低くて広いレクリエーション用のテーブルと、オモチャがたくさん入った箱。僕が大剣を持っていたはずの両手には、僕が好きだった恐竜のソフトビニール人形が握られていた。
「ああ、本当によその子に噛み付くなんて…どうしてこんな子に育ったのかしら。謝りなさい」
遠くに見えるのは僕の母親だ。彼女は心底落胆したように大きなため息を吐く。
違うんだ、あの子がいつも僕が欲しいオモチャを奪うから。僕の髪を引っ張ったり、叩いたり、嫌だって言ってもやめないから。今日も僕のオモチャを横取りしようとするから、初めてやり返しただけなんだよ。
僕は彼に髪を引っ張られても、オモチャを取られても、叩かれても、笑い者にされたって、ずっと何も言わずに我慢していたのに。
「アスカ!」
遠くからイディオットの声がする。イディオットは何故かシュラーフロージィとアマネの2人と戦っていた。
アマネの攻撃を両腕で受け止め、イディオットが後退する。その背後からフロージィが仕込み杖で彼の背中を突き立てた。
高い金属音のような音。2人の攻撃をイディオットは全て硬化で弾き返すが、攻撃に転じる隙はない。
彼は何をしているんだろう。いや、僕はどうしてここにいるんだろうか。次第に頭が飽和する。思考が鈍くなり、僕の視界は全て母親に支配される。
やぶにらみな眼差しで彼女は僕を見つめている。まるでゴミでも見るようなそれが、酷く恐ろしくて、同時に腹立たしくも思えて悪寒がした。
「…謝りたくない」
「どうしてそんなに酷いことを言うの?」
僕の反論に母親が言う。
「あの子の腕に怪我させておいて」
「僕は毎日、彼に酷いことをされてたんだ」
「アンタは怪我らしい怪我なんてしてなかったでしょ」
僕は歯を食いしばって、仕方なく右手の恐竜の人形を彼に差し出した。幼い男の子はそれを僕から奪うように乱暴に受け取ると、舌を出して笑い、僕を煽る。彼の腕にあった僕の歯型は、もうほとんど消えかけていた。
何故、すぐに消える彼の腕の歯型は怪我なのに、僕が彼に叩かれて赤くなる肌は怪我じゃないんだろう。
沢山引き抜かれた僕の髪の毛も怪我にならないのに。毎日のようになじられて泣いた僕の涙も、誰も気にかけてはくれないのに。
母親が言う通り、噛んではいけなかったのかもしれない。だけど、僕の痛みと彼の痛みをどうして母親が比べて比重を決めるんだろう。僕が感じた痛みを、あなたは体感していないのに。
「謝りなさい」
母親が僕に言う。
僅かに残った僕を肯定する自分が頭の中で彼女の要求を拒絶する。謝りたくない。僕だけが責められるなんておかしい。おもちゃは譲れど、それは譲ってはならないと何故か警鐘を鳴らしていた。
頭の中で誰かの声が木霊する。
痛いから、分かってくれって言ってんだ。分かって。解って。別って。わかって。
言っていた誰かの姿が薄ぼんやりとしか思い出せない。
「アスカ!帽子屋に騙されるな!」
イディオットがアマネの斧を聖書で塞ぐ。ギリギリと鍔迫り合いをしている横から、シュラーフロージィが仕込み杖を片手に走り込んで来たが、不意にフロージィの姿が花弁となって崩れ落ちる。
イディオットはその様子に目を丸くした。
「ミズキとチェルシーは逃げ切ったのか…?いや、しかし帽子屋は何故3人…」
「よそ見してると死ぬぞボケナス」
アマネが斧でイディオットの聖書を弾き、イディオットの身体が大きくよろける。その様を見たアマネが不気味に笑った。
斧を回転させるように再びイディオットの腹を目掛けて切り上げる。硬化した衣服で彼はそれらを受け止めるが、硬化できない彼の頬にかすり、赤い線が走った。
「謝りなさい」
黙っている僕に母親が怒ったように語気を強めて繰り返す。目の前に立ちはだかる彼女の姿は、随分と大きくて、まるで刑務所の壁のようだった。
登れない。壊せない。巨大な塀。僕を阻む、小さな牢獄の壁だ。
「嫌だ」
「明日香ちゃん」
「僕だけが悪いんじゃない。彼だって」
「明日香ちゃん、そんな気持ちの悪い言葉は遣いはやめなさい。早く謝って」
僕がかぶりを振って言葉を話そうが、母親は心底呆れたようにため息を吐いて、僕の言葉の上から言葉を重ねていく。
消される。僕の言葉が、意思が、気持ちがかき消される。なかったことになって、僕の言葉は空中で途切れる。誰にも届かずに、僕の耳にすら届かなくなっていく。
「僕の話を聞いて」
「もう聞いたわ」
何度目の応酬とも分からない会話に、次第に脳みそが疲弊していく。
話を聞いて。頼むから聞いてくれ。
あなたの話が聞きたいと言ってくれた誰かの声が遠ざかる。伏せ目がちな彼女の名前が分からなくなっていく。僕の話に最初に耳を傾けてくれた彼女は誰だっけ。彼女とはどこで何を話したんだっけ。
「いい加減にしなさい。早く謝って」
僕の母親の後ろで、僕の好きな恐竜のソフトビニール人形を片手に先程の子供が楽しそうに遊んでいる。僕が遊びたかった人形なのに。彼ばかりずるい、と疲れた脳の隅で思った。
僕も遊びたい。笑っていたい。スケッチブックに描いた絵を見せ合って遊んだあの子はどこだろう。なんだっていいや。どうだっていいや。早くここから逃れたい。
ここで僕が謝れば、みんな幸せになるんだろうか。母親は僕を許してくれるのだろうか。僕が出来損ないの子供じゃないと、生んだことを後悔していないと、あなたは言ってくれるのだろうか。頼むから、この牢獄から早く僕を出してくれ。
母親は僕の神様だったのだと思い出す。彼女なくして僕の家族は生きてなどいられない。彼女から産み落とされた僕は、彼女を崇拝して、彼女の経済力の恩恵を得る。たとえそれが、飼い殺されているような惨めな生活であっても、神様がそう創ったならば仕方がない。
神に盾突いて生きていられるわけがないのだ。彼女が下した判決が有罪ならば、僕は有罪。死刑囚。仮釈放されたいならば、模範囚にならなくては。
僕は口を開く。唇が震えた。悔しくて、惨めで、腹立たしい。何故、いつも僕の母親は僕を味方してくれないのだろう。僕の話に耳を傾けてくれやしないのだろう。
謝罪の言葉を口にしようとした、その瞬間だった。僕の母親の首の一部が削がれるように吹き飛んだ。呆気に取られていると、続けざまに何かが母親の首に打ち込まれていく。それらは的確に彼女の首を撃ち抜き、千切るようにして彼女の首と胴体を分断する。
母親の足元に散らばるのは、血にまみれた大量の小石だ。
「どーせ、また子供だからって一方的に謝らせようとしてんだろお?話聞けっつってんじゃん」
息を漏らすように笑う声がした。目の前の情景がみるみる森へと戻っていく。振り返ると、真っ白な大剣を引きずっているファーコートを着た男性が、小指で輪舞を掻きながら歩いてきた。
「帽子屋と戦う時は置いてくなつってんのに、アマネが寝てる間にみんな置いてきやがって」
バリバリと口にくわえた棒付きキャンディを噛み砕き、地面に棒を吐き捨てた。地面に引きずってきた白い大剣を肩に担ぎ、彼は帽子屋を見据える。
僕があげたヴォーパルの剣。柄に埋め込まれた虹色に輝く宝石を持つそれは、彼が本物のアマネである証だ。
「いいところに来てくれた!アスカを正気に戻してくれ!」
アマネの偽物を相手していたイディオットが声を張り上げる。彼が偽物のアマネの斧を聖書で押し返すと、交代した偽物が姿を変える。白い薔薇に包まれたそれは花弁になり、帽子屋の元の姿へと変幻した。
ぼんやりと頭が働かずに立ちすくんでいた僕の頭をアマネが叩く。軽く二、三回とバシバシと平手で叩かれ、僕はようやく瞬きをした。
「おい、ぼんやりしてんな。念願のリベンジマッチだぞ」
アマネの言葉に、鈍くなっていた僕の頭が動き出す。僕は自分の顔を両手で叩いた。
しくじった。チェルシーの例を見ていたのに、まんまと帽子屋に乗せられてしまった。
幻想だと分かっているのに、帽子屋が見せるそれは一種のフラッシュバックだ。記憶の追体験はここまで人の精神を蝕むだなんて、知らなかった。
みんなの顔が蘇る。僕の話を聞きたいと言ってくれたミズキの名前を、共感を許してくれた目の前の彼を、今も必死にイディオットが僕を守っていてくれていたことを。
僕に神様なんかいない。僕の潔白も、罪も、真実も、それは僕だけが決められる。そう教えてくれた人たちが、僕の傍には沢山いる。
僕だけが、僕の潔白を信じられるのだ。
「ごめん!ありがとう!」
僕は自分の身体に咲き始めていた白い薔薇をむしり取り、地面に捨てる。大剣を握り直し、僕は帽子屋に向き直った。
「うーん、ジャバウォックくんが謝ってくれたら、お母さん抱きしめてあげられたのになあ」
残念そうに眉を寄せながら彼は笑う。
そうか、僕があの場で謝っていたら、僕は母親に愛される幻想を見せられるはめになっていたのか。それも、甘い夢へと塗り替えてくる恐ろしいもの。
僕が望んだ母親の愛が手に入るという、叶うわけのない幻なんて見なくて良かった。あの甘い夢に堕ちたら、きっと自力で帰るのは難しい。
帽子屋が指を鳴らすと、今度は双子の偽物が彼を挟むように姿を現す。それを見て、イディオットが不敵に笑った。
「なるほど。お前の仕組み、やっと分かったぞ」
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