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8章

1 美しいもの

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1.
「トクベツシエンガッキュー入りたい!」
特別支援学級の教室を覗いてから、ミズキは口癖のように言うようになった。あの光景を見て、ミズキがどう感じたのかは僕にはまるで理解できない。あの混沌を極めたクラスは彼女の目にどう映ったのだろう。
彼女の言葉を聞く大人たちは皆、困惑しては彼女にそんなことを言ってはダメだと説得をする。デリケートな問題であるせいか、大人たちは彼女の言葉がどうダメなのか詳しくは話したがらないので、ミズキはやはり納得が出来ない様子だ。
ミズキは小学校に入ったばかりの時、激しい人見知りを持つ彼女は学校に行くのを拒否しては泣きわめき、渋々と登校するという状態だったのだが、特別支援学級の存在を認知してからは泣かずに学校に行くようになった。
泣かずに学校に行くようになったミズキを母親はよく褒めてくれたし、心なしか学校に行くミズキの表情も少し明るい。
「あれだけ人見知りしてたんだ。ずっと保護者が傍にいるような環境に行きたかったんじゃないのか?」
モニターを眺めながら、ルイスはいつの間にか出したコーラを飲んでいる。
確かに特別支援学級の子供たちは、名前の通り支援を必要とする子供たちだ。他のクラスに混ざって勉強をする時も専門の先生がついてくる。大人が傍にいてくれる時間は通常よりもずっと長いだろう。
だけど、彼女の様子を見ていると、保護を求めて…という風には見えないのだ。そもそも、保護者が欲しいのならば、彼女は今まで通り学校に行きたくないと泣いて、母親の保護を求めるだろう。なのに、ミズキはそれをやめた。やめてまで学校に来ている。
特別支援学級に入りたいという彼女は、保護を求めるのではなく、別の何かを求めての希望のように思えてならないのだ。
「どうしたらトクベツシエンガッキュー入れる?」
二時限目が終わった中休み、教卓に座ってクラスを見守っていた女性の担任教師に尋ねる。彼女は困ったように笑う。この質問はすでに何度も受けているからだ。
「瑞希ちゃん、あのクラスには入れないのよ」
「なんで?」
「特別支援学級はみんなと一緒に勉強するのが難しい子たちが入るクラスだけど、瑞希ちゃんは普通の子でしょう?」
担任の言葉にミズキは顔をしかめて首を傾げる。口を曲げて聞いているその表情はどこか不満そうだ。
そもそも、担任の言う普通だとか普通じゃないとかの表現もどうかと思うが、咄嗟に他の言葉は出なかったのだろう。ミズキはそれ以上を質問するのをやめて席に戻る。ぼんやりと何かを考えているのかと思うと、彼女は何かを閃いたように目を開いた。
行動を起こすのかと思いきや、彼女はまた真顔に戻ってそのまま席に座って過ごす。ミズキには友達がいないようだったが、幸いイジメなどはない。一人で席に座った彼女はいつも家でやるように、スケッチブックを取り出すと絵を描き始める。変わったことと言えば、描く媒体がクーピーに変わったことくらいだろうか。
何もお手本がない彼女のスケッチブックに描かれるのは、ツインテールの女の子と、女の子が連れている犬の絵だ。犬は横顔のはずなのに目が二つ書いてあったり、口ではない場所に口がついていたりとエジプトの壁画を連想させるが、どことなく味があって可愛いらしい。背景には簡素な木や家のイラストまで書かれていて、きちんと人物より小さく書いてあるだけ遠近感が出ていた。小学校1年生でここまで描けたらなかなか上手なのではないだろうか。
結局ミズキは誰かと交流するでもなく、一人で絵を描いて全ての時間を費やした。そのうち始業のベルが鳴り、彼女はスケッチブックを机の中に押し込んで、乱雑にしまい込んだ。
「今から算数を始めるよー!みんな、おはじきを出して」
担任が教壇に立つ。彼女の手にあるのはよく見るガラスを平たく潰した円のおはじきだ。子供たちは元気に返事をし、それぞれが机の中の道具箱をあさり始める。
しかし、ミズキはおはじきを出さない。それどころか、彼女は驚いたことに急に席から立ち上がった。
「瑞希ちゃん?どうしたの?」
担任はミズキを見て困惑する。その様子にミズキは何を言うでもなく、突然走って教室から飛び出してしまった。
「瑞希ちゃん!?」
突拍子もないその行動に担任が驚いて声を上げるが、ミズキは立ち止まらない。クラスの子供たちがざわめくのを担任はなだめながら、ミズキを追いかけた。
「瑞希ちゃん!」
先生が何度も彼女の名前を呼ぶが、彼女はそのまま下駄箱まで走って靴を履き替え始める。それを先生は急いで捕獲すると、履き替えようとしている靴を取り上げて、上履きを優しく手渡した。
「どうしたの?おうちに帰りたくなっちゃったの?」
「やだ!」
ミズキは理由も言わずに、先生から手渡される上履きの受け取りを拒否する。全く理由なく授業を拒絶されては、担任も困るしかない。
ミズキは今日まで渋々ではあったが、ちゃんと学校に通い、授業もちゃんと受けていた。帰るなら、何も授業中である必要もなかったはずだ。休み時間中にトイレに行くふりでもして、シレっと帰ればいいだけの話。
授業中でなくてはならない理由が恐らくミズキにあるのだろうが、彼女はやだの一点張りで何も話さない。
「もう!言うこと聞かないとダメでしょ!」
優しい担任が珍しく声を荒げて怒る。彼女の叱責に瑞希はビクッと身体を跳ねさせて黙り込んだ。
「ほら、授業にもどろう?」
担任はすぐに優しい口調に戻るが、すっかりしょげてしまったミズキは手を引かれて教室へと戻って行った。
「これで終わるかと思いきや、アリスの奇行は終わらない」
ルイスは手元にリモコンを生み出すと、その早回しボタンを押す。倍速で送られていく映像にはミズキが何度も何度も教室から抜け出して走り出したり、着席を拒否したり、登ってはいけないと言われているのに積み上げられた体育用具が積まれた山を登ってみたりと、日に日にバリエーションを増やして大人たちを困らせていた。
それも一日に2回から多くて3回。4時限目までしか存在していない小学一年生にして、ほぼ毎時間やっている。何がどうしてそこまで彼女を奇行に走らせるのか、見ている僕も、映像の中にいる大人たちも全く分からなかった。
父親に少し叱られただけで泣いてしまうミズキなのに、先生たちの叱咤が怖くないわけがないと思う。それでも、叱られてでも成し遂げたい何かがそこにあるのかもしれなかった。
両親にミズキの奇行についての連絡はいっていないのか、家で叱られることはなく、また幸いなことに奇行をするからといってイジメに発展することもなかった。クラスの中で、ミズキは変わった人という位置づけで平穏に過ごしていた。教師たちが平穏だったかは分からないが。
ルイスが早回しをやめる。次の映像に出てきたのは、放課後の映像だった。担任教師が一枚の絵を持って、帰り支度をするミズキに声を掛けている。彼女の手にあるのはミズキと同じ年代の子が描いたと思われる交通安全のポスターだ。担任はミズキと視線を合わせようと、その場にしゃがんでその絵をミズキに見せた。
「瑞希ちゃん、交通安全のポスター描いてみない?」
ミズキは担任が差し出した絵を手に取り、まじまじとそれを見る。ミズキの関心がきちんと絵に向いていることを確認し、担任は優しく微笑んだ。
「瑞希ちゃん、お絵描き上手でしょう?描いてもらえたら、先生すごく嬉しいな」
ミズキは学校にいる間、ずっと一人だったから休み時間は本当に絵ばかり描いて過ごしていた。それを彼女も見ていただろうし、奇行が減るように別のことに関心を持たせたかったのかもしれない。
その狙いは功を奏したのか、ミズキは真顔のまま頷いた。
「やる」
「ありがとう!」
担任は手を叩いて喜ぶと、ポスター用の画用紙をミズキに手渡した。それを大事にミズキはランドセルにしまうと、小さな身体にそれを背負って教室を出て行った。
下駄箱で靴を履き替え、ミズキが校庭に出る。春から季節は夏へと移り変わりつつある、強い日差しの昼下がりだ。
ところどころで蝉の鳴き声が聞こえる。ランドセルが重たいのか、たまに身体を上下に揺らしては背負い直す。校庭の半分を過ぎたあたりで、ミズキの視線が何かを捉える。
鉄棒とブランコとシーソーが並んだ遊具のエリアに、前にミズキが尾行した華奢な男の子がいた。彼はランドセルを地面に置いた状態でブランコに座り、静かに身体を揺らしていた。
彼は細身で背が低かったが、身体的な特徴は特になかった。特別支援学級にいるからには何か支援が必要なのだろうが、見ただけでは何に支援が必要なのか僕には分からなかった。ミズキは彼の傍まで来ると、じっと彼の姿を見つめる。ゆらゆらとブランコを揺らしていた彼はミズキの視線に気が付くと、困惑したように彼女を見つめ返した。
二人はそのまま沈黙する。どちらが話しかけるわけでもない。ただ見つめ合っているだけの妙な空間。それに耐えかねたのか、男の子の方がブランコから立ち上がった。
逃げるように早歩きで距離を開けていく彼に、ミズキは自分も地面にランドセルを下ろして後を追う。後を追われた男の子は訝し気にミズキを見ては歩く速度を上げた。
どこへ行くでもなく、話しかけるわけでもなく、彼女たちはぐるぐると校庭を回る。早歩きから男の子が次第に駆け足になり、ミズキもそれを追いかける。校庭を走り回っているうちに追いかけられている不思議な状態が面白くなってきてしまったのか、男の子が吹き出すように笑った。
つられてミズキが笑った。そのまま二人は会話もなく追いかけっこをし、飽きるまで走ったら遊具へと移る。ブランコを一緒に漕いでみたり、鉄棒にぶらさがってみたり、お互いに会話もないまま仲良く遊んでいた。
友達がいないミズキにとって初めてできた友達のように見えた。ただ笑い声だけがあって、強い日差しが少し和らぐまで、二人はずっと遊んでいた。
体力のほとんどを使い果たして、ミズキがブランコに座ると、その隣のブランコに男の子が腰を掛けた。その様子を見ていたミズキは今更のように声をかけた。
「次なにやる?」
彼女の質問に男の子は目を瞬かせてから、黙って立ち上がるとミズキの背後に回る。彼はミズキの背中を押して、ブランコの揺れる速度を上げた。
「また追いかけっこする?」
再びミズキが問いかける。それに対して彼は苦笑いをしながら首を横に振った。
笑い声は確かに出ていたはずなのに、男の子は声を発さない。いや、もしかすると話すことだけが出来ないのかもしれなかった。身振り手振りでコミュニケーションを返してくれるのだから、恐らく意思の疎通をする気はあるのだ。
それがまだ幼いミズキには分からなかったのだろう。彼女は不思議そうに首を捻る。
「なんで話さないの?」
彼女の質問に、男の子はミズキの背中を押すことをやめる。ただ困ったように笑って、首を横に振る。それから彼は自分の口を指さし、口をパクパクと開け閉めさせてから手を横に振った。
話せない。彼なりにミズキにその事実を伝えようとしているように見えた。
「えー!すごーい!」
その様子にミズキは何故か目をキラキラと輝かせる。その憧れのような、羨望にも似た眼差しの理由はよく分からないし、何がすごいのかもよく分からない。
だけど、純粋なその誉め言葉は彼にも何か響いたのか、驚いたような顔でミズキを見ていた。
「また遊ぼ!」
ブランコを飛び降り、ミズキが笑った。男の子はその姿に笑顔を浮かべると、何かを思いついたように手を叩く。ミズキを招くように手で宙を漕ぐと、彼は傍にあった木に登る。まるで猿のようにどんどんと高くへ登っていく彼を見上げて、ミズキは嬉しそうにその場で跳ねて手を振った。
「すごい!じょーず!」
幼いミズキは僕が知っているミズキに比べてアクティブで、人違いなんじゃないかと思う場面もよくあったが、こうしてすぐに人を褒めるのは昔から変わらないようだ。声から分かるのは無垢なリスペクト。何の裏も、その言葉にはない。
誉め言葉を受けながら、男の子が何かを手にしてするすると木から降りてくる。彼が差し出したのは、セミの抜け殻だ。
「くれるの?」
ミズキが尋ねると、彼は笑って頷いた。
蝉の抜け殻なんて貰って喜ぶ女の子はそういないだろうが、間違いなくそれは友愛の証だ。ミズキはそれを気持ち悪がることなく、すぐに受け取ると嬉しそうに身体を上下させてはしゃいだ。
「かっこいー!ありがとう!大事にする!」
男の子はその言葉に照れたように笑うと、地面に放っておいていたランドセルを拾い上げて背中に背負う。それから、ミズキに振り返って手を振った。
またね、と言っているように見えた。
「またねー!」
ミズキはそう言って、男の子から貰った蝉の抜け殻を手に意気揚々と家へと帰った。いつも重たい足取りが、いつになく軽い。足早に家に帰った彼女はリビングに投げ出すようにランドセルを置いた。
「あら、おかえり!今日は遅かったのね?」
キッチンで晩御飯の用意をしていた母親にミズキは駆け寄って、両手を広げる。
「見てこれ!」
その手にあるのは勿論、あの男の子から貰った蝉の抜け殻だ。それを見た母親は困ったように眉を寄せて笑った。
「えー、どうしたのそれ」
「もらった!」
いつになく嬉しそうなミズキに母親は笑みを浮かべたままではあったが、困ったように唸る。
「お部屋に置くの?」
「うん、だめ?」
「えー」
握っていた包丁を置き、母親は腕を組んで苦笑いする。
「玄関にしない?」
「えー」
母親と同じようにミズキがブーイングを返すが、強く出られないのかミズキは渋々と頷いた。大事に持ったその蝉の抜け殻を彼女は玄関に飾ると、リビングに置きっぱなしになっていたランドセルを回収しに戻った。
「ただいまー!」
それから少し遅れて姉の声がした。ミズキはその声に反応したわけではなかったが、ランドセルを子供部屋に持って行こうとして、玄関で姉と鉢合わせする。姉は靴を脱いでいるところで、玄関に増えていた蝉の抜け殻を見て目を丸くした。
「わ!蝉の抜け殻だ!」
「もらった」
母親の時よりさらに簡潔にミズキが伝えると、姉はそれを優しく手に取ってまじまじとひっくり返して見る。
「かっこいい!いいなー!」
「いいでしょ」
姉の言葉にミズキは少し満足げに口元に笑みを作ると、そのままランドセルを背負って子供部屋のある二階へと上がった。二階に上がったミズキは学校で手渡された画用紙をランドセルの中から引き抜いて、それに絵を描き始める。交通安全のポスターを描くのだろう。
「後にアリスは交通安全のポスターで金賞を取る」
退屈そうにモニターを眺めていたルイスが言う。気が付くと、今度の彼は豪勢なソファで腹ばいになってポテトチップスを食べていた。
「これだけじゃない。小学校3年の歯磨き喚起のポスターも学校で金賞。小学校6年生の時には母親に勧められて市の祭の広告ポスターでも金賞だ」
「さすがミズキ」
ルイスの言葉に何故か僕が得意げになって笑うが、そんな僕のことなど気にもしていない様子で新しいポテトチップスに手を付けた。
「しかし、奇行ばかりはおさまらなかった。彼女の奇行は4年生まで続く」
早回しになって再生させるモニターには、相変わらず大人を困らせ続けるミズキの姿が繰り返し映し出されている。その合間に増えたことと言えば、校庭で知り合った男の子と休み時間に遊んでいる姿だ。
ミズキは男の子との件を経て、何故かますます奇行をヒートアップさせているようだった。学校から帰りたくて起こしていた行動だったのだとして、今では友達も出来て楽しく学校に通えるのに、それでは奇行を繰り返す意味がない。
そこまで考えて、僕はふと気が付く。
ミズキは元々特別支援学級に入りたかったし、友達も特別支援学級の子だ。だとしたら、一層のことそのクラスに入りたいはずだ。
先生はミズキに特別支援学級の子たちはみんなと一緒に勉強が出来ない子供たちだと説明した。幼いミズキがそこから考えて編み出したのは、自分も他の子供たちと一緒に勉強が出来ないと体現して見せる方法じゃないだろうか。
「概ね予想がついただろう。ジャバウォック」
ルイスは腹ばいのまま、足を交互に曲げて身体を揺らす。
「彼女は何としてでもあのクラスに入りたかった。だから、奇行をやめないんだ」
ミズキはついに奇行をやめることなく4年生になる。その頃になると、彼女は姉と一緒に卓球のジュニアスポーツクラブに入っており、彼女が心を許している友達も2人くらい現れていた。彼女は卓球はそれなりに上手ではあったが、特別に熱を上げているわけでもなく、姉に合わせてなあなあで通っているという印象であった。
可愛らしい水色のワンピースを着た彼女は、今日も今日とてめげずに授業中に立ち上がって廊下へと走り出していく。もう慣れてしまったのか、担任もクラスメイトも誰も困惑しない。困ったように担任は溜息を吐きながら、彼女を追いかけた。
「日向さん!」
幼い日は名前に愛称で呼ばれていたのに、年を重ねて苗字にさん付けになる。担任に腕を掴まれて、ミズキは弱い力ながら必死に抵抗する。
「どうしてこんなことをするの?」
「私、特別支援学級に入りたい!」
ずっとヤダとか、言葉もなく喚き散らしてばかりいたミズキがようやく理由を口にした。それを聞いた担任は驚いたように目を見開き、目を伏せた。
「あのね、日向さんは普通の子でしょう?」
彼女の視線に合わせるように担任は膝をつく。優しくミズキの腕を掴み、視線を合わせて静かに首を横に振った。
「特別支援学級の子たちは生まれつき障害を持っている子たちなの。だから、瑞希ちゃんは入れない。あなたはそうじゃないでしょう?」
今まで大人の言葉など、聞いていて聞いていなかったようなミズキが初めて沈黙した。ただ目を丸くして、担任の顔を見上げていた。
呆然とする彼女は何を思ったのだろう。形と価値観はどうあれ、彼女はずっと4年間諦めずに特別支援学級に入りたいという夢を追いかけてきた。引っ込み思案で叱られるのが怖くたって、夢を叶えるために努力をしていたことは間違いない。だから、彼女は叱られても叱られてもめげなかった。
4年間は決して短い時間ではない。僕が性別の壁を前に両親と戦って、自殺を決意したのも3年だ。甲子園野球より長い時間。それを根本からへし折られた時に人は皆、挫折するのではないだろうか。
「特別支援学級の子たちは望んであの身体に生まれたわけじゃないのよ。みんな、普通学級に入りたいけど、入れない。だから、日向さんはそんなことを言ってはダメなの。そんなことを言ったら、特別支援学級の子たちが傷つくわ」
担任の言葉にミズキは俯く。その姿を見ていたルイスは声を上げて笑った。
「全くだ。こっちの苦労も知らないで」
彼らの言葉に僕はただ黙ってモニターを見ていた。
先生もルイスも、言っていることは間違った話ではないのだろう。だけど、僕は違和感を感じて仕方がなかった。
彼女が特別支援学級の子供たちに抱いている感情は憧れだ。下心があるわけでもなく、リスペクトのみが存在している。それは、否定だけで簡単に片付けてしまっていいものじゃないような気がした。
現実の僕は閉鎖病棟に押し込まれるような精神病患者だった。一つの障害として病名もついている。その時、僕の周囲にあったのは苛烈な偏見と奇異の眼差し、もしくは押しつけがましい哀れみだ。
同情されて気持ちいいかって、気持ちよくなんかない。この苦しみをどうにかしてくれとは思う。でも、どうにもならない。同情だけじゃ何にもならない。自分が何とかしなくちゃいけないんだから、人に全て頼るのがそもそも僕の場合は違う。
頭がおかしいからって話を聞いてくれない人もいるし、近寄りたがらない人もいる。就職先にも困るし、面白おかしく嘲笑のネタにされても不愉快だ。
僕ならミズキに羨望の眼差しを向けられたら、どう思うだろう。分からない。まだミズキの口から僕をどう思っているのか聞いていないから。
でも、あの男の子と同じように僕を「凄いね」とリスペクトしてくれるなら。何の下心もなく、純粋に好意を向けてくれるなら、それでいいんじゃないかと思えてしまう。
ミズキはそのまま黙って担任に手を引かれて教室に戻った。席に着いたミズキはただ宙を見つめ、魂が抜けたようにぼうっと授業を聞いていた。
それからミズキは特別支援学級に遊びに行かなくなった。あの男の子に会うこともなく、もう彼女が奇行に走ることもなく、ごく普通の女の子に戻った。
玄関に飾られていた蝉の抜け殻は、いつの間にかどこかへ消えてなくなってしまった。
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