そのタクシー、下り方面

たちばなさとし

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事件簿16 隣の席の他人

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 工藤 美紀 (くどう みき) 22歳
 新卒の会社員。少し内気で親友の加奈を頼りにしている。

 田中 加奈 (たなか かな) 22歳
 美紀の高校時代からの親友。活発で面倒見が良い。

 金曜日の深夜が恵比寿の街を琥珀色の祝祭で満たしていた。
 社会人になって初めて支給されたボーナス。
 それを祝うために選んだ少し背伸びしたレストランの灯りが工藤美紀と田中加奈の弾むような笑顔をきらきらと照らし出している。

「本当におめでとう、美紀!」

「ありがとう、加奈が付き合ってくれたおかげだよ」

 高校時代から続く、姉妹よりも固い友情。
 内気で少し引っ込み思案な美紀にとって、活発で面倒見の良い加奈は、いつだって憧れであり、一番の理解者だった。
 二人はグラスを合わせ、未来への期待に満ちた夜の空気を心ゆくまで吸い込んだ。

 上機嫌で店を出た二人は大通りでタクシーを拾った。
 やってきたのは古びた日産のセドリックだった。
 その角張った濃紺のフォルムに一瞬戸惑いながらも、二人は喜びの余韻に身を任せ、後部座席に並んで腰を下ろした。

「船橋までお願いします」
 加奈がはきはきと告げると、運転席の男はルームミラー越しに一瞥しただけで「はい」と短く答えた。
 がっしりとした体格に無精髭。
 何かを値踏みするような鋭い目つきに美紀はかすかな居心地の悪さを感じたが、親友が隣にいるという安心感がすぐにそれを打ち消した。
 車内に漂う、安っぽい森林系の芳香剤の奥に混じる微かなアンモニア臭にも、この時の彼女たちは気づかなかった。

 車は恵比寿の喧騒を抜け、静かに走り出す。
 楽しかった食事の思い出話に花が咲き、後部座席は二人だけの世界だった。
 赤信号で車が停まった、その時だった。

「お祝いのようですね。ささやかですが、サービスです」
 運転手が、まるで二人の会話を聞いていたかのように穏やかな声で振り返った。

 彼が差し出したのは透明なフィルムで個包装された二種類の洋菓子だった。
 一つは濃厚そうなチョコレートブラウニー、もう一つは真っ白なクリームが挟まれたブッセのような洋菓子だ。

「え、いいんですか? ありがとうございます!」
 加奈が素直な喜びの声を上げる。

「うわあ、どっちにしようかなあ」
 美紀が迷っていると、運転手は、さりげなく美紀の方を見ながら言った。

「クリームの方が甘くて、疲れた時にはいいですよ」
 その一言は、まるで親切なアドバイスのように響いた。

「じゃあ、私こっちにしようかな」
 美紀はその言葉に後押しされるように、クリームの洋菓子を手に取った。
 残ったチョコレートブラウニーを加奈が受け取る。
 二人は顔を見合わせると、「いただきます」と声を揃え、同時に包装を破った。
 美紀が口にした洋菓子は、ふわふわの生地と滑らかなクリームが絶妙で、一日の疲れが溶けていくような優しい甘さだった。

 タクシーが首都高速湾岸線に入り、一時間近くが過ぎようとしていた。
 窓の外を等間隔に設置されたオレンジ色の照明が猛スピードで流れ去っていく。
 単調な景色とエンジンの静かなリズムが心地よい眠気を誘い、隣の加奈はこくりこくりと舟を漕ぎ始めていた。
 美紀もまた、心地よい疲労感に身を委ね、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 湾岸の巨大な工場群が放つ無機質な光が、まるで未来都市のジオラマのように見えた。
 その、平和な微睡みを切り裂くように、突如、彼女の下腹部に鋭い痛みが突き刺さった。

「……っ!」

 思わず息を呑み、腹部を押さえる。
 内側から引き千切られるかのような経験したことのない激痛。
 それは一瞬で彼女の全身を貫き、思考を麻痺させた。

(痛い……なに、これ……?)
 最初は、ただの腹痛だと思おうとした。
 しかし、その痛みは尋常ではなかった。
 波のように押し寄せる痙攣が腹の奥で荒れ狂っている。
 顔から急速に血の気が引き、額から噴き出した冷や汗が、こめかみを伝って流れ落ちるのがわかった。

「う……ぅ……っ」
 漏れそうになる呻き声を必死に歯を食いしばって堪える。
 しかし、小刻みに震える体は、もはや彼女の意思の制御を離れつつあった。

 その異変に隣でうたた寝していた加奈が気づいた。

「美紀!? どうしたの、大丈夫!?」
 親友の蒼白な顔を見て、加奈の表情が一変する。
 彼女は慌てて身を起こし、苦痛に顔を歪める美紀の背中を、おろおろとしながらさすった。

「顔、真っ白だよ。どこか痛いの?」

「ごめん……お腹が……すごく、痛くて……っ」
 美紀は途切れ途切れに訴えるのが精一杯だった。
 激痛は、さらに性質の悪い、ある明確な生理的欲求の波へと姿を変え始めていた。
 強烈な便意。
 それはもはや「行きたい」というレベルではない。腹の中で何かが決壊寸前になっているという、身体からの絶望的な危険信号だった。

 事態の深刻さを瞬時に察した加奈は即座に行動を起こした。
 彼女は運転席の背中に向かって、鋭く、強い口調で要求した。

「すみません! 友達の具合が悪いんで、次のパーキングで停めてください! お願いします!」
 それは懇願というより命令に近い響きだった。
 この状況で親友を救うためには、そうするしかなかった。

 しかし運転手はルームミラー越しに苦悶する美紀の顔を一瞥すると、驚くほど冷静に、そして心底申し訳なさそうな声で答えた。

「申し訳ありませんが、お客さん。この先の空港のあたりで大きな事故があったようで、ラジオがずっと言ってるんですが、パーキングはすべて緊急閉鎖されているそうなんです。次の出口まで、停まれる場所は一切ありません」

 その言葉は、あまりにもっともらしく、説得力に満ちていた。

「そんな……!」
 加奈は絶句した。
 希望の光が音を立てて消え失せる。
 逃げ場がない。この高速で走り続ける密室から、どこにも。
 その事実が冷たい絶望となって二人に突き刺さった。
 美紀の腹部で荒れ狂う嵐は、その間にも容赦なく勢いを増していく。

(いや……いやだ、加奈の前で、こんな……)
 涙が視界を滲ませる。
 内気な彼女が唯一、心を許せる存在。
 いつも自分を導き、守ってくれた親友。
 その親友の前で、人間として最も醜く、最もみっともない姿を晒してしまう。
 その恐怖と屈辱が腹の痛み以上に彼女の心を苛んだ。

「加奈……ごめん……っ、ごめんね……!」
 彼女の喉から嗚咽に混じった謝罪の言葉が何度も何度も漏れた。
 何に対して謝っているのか自分でもわからなかった。
 ただ、この状況そのものが申し訳なくて、情けなくて、消えてしまいたかった。

「大丈夫だから! しっかりして、美紀! 大丈夫!」
 加奈は必死に励ましの言葉をかけ続ける。
 だが、その声は空しく車内に響くだけだった。
 彼女にできることは、ただ親友の震える背中をさすることだけ。
 どうすることもできない無力感が加奈の心を押し潰していた。

 そして、ついに、その時が来た。
 抗い続ける美紀の肛門を押し広げ、熱い泥のようなものが大量に溢れ出した。

 ぶちゅ、ぶりゅぶりゅ、びちゃ……!

 静まり返った車内に信じられないほど生々しい、おぞましい音が響き渡る。
 タイトスカートの生地を突き破り、布地のシートに熱い汚物が叩きつけられ、染み込んでいく絶望的な音。
 そして、その音と同時に強烈な腐臭が、一瞬にして換気の悪い車内を地獄のような空間へと変えた。

 隣に座っていた加奈は目の前で起きた惨状に完全に言葉を失った。
 呼吸が止まる。時間が止まる。
 親友の体から信じられないものが排出され、シートを汚していく。
 その光景がスローモーションのように彼女の目に焼き付いた。
 助けたい。何か言わなきゃ。優しい言葉をかけて抱きしめてやらなきゃ。
 頭の中では、そう叫んでいるのに、体は金縛りにあったように動かなかった。
 あまりにも衝撃的な光景と、鼻をつく強烈な悪臭が彼女の思考と行動のすべてを停止させていた。
 親友の肩を抱くことも、その背中をさすり続けることもできず、ただ、硬直したまま目の前の惨劇を見つめることしかできなかったのだ。

 美紀は、そんな加奈の固まった様子を涙に濡れた視界の端で見てしまった。
 驚きと、戸惑いと、そして、おそらくは嫌悪に染まった親友の顔。
 いつも優しく、力強かった加奈が、自分に触れることさえできずに、後ずさりするように固まっている。

(汚い)
(みっともない)
(信じられない)

 加奈の心の声が直接聞こえてくるようだった。
 最も信頼する人間に、最も見られたくない姿を見られ、そして拒絶された。
 その認識が巨大な鉄槌のように美紀の心を打ち砕いた。
 羞恥心は限界を超え、彼女の心は粉々に砕け散った。

 船橋にある美紀の自宅マンションに着くまで、車内は完全な沈黙に包まれていた。
 悪臭だけが、そこに起きた惨劇を雄弁に物語っていた。
 マンションのエントランス前に車が停まると、運転手はゆっくりと後部座席を振り返り、汚損されたシートを一瞥した。
 その表情には何の感情も浮かんでいなかった。

「これはひどいですね。お友達も、さぞ驚かれたでしょう」
 彼は、まるで他人事のように平然とした口調で言った。
 そして、その言葉に、わずかな嘲笑の色が滲んだのを加奈は見逃さなかった。

「特別清掃代、七万円いただきます」

「なっ……!」

 加奈は怒りに震え、何かを言い返そうとした。
 しかし、隣で虚ろな目をして抜け殻のようになっている美紀の姿を見て言葉を飲み込んだ。
 今は、この地獄のような空間から、一刻も早く美紀を解放してやることの方が重要だった。
 彼女は唇を強く噛み締め、震える手でバッグからクレジットカードを取り出し、男に突きつけた。

 よろよろと車を降り、マンションのエントランスに向かって歩き出す。
 汚物で濡れたスカートが脚にまとわりつき、美紀の足取りは覚束ない。
 その後ろ姿を見て、ようやく呪縛から解かれたように加奈が声をかけた。

「大丈夫だよ、美紀。まずはシャワー浴びて……」
 彼女は親友を励ますように、その肩を支えようと、そっと手を伸ばした。

 しかし。
 その手が触れる寸前、美紀は「びくり」と、まるで感電したかのように体をこわばらせたのだ。
 そして、加奈の優しい手を振り払うように身をかわした。

 自分が、ひどく汚れてしまった存在に思えた。
 こんな汚い自分に優しい親友が触れることなど、耐えられなかった。
 その優しさすら、今の自分には、あまりにも鋭利な刃物のように感じられた。

 拒絶された加奈の手が行き場を失って宙を彷徨う。
 彼女は傷ついた顔で、どうしていいかわからずに立ち尽くした。
 良かれと思って伸ばした手が、なぜ、振り払われなければならないのか。
 彼女には羞恥心で壊れてしまった親友の心が、もう理解できなかった。

 二人の間に目には見えないが、決して埋まることのない、深く冷たい溝ができてしまっていた。
 気まずい沈黙が二人を支配する。
 やがて到着したエレベーターに、二人は一言も交わすことなく乗り込んだ。
 かつては隣にいるのが当たり前だった。
 しかし今は、お互いがどうしようもなく遠い「隣の席の他人」だった。
 ドアが静かに閉まり、二つの異なる階のボタンのランプだけが、その残酷な断絶を照らしていた。
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