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ネタ会議から戻ってきたデスクに、リサの証言は話の辻褄があっているのでそのまま記事にしていいと言われた。奈緒美のネタが採用されたのだ。
やった。これで、しばらくはしのげる。
週刊スカットの編集部には、編集長と八人のデスク、そして奈緒美も含め二十五人の特派記者がいる。編集長とデスクは社員だが、その他の特派記者は全員フリーだ。収入は給料ではなく原稿料のみなので、原稿が書けなければ食っていけない。特派記者にとって、ネタ会議の結果は死活問題である。
奈緒美は自分の席に着くと、記事の執筆に乗りかかった。取材と原稿執筆に費やすことができるのはせいぜい三日から四日しかないので、会議に揚げるネタについては、ある程度取材して記事にする準備をしておく必要がある。今回はリサやその関係者への取材はほぼ終えていたので、あとは原稿を書くだけだった。
田島仁志の件はまだデスクには伏せてある。冤罪を疑っている記者は編集部にもいるようだが、記事を書けるだけのネタを持っている者はいない。ネタ会議にあげるのは先日の前田朋子の証言の裏を取った後だ。斉藤カイの言っていた「ヤマ」もいったい何を意味しているのかまだ分かっていない。だが、証言の裏を取ることができれば、連載を取るのも夢じゃない。
久しぶりに心が躍ってきた。日本中を震撼させるような特ダネの一番近いところに、自分はいるのだ。
探りを入れておく相手が、一人いる。
奈緒美は郷田一輝の姿を探したが、部屋にはいなかった。デスクとの打ち合わせで緊張していたので、喉が渇いていた。廊下に出て、突き当たりにあるコミュニケーションスペースに向かう。壁二面全面がガラス窓に囲まれた見晴らしのいい空間で、自動販売機が四台設置されている。郷田一輝が奥の席に座り、パソコンを操作していた。テーブルの上をノックすると、一輝が顔をあげた。
「やあ、どうだった」
「獲ったわ」
「そりゃ、よかったな」
郷田一輝は連載記事を持っているので、他の特派記者ほどネタに切実ではない。裏社会にいくつもパイプを持っている一輝は、編集部にとっても貴重な存在なのだ。
「ずいぶん仕事に没頭していたのね」
「アダルトサイトを見ていたんだよ。なかなかすごいよ」
一輝がパソコンの画面をこちらに向けた。見事な肢体を露わにしている若い女が映っていた。局部も襞のシワまではっきりと映し出されている。海外にサーバーを置く素人の投稿サイトだった。
「あきれた人」
「これも仕事のうちさ。この画面に写っている裸の女性、去年から行方不明になっていたんだが、昨日死体で見つかったんだ。ばらばらにされていた」
九州の山中でスナックの女のバラバラ遺体が見つかった事件だ。
「裏社会じゃ、彼女が消えてすぐに噂が流れていたんだ。どこかの組が外人の変態野郎に売り飛ばしたってね。被害者には身寄りもなく親しい友人もいない。行方不明になっても警察に届けたり探したりする奴はいない。そんな女は変態野郎の慰み物にするために売り飛ばされることがあるんだ。そんなルートを持っているのは、もちろんやくざだよ。このサイトに画像を投稿したのが、彼女を殺した犯人かもしれないんだ」
「本当にあるんだ、そんな話。この前風俗嬢への取材で同じような話を聞いたばかりよ」
奈緒美は自販機でコーラを買って、一輝の前に座った。
「今朝、田島仁志の死刑が執行されたわ」
紙コップのコーヒーを飲みながら一輝が頷いた。気のせいか、一輝の表情が一瞬強張ったように見えた。
「被害者の家族が田島の刑を早く執行するように国を相手に訴訟を起こしていたんだけど、法務大臣は判決が出る前に刑の執行を指示したの。それについてどう思う?」
「刑事訴訟法に違反している以上、裁判所は国の違法性を認める可能性は高かった。そうなると、現在収監している百数十名の死刑囚の刑を執行しなくてはならなくなるうえに、以後、刑が確定した死刑囚を半年以内に処刑しなくてはならなくなる。そうなる事態を避けたかった国が、裁判で結論が出る前に急いで刑を執行して裁判を終わらせたんだろうな」
「田島仁志は、やはり有罪だったと思う?」
「前にも言っただろ。証拠は完璧だ。だからこそ、法務大臣は刑の執行を決断したんだ」
「でも、田島に罪をかぶせるのは可能よ」
「どうやって?」
「女の子をお金で雇うの。田島仁志を部屋に誘ってセックスしろって。それも避妊具なしで。彼女たちの体内に田島の精液を残したあと、真犯人が彼女たちを殺し、部屋に鍵をかけ、田島の部屋に鍵を隠す」
一輝が無表情な目を奈緒美に向けてきた。
「何?」
「知り合ったばかりの男に中出しさせる女がいるのかね。ソープで働いているんじゃないんだぞ」
「お金に困っている女の子なら、それくらいのことはするでしょうね」
「誰が何のためにそんなことをでっち上げるんだ? 田島を罠にはめる動機を持つものはいなかったんだぜ」
「人知れず恨みを買っている場合もあるわ」
「でも、それにしては手が込んでるな。恨みを晴らすなら他にも方法がいくらでもある。うまくいくかもわからないのに、わざわざふたりの犠牲者を用意して罪をかぶせるなんて、リスクが大き過ぎる」
「死刑囚の恐怖を味合わせてやろうという魂胆だったんじゃないかしら」
「だとすればかなり深い恨みだ。でも、誰が何のためにそんなことをしたのかが疑問だな。金もかかるはずだし。それに警察も捜査段階でその可能性を追求していたはずだ。他人を罠にはめることはよくあることだからな。だがそんな奴は見つからなかった。そして警察は最終的に田島仁志を犯人だと判断した。警察の捜査の目を誤魔化すのは容易じゃないぞ」
「証拠が揃い過ぎているのが気になるの。まるで田島に言い訳の余地すら与えないような、完璧な証拠だから。それに、無職で友人も少なく、婦女暴行の前科がある田島は、生贄としては最適だったと思うの」
「生贄ね」一輝は意味ありげに微笑んだ。
「真犯人は田島仁志のことを隅々まで調べていたはず。田島の周囲を調べれば、誰が田島に接触していたかがわかるわ」
「そんなこと、警察でも当然調べていたはずだよ。しかし何も出てこなかった。凶悪事件での警察の捜査の徹底ぶりは知っているだろ」
「関わりを避けるために、知っていても警察に証言しない人は意外と多いのよ。特に田島の周囲にいるような人たちは」
「田島のことを記事にする気なのかい?」
一輝の眼に好奇心を垣間見たので、わざと意味ありげに微笑んで見せた。
「ネタでも掴んだのかい?」
「さあね」
「たしかに、痕跡も残さずに誰かのことを調査するのは、不可能じゃなくても簡単じゃない。でも、七年前の事件だ、誰も覚えちゃいないよ」
「この推測が正しければ大きな記事になるわ。骨を折るだけの価値はあるはずよ」
「たしかに、無実の男を処刑したとなれば、世間がひっくり返るくらいの騒ぎになるだろうな。日本の死刑制度を根底から揺さぶる大事件になるかもしれない」
一輝は奈緒美の話を本気で聞いているとは思えなかった。田島の犯行であることは揺らぎない事実なのだと、彼の態度が物語っている。
絶対に、この男を驚かせてやるんだから。
コーラを飲み終えると、奈緒美は席を立った。
「今夜、時間はあるかい? ちょっと付き合って欲しいんだが」
一輝が顔に優しい笑み浮かべている。別れてからも時々一緒に食事をする仲だったし、誘いを断る理由はなかった。
「いいわよ、奢り?」
「君の返事次第だね」
「なにそれ。どんな魂胆?」
「まあ、今夜会ってから話すよ」
一輝はそう言って手を振ると、再びパソコンの画面に視線を戻した。
記事の下書きを書き終えたとき、夜の八時を回っていた。明日には清書してデスクに出せるだろう。
郷田一輝に電話をすると、店の近くの喫茶店で仕事をしているといった。すぐにいくといって社屋を出た。通りに出てタクシーを捕まえようとしたが、道が混んでいると思い、地下鉄で行くことにした。
地下鉄で四駅ほど移動して、一輝の指定した店に向かう。ビルの三階にある店に入ると、大きな水槽が目に入った。水槽にはアジやサバ、ヒラメが泳いでいる。他にも名前を知らない魚がたくさんいる。職人が客の求めに応じて魚を水槽から引き揚げ、その場でしめてさばいている。魚好きの奈緒美のために、一輝がこの上等な店を予約したようだった。
隅の席で、一輝は先に来て待っていた。
「先に飲んでくれていてもよかったのに」
「楽しみは後に置いておきたいタイプなんだよ」
これがうまいんだよ、食べたことないだろといって、一輝がコチをいう魚の刺身を注文した。出てきたのは、舌ヒラメのような平たい魚だった。
一輝は今取材しているネタを話し始めた。詳しい話は出来ないと断った後、ベンチャーの成金社長たちを取り込もうとする裏社会のシステムについて奈緒美に説明した。誰もが知る有名な美少女アイドルたちを成金社長たちにあてがい、彼らを取り込んで表の社会に太いパイプを作っていくカラクリは、低俗な一部の週刊誌ではおなじみだが、一輝が話すと真実味が違う。
「その成金たちにあてがわれてるアイドルって、誰だかわかってるの?」
「もちろん。でも公開するのは無理だろうね。うちの出版社からその子の写真集出してるから」
「そうよね。で、話って何?」
一輝の話が一通り終わった後、奈緒美のほうからきり出した。
「ふたつある。ひとつは今日君が話していたネタに、俺もかませて欲しい」
「どうして? 田島が無実なんてありえないんじゃなかったの?」
「君の意見を聞いて気が変わったのさ」
「そんな理由じゃ、駄目よ」
「やっぱり?」一輝が笑った。
「どうしたの? 昼間は田島仁志が絶対に犯人だってあんなに言ってたじゃない。それが急に心変わりしちゃって」
一輝が苦笑いして、誤魔化すように日本酒の猪口を空けた。
「もちろん金次第だが、いきなり生で男とやってくれと言われ、引き受ける風俗嬢は少ない。頼みにくい依頼をするのなら、その前にしばらく客として女の元に通い生贄となる女たちの信用を得ておこうと考える方が普通だ。誰かを陥れて死刑に導くには、犠牲者が最低二人は必要だ。ひとりではたとえ一審で死刑判決が出ても上級審でひっくり返されてしまう可能性があるからな。そのためには最初の犯行が早期に発見され、二人目を殺す前に犯人が特定されるのを防ぐ必要があった。だから、最初の被害者の部屋に鍵をかけて遺体の発見を遅らせた。一方、二人目は早期に発見される必要があった。そう考えると、これまで発表されている事実と辻褄が合う」
「もしかして、あなたも田島のことを調べていたの?」
「ついさっき情報が入った。客に、ある男と生でやって欲しいと頼まれた風俗嬢が見つかったんだ」
奈緒美が背筋を正した。
「君が夕方話していた推測が、当たっているかもしれない」
「誰なの、その風俗嬢は?」
「わからない。情報提供者は組関係者だが、どこの誰だとは教えてくれなかった。向こうでも動いているみたいだから、これ以上の情報は期待できないかもしれない」
「動いているって、ヤクザが?」
「ヤクザにとっちゃ、とんでもない儲け話なんだよ。人違いで無実の人間が処刑されたかもしれないんだ。決定的な証拠なり証人を押さえれば、連中は政府と取引が出来る」
「取引って、ヤクザが政府を脅すの?」
「正確には、有力な代議士に貸しを作るんだ。連中の常套手段だよ」
「政府が事実を闇に葬る気だというの?」
「無実の人間を処刑したとあっては、死刑制度を廃止せざるを得なくなる可能性だって出てくる。どんなことをしてでも国民から隠そうとするさ。酷い話だが、国が都合の悪い情報を国民から隠すのはよくあることだ。おそらく、その客って奴は依頼を受けてくれる風俗嬢を見つけるまで何人も当たっていたんだろう。相手は素人だろうな。やくざなら有無を言わさず手持ちの女から適当なのを選ぶだろうから」
「じゃあ、そんな風俗嬢を探せばいいわけね」
「やくざが動いているとなれば、俺の人脈が役に立つかもしれないぞ。それに君には夜の女のネットワークがある。二人で動けばこのネタをものにできるかもしれない」
この男が他人のネタに乗ってくるなんてめったにないことだ。一輝には勝算があるのだ。この男はその辺りの計算に長けているし、一輝が手を貸してくれれば真実を突き止めることができるかもしれない。一人占めするより、確実にものにしたほうがいいネタであることは間違いないのだ。
「いいわ、協力しましょう」
一輝が微笑んで猪口を挙げた。奈緒美は飲みかけのカクテルのグラスを合わせ、飲み干した。
「で、もうひとつの話って何?」
「よりを戻さないか、俺たち」
「はあ?」
一輝の顔が、いつになく真剣になっている。
「ま、マジ?」
「三年前とは違う。今ならうまくやっていけそうな気がするんだ」
一輝の鋭い視線に目を逸らす。不意打ちだった。そんなことをいわれるとは思ってもみなかった。
「男がいるならそういってくれればいい。この話はこれまでだ」
「だから、いないって」
「猫のことが心配なら、一緒に面倒を見てやる。これでも動物は好きな方だ」
「そ、それって……」
もしかして、プロポーズ?
一輝は黙ったまま奈緒美を見つめているだけだった。
「二番目の話の返事は後でもいいよ。最初の話については、明日から早速動こう。これからの仕事の分担を話し合わないかい?」
一輝が話を切り替えても、奈緒美の胸の鼓動は収まらなかった。
やった。これで、しばらくはしのげる。
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奈緒美は自分の席に着くと、記事の執筆に乗りかかった。取材と原稿執筆に費やすことができるのはせいぜい三日から四日しかないので、会議に揚げるネタについては、ある程度取材して記事にする準備をしておく必要がある。今回はリサやその関係者への取材はほぼ終えていたので、あとは原稿を書くだけだった。
田島仁志の件はまだデスクには伏せてある。冤罪を疑っている記者は編集部にもいるようだが、記事を書けるだけのネタを持っている者はいない。ネタ会議にあげるのは先日の前田朋子の証言の裏を取った後だ。斉藤カイの言っていた「ヤマ」もいったい何を意味しているのかまだ分かっていない。だが、証言の裏を取ることができれば、連載を取るのも夢じゃない。
久しぶりに心が躍ってきた。日本中を震撼させるような特ダネの一番近いところに、自分はいるのだ。
探りを入れておく相手が、一人いる。
奈緒美は郷田一輝の姿を探したが、部屋にはいなかった。デスクとの打ち合わせで緊張していたので、喉が渇いていた。廊下に出て、突き当たりにあるコミュニケーションスペースに向かう。壁二面全面がガラス窓に囲まれた見晴らしのいい空間で、自動販売機が四台設置されている。郷田一輝が奥の席に座り、パソコンを操作していた。テーブルの上をノックすると、一輝が顔をあげた。
「やあ、どうだった」
「獲ったわ」
「そりゃ、よかったな」
郷田一輝は連載記事を持っているので、他の特派記者ほどネタに切実ではない。裏社会にいくつもパイプを持っている一輝は、編集部にとっても貴重な存在なのだ。
「ずいぶん仕事に没頭していたのね」
「アダルトサイトを見ていたんだよ。なかなかすごいよ」
一輝がパソコンの画面をこちらに向けた。見事な肢体を露わにしている若い女が映っていた。局部も襞のシワまではっきりと映し出されている。海外にサーバーを置く素人の投稿サイトだった。
「あきれた人」
「これも仕事のうちさ。この画面に写っている裸の女性、去年から行方不明になっていたんだが、昨日死体で見つかったんだ。ばらばらにされていた」
九州の山中でスナックの女のバラバラ遺体が見つかった事件だ。
「裏社会じゃ、彼女が消えてすぐに噂が流れていたんだ。どこかの組が外人の変態野郎に売り飛ばしたってね。被害者には身寄りもなく親しい友人もいない。行方不明になっても警察に届けたり探したりする奴はいない。そんな女は変態野郎の慰み物にするために売り飛ばされることがあるんだ。そんなルートを持っているのは、もちろんやくざだよ。このサイトに画像を投稿したのが、彼女を殺した犯人かもしれないんだ」
「本当にあるんだ、そんな話。この前風俗嬢への取材で同じような話を聞いたばかりよ」
奈緒美は自販機でコーラを買って、一輝の前に座った。
「今朝、田島仁志の死刑が執行されたわ」
紙コップのコーヒーを飲みながら一輝が頷いた。気のせいか、一輝の表情が一瞬強張ったように見えた。
「被害者の家族が田島の刑を早く執行するように国を相手に訴訟を起こしていたんだけど、法務大臣は判決が出る前に刑の執行を指示したの。それについてどう思う?」
「刑事訴訟法に違反している以上、裁判所は国の違法性を認める可能性は高かった。そうなると、現在収監している百数十名の死刑囚の刑を執行しなくてはならなくなるうえに、以後、刑が確定した死刑囚を半年以内に処刑しなくてはならなくなる。そうなる事態を避けたかった国が、裁判で結論が出る前に急いで刑を執行して裁判を終わらせたんだろうな」
「田島仁志は、やはり有罪だったと思う?」
「前にも言っただろ。証拠は完璧だ。だからこそ、法務大臣は刑の執行を決断したんだ」
「でも、田島に罪をかぶせるのは可能よ」
「どうやって?」
「女の子をお金で雇うの。田島仁志を部屋に誘ってセックスしろって。それも避妊具なしで。彼女たちの体内に田島の精液を残したあと、真犯人が彼女たちを殺し、部屋に鍵をかけ、田島の部屋に鍵を隠す」
一輝が無表情な目を奈緒美に向けてきた。
「何?」
「知り合ったばかりの男に中出しさせる女がいるのかね。ソープで働いているんじゃないんだぞ」
「お金に困っている女の子なら、それくらいのことはするでしょうね」
「誰が何のためにそんなことをでっち上げるんだ? 田島を罠にはめる動機を持つものはいなかったんだぜ」
「人知れず恨みを買っている場合もあるわ」
「でも、それにしては手が込んでるな。恨みを晴らすなら他にも方法がいくらでもある。うまくいくかもわからないのに、わざわざふたりの犠牲者を用意して罪をかぶせるなんて、リスクが大き過ぎる」
「死刑囚の恐怖を味合わせてやろうという魂胆だったんじゃないかしら」
「だとすればかなり深い恨みだ。でも、誰が何のためにそんなことをしたのかが疑問だな。金もかかるはずだし。それに警察も捜査段階でその可能性を追求していたはずだ。他人を罠にはめることはよくあることだからな。だがそんな奴は見つからなかった。そして警察は最終的に田島仁志を犯人だと判断した。警察の捜査の目を誤魔化すのは容易じゃないぞ」
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「生贄ね」一輝は意味ありげに微笑んだ。
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「ネタでも掴んだのかい?」
「さあね」
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「この推測が正しければ大きな記事になるわ。骨を折るだけの価値はあるはずよ」
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一輝は奈緒美の話を本気で聞いているとは思えなかった。田島の犯行であることは揺らぎない事実なのだと、彼の態度が物語っている。
絶対に、この男を驚かせてやるんだから。
コーラを飲み終えると、奈緒美は席を立った。
「今夜、時間はあるかい? ちょっと付き合って欲しいんだが」
一輝が顔に優しい笑み浮かべている。別れてからも時々一緒に食事をする仲だったし、誘いを断る理由はなかった。
「いいわよ、奢り?」
「君の返事次第だね」
「なにそれ。どんな魂胆?」
「まあ、今夜会ってから話すよ」
一輝はそう言って手を振ると、再びパソコンの画面に視線を戻した。
記事の下書きを書き終えたとき、夜の八時を回っていた。明日には清書してデスクに出せるだろう。
郷田一輝に電話をすると、店の近くの喫茶店で仕事をしているといった。すぐにいくといって社屋を出た。通りに出てタクシーを捕まえようとしたが、道が混んでいると思い、地下鉄で行くことにした。
地下鉄で四駅ほど移動して、一輝の指定した店に向かう。ビルの三階にある店に入ると、大きな水槽が目に入った。水槽にはアジやサバ、ヒラメが泳いでいる。他にも名前を知らない魚がたくさんいる。職人が客の求めに応じて魚を水槽から引き揚げ、その場でしめてさばいている。魚好きの奈緒美のために、一輝がこの上等な店を予約したようだった。
隅の席で、一輝は先に来て待っていた。
「先に飲んでくれていてもよかったのに」
「楽しみは後に置いておきたいタイプなんだよ」
これがうまいんだよ、食べたことないだろといって、一輝がコチをいう魚の刺身を注文した。出てきたのは、舌ヒラメのような平たい魚だった。
一輝は今取材しているネタを話し始めた。詳しい話は出来ないと断った後、ベンチャーの成金社長たちを取り込もうとする裏社会のシステムについて奈緒美に説明した。誰もが知る有名な美少女アイドルたちを成金社長たちにあてがい、彼らを取り込んで表の社会に太いパイプを作っていくカラクリは、低俗な一部の週刊誌ではおなじみだが、一輝が話すと真実味が違う。
「その成金たちにあてがわれてるアイドルって、誰だかわかってるの?」
「もちろん。でも公開するのは無理だろうね。うちの出版社からその子の写真集出してるから」
「そうよね。で、話って何?」
一輝の話が一通り終わった後、奈緒美のほうからきり出した。
「ふたつある。ひとつは今日君が話していたネタに、俺もかませて欲しい」
「どうして? 田島が無実なんてありえないんじゃなかったの?」
「君の意見を聞いて気が変わったのさ」
「そんな理由じゃ、駄目よ」
「やっぱり?」一輝が笑った。
「どうしたの? 昼間は田島仁志が絶対に犯人だってあんなに言ってたじゃない。それが急に心変わりしちゃって」
一輝が苦笑いして、誤魔化すように日本酒の猪口を空けた。
「もちろん金次第だが、いきなり生で男とやってくれと言われ、引き受ける風俗嬢は少ない。頼みにくい依頼をするのなら、その前にしばらく客として女の元に通い生贄となる女たちの信用を得ておこうと考える方が普通だ。誰かを陥れて死刑に導くには、犠牲者が最低二人は必要だ。ひとりではたとえ一審で死刑判決が出ても上級審でひっくり返されてしまう可能性があるからな。そのためには最初の犯行が早期に発見され、二人目を殺す前に犯人が特定されるのを防ぐ必要があった。だから、最初の被害者の部屋に鍵をかけて遺体の発見を遅らせた。一方、二人目は早期に発見される必要があった。そう考えると、これまで発表されている事実と辻褄が合う」
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「誰なの、その風俗嬢は?」
「わからない。情報提供者は組関係者だが、どこの誰だとは教えてくれなかった。向こうでも動いているみたいだから、これ以上の情報は期待できないかもしれない」
「動いているって、ヤクザが?」
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「取引って、ヤクザが政府を脅すの?」
「正確には、有力な代議士に貸しを作るんだ。連中の常套手段だよ」
「政府が事実を闇に葬る気だというの?」
「無実の人間を処刑したとあっては、死刑制度を廃止せざるを得なくなる可能性だって出てくる。どんなことをしてでも国民から隠そうとするさ。酷い話だが、国が都合の悪い情報を国民から隠すのはよくあることだ。おそらく、その客って奴は依頼を受けてくれる風俗嬢を見つけるまで何人も当たっていたんだろう。相手は素人だろうな。やくざなら有無を言わさず手持ちの女から適当なのを選ぶだろうから」
「じゃあ、そんな風俗嬢を探せばいいわけね」
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「いいわ、協力しましょう」
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「よりを戻さないか、俺たち」
「はあ?」
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「ま、マジ?」
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「男がいるならそういってくれればいい。この話はこれまでだ」
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「そ、それって……」
もしかして、プロポーズ?
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上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。
「私も……私も交配したい」
太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。
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