錆びた十字架

アーケロン

文字の大きさ
12 / 26

12

しおりを挟む
 エリカと別れて十分後に、奈緒美も店を出た。午後八時。昼から何も口にしていなかったことを思い出した。今夜は外で済ませると玲奈にいってきたが、彼女のことだから部屋に戻れば何か作ってくれるだろう。
 しかし、部屋に戻ろうとは思わなかった。
 昨夜部屋に戻ったときも今朝部屋を出る時も、彼女はどこかよそよそしかった。その変化は他人なら気にも留めないくらい微々たるものだが、長い間一緒に暮らしてきて、何十回も肌を合わせてきた奈緒美には、彼女が何で思い悩んでいるのか自然に伝わってくる。
 あの日以来、玲奈の様子がおかしくなった。ホワイト・リリーであのレズビアン・カップルと出会ってから、決して口にはしないけれど、玲奈が結婚にこだわるようになったのは間違いない。
 玲奈と知り合う前は、他人と一緒に暮らすなど、考えたこともなかった。彼女と付き合い始めた時も、当初は共同生活なんてまっぴらだと思っていたほどだ。しかし、次第に彼女を愛おしく感じ始め、いつも一緒にいたいと切望するようになったときには、彼女を裕福な両親から無理やり引き離し、借りたばかりのアパートに引き込んでいた。そして、三年が過ぎた。
 彼女と別れたくない。この先何年も、一緒にいたい。お互い強情なところがあり、喧嘩がこじれて別れ話が出たことも一度や二度ではない。しかし、そのたびに関係を修復してきた。玲奈のいない生活なんて考えられない。
 でも、それが一生涯続くとしたら。本当に心変わりしないのか。後悔しないのか。
 自然とため息が漏れる。
 ふと、よりを戻さないかと言ったときの一輝の顔がよぎった。四年前、一輝は大手出版社に職を得て海外勤務が決まった。一緒に行こうといってくれたのに、首を縦に振らなかった。奈緒美も小さな編集プロダクションに職を得て、これから仕事を精力的にこなしていこうという時だったのだ。男のために、あの当時の生活を捨て去ることができなかった。
 お互い、嫌いになって別れたわけでも、性格の不一致が原因でもない。むしろ、一輝は奈緒美の一番の理解者だった。二人の問題を解決するために譲歩したのは、常に彼の方だった。彼が我を貫いたのは、仕事で海外に行くといった時だけだ。そして、それが原因で別れてしまった。
 タイミングが悪かったといえばそれまでだ。もし、当時無職なら、一輝についていって、海外で彼と一緒に暮らしていただろう。
 後悔しなかったと言えば嘘になる。奈緒美の方から謝罪してよりを戻そうと考えたこともあった。しかし結局、踏ん切りがつかないまま時が過ぎ、玲奈と出会ってしまったのだ。
 突然、黒い革靴が目に入った。顔をあげると男が三人、奈緒美を見ていた。一目で筋者とわかる男たちだった。
「地面とにらめっこして歩いていると危ないぜ」
「あら、ごめんなさい」
 彼らの横を通り過ぎようとした時、一番若い男が奈緒美の前に立ちふさがった。
「何か用かしら?」
「変なこと嗅ぎまわるなよ」
「何のこと?」
「商売女たちにいろいろ探りを入れているだろ。誰に断って俺たちの縄張りで勝手なことやってんだ?」
 この男たちも、田島仁志をはめた男を探しているのか。
「取材の許可なら、本人たちにとっているわ」
「ふざけんなよ。記者さんなら、俺たちが何を言いたいかくらいわかるだろ? 俺たちと揉めると、記事が書けなくなるぜ」
「それって、脅迫?」
 男たちの顔色が変わった。こんな人目の多い通りで、彼らは手を出したりしない。脅迫と受け取られかねない暴言も慎まねばならない立場なのだ。
「この街で取材するのに、誰かの許可を得ないと駄目だなんて決まりはないわ。私はこれからも自由な取材を続けます。妨害するなら業務妨害で訴えますよ」
 男たちは黙ったまま、顔をにやけさせて奈緒美を見ていた。嫌な笑い方だ。こいつらは何かをたくらんでいる。
 男たちが奈緒美に背を向けて立ちさっていった。知らぬ間に拳を握りしめていた。そっと掌を開くと、汗でじっとりと湿っていた。

「よう」
 鼓膜になじみのある低い声が響く。外を歩いているのか、街の喧騒が受話器から漏れ出てくる。
 ヤクザが接触してきたというと、一輝が「もう来たのか」と暢気そうに笑う声が聞こえてきた。
「笑うことないでしょ。すごく怖かったんだから」
「でも、公衆の面前で奴らが手を出さないってことも知ってたんだろ?」
「私、これでも女なんですけど。ヤクザ者三人に囲まれて、平気だったと思う?」
 別れ際、あの男たちの嫌な笑い顔が頭に浮かんだ。あれは何かを企んでいる顔だ。
「私はどうすればいい?」
「奴らの仕返しを気にしてるのかい? 心配いらないよ。得にもならないことは、奴らはやらない。でも、君から情報を聞き出そうとするかもしれない」
 どこでどんな男たちに声をかけられたのか、一輝が聞いてきた。場所と男たちの特徴を説明すると、一輝が「旭道会のチンピラだ。街娼のケツ持ちだよ」と教えてくれた。
「次に街で彼らと顔を合わせたら、俺の名前を出せばいい」
「頼りになること、言ってくれるのね」
「頼りになる男のつもりだよ、知ってるだろ?」
「そうね。で、そっちは何か収穫あったの?」
「ヤクザたちは情報を訊きだせずに焦っているようだ。ただ、いくつか情報も入っているみたいだな。下っ端のチンピラから聞き出したんだが、その田島をはめたって男、断られた風俗嬢に協力してくれそうな女を紹介してくれたら金を渡すといっていたらしい。連絡先を書いたメモまで渡している。もちろん、メモはもうないがな」
「連絡先? 証拠になるのに? どういうことかしら」
「本人は直接手を下すつもりがなかったってことかもしれない。あるいは、役割分担をしていたのか」
 奈緒美は確信した。やはり、田島仁志ははめられたのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

処理中です...