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エリカと別れて十分後に、奈緒美も店を出た。午後八時。昼から何も口にしていなかったことを思い出した。今夜は外で済ませると玲奈にいってきたが、彼女のことだから部屋に戻れば何か作ってくれるだろう。
しかし、部屋に戻ろうとは思わなかった。
昨夜部屋に戻ったときも今朝部屋を出る時も、彼女はどこかよそよそしかった。その変化は他人なら気にも留めないくらい微々たるものだが、長い間一緒に暮らしてきて、何十回も肌を合わせてきた奈緒美には、彼女が何で思い悩んでいるのか自然に伝わってくる。
あの日以来、玲奈の様子がおかしくなった。ホワイト・リリーであのレズビアン・カップルと出会ってから、決して口にはしないけれど、玲奈が結婚にこだわるようになったのは間違いない。
玲奈と知り合う前は、他人と一緒に暮らすなど、考えたこともなかった。彼女と付き合い始めた時も、当初は共同生活なんてまっぴらだと思っていたほどだ。しかし、次第に彼女を愛おしく感じ始め、いつも一緒にいたいと切望するようになったときには、彼女を裕福な両親から無理やり引き離し、借りたばかりのアパートに引き込んでいた。そして、三年が過ぎた。
彼女と別れたくない。この先何年も、一緒にいたい。お互い強情なところがあり、喧嘩がこじれて別れ話が出たことも一度や二度ではない。しかし、そのたびに関係を修復してきた。玲奈のいない生活なんて考えられない。
でも、それが一生涯続くとしたら。本当に心変わりしないのか。後悔しないのか。
自然とため息が漏れる。
ふと、よりを戻さないかと言ったときの一輝の顔がよぎった。四年前、一輝は大手出版社に職を得て海外勤務が決まった。一緒に行こうといってくれたのに、首を縦に振らなかった。奈緒美も小さな編集プロダクションに職を得て、これから仕事を精力的にこなしていこうという時だったのだ。男のために、あの当時の生活を捨て去ることができなかった。
お互い、嫌いになって別れたわけでも、性格の不一致が原因でもない。むしろ、一輝は奈緒美の一番の理解者だった。二人の問題を解決するために譲歩したのは、常に彼の方だった。彼が我を貫いたのは、仕事で海外に行くといった時だけだ。そして、それが原因で別れてしまった。
タイミングが悪かったといえばそれまでだ。もし、当時無職なら、一輝についていって、海外で彼と一緒に暮らしていただろう。
後悔しなかったと言えば嘘になる。奈緒美の方から謝罪してよりを戻そうと考えたこともあった。しかし結局、踏ん切りがつかないまま時が過ぎ、玲奈と出会ってしまったのだ。
突然、黒い革靴が目に入った。顔をあげると男が三人、奈緒美を見ていた。一目で筋者とわかる男たちだった。
「地面とにらめっこして歩いていると危ないぜ」
「あら、ごめんなさい」
彼らの横を通り過ぎようとした時、一番若い男が奈緒美の前に立ちふさがった。
「何か用かしら?」
「変なこと嗅ぎまわるなよ」
「何のこと?」
「商売女たちにいろいろ探りを入れているだろ。誰に断って俺たちの縄張りで勝手なことやってんだ?」
この男たちも、田島仁志をはめた男を探しているのか。
「取材の許可なら、本人たちにとっているわ」
「ふざけんなよ。記者さんなら、俺たちが何を言いたいかくらいわかるだろ? 俺たちと揉めると、記事が書けなくなるぜ」
「それって、脅迫?」
男たちの顔色が変わった。こんな人目の多い通りで、彼らは手を出したりしない。脅迫と受け取られかねない暴言も慎まねばならない立場なのだ。
「この街で取材するのに、誰かの許可を得ないと駄目だなんて決まりはないわ。私はこれからも自由な取材を続けます。妨害するなら業務妨害で訴えますよ」
男たちは黙ったまま、顔をにやけさせて奈緒美を見ていた。嫌な笑い方だ。こいつらは何かをたくらんでいる。
男たちが奈緒美に背を向けて立ちさっていった。知らぬ間に拳を握りしめていた。そっと掌を開くと、汗でじっとりと湿っていた。
「よう」
鼓膜になじみのある低い声が響く。外を歩いているのか、街の喧騒が受話器から漏れ出てくる。
ヤクザが接触してきたというと、一輝が「もう来たのか」と暢気そうに笑う声が聞こえてきた。
「笑うことないでしょ。すごく怖かったんだから」
「でも、公衆の面前で奴らが手を出さないってことも知ってたんだろ?」
「私、これでも女なんですけど。ヤクザ者三人に囲まれて、平気だったと思う?」
別れ際、あの男たちの嫌な笑い顔が頭に浮かんだ。あれは何かを企んでいる顔だ。
「私はどうすればいい?」
「奴らの仕返しを気にしてるのかい? 心配いらないよ。得にもならないことは、奴らはやらない。でも、君から情報を聞き出そうとするかもしれない」
どこでどんな男たちに声をかけられたのか、一輝が聞いてきた。場所と男たちの特徴を説明すると、一輝が「旭道会のチンピラだ。街娼のケツ持ちだよ」と教えてくれた。
「次に街で彼らと顔を合わせたら、俺の名前を出せばいい」
「頼りになること、言ってくれるのね」
「頼りになる男のつもりだよ、知ってるだろ?」
「そうね。で、そっちは何か収穫あったの?」
「ヤクザたちは情報を訊きだせずに焦っているようだ。ただ、いくつか情報も入っているみたいだな。下っ端のチンピラから聞き出したんだが、その田島をはめたって男、断られた風俗嬢に協力してくれそうな女を紹介してくれたら金を渡すといっていたらしい。連絡先を書いたメモまで渡している。もちろん、メモはもうないがな」
「連絡先? 証拠になるのに? どういうことかしら」
「本人は直接手を下すつもりがなかったってことかもしれない。あるいは、役割分担をしていたのか」
奈緒美は確信した。やはり、田島仁志ははめられたのだ。
しかし、部屋に戻ろうとは思わなかった。
昨夜部屋に戻ったときも今朝部屋を出る時も、彼女はどこかよそよそしかった。その変化は他人なら気にも留めないくらい微々たるものだが、長い間一緒に暮らしてきて、何十回も肌を合わせてきた奈緒美には、彼女が何で思い悩んでいるのか自然に伝わってくる。
あの日以来、玲奈の様子がおかしくなった。ホワイト・リリーであのレズビアン・カップルと出会ってから、決して口にはしないけれど、玲奈が結婚にこだわるようになったのは間違いない。
玲奈と知り合う前は、他人と一緒に暮らすなど、考えたこともなかった。彼女と付き合い始めた時も、当初は共同生活なんてまっぴらだと思っていたほどだ。しかし、次第に彼女を愛おしく感じ始め、いつも一緒にいたいと切望するようになったときには、彼女を裕福な両親から無理やり引き離し、借りたばかりのアパートに引き込んでいた。そして、三年が過ぎた。
彼女と別れたくない。この先何年も、一緒にいたい。お互い強情なところがあり、喧嘩がこじれて別れ話が出たことも一度や二度ではない。しかし、そのたびに関係を修復してきた。玲奈のいない生活なんて考えられない。
でも、それが一生涯続くとしたら。本当に心変わりしないのか。後悔しないのか。
自然とため息が漏れる。
ふと、よりを戻さないかと言ったときの一輝の顔がよぎった。四年前、一輝は大手出版社に職を得て海外勤務が決まった。一緒に行こうといってくれたのに、首を縦に振らなかった。奈緒美も小さな編集プロダクションに職を得て、これから仕事を精力的にこなしていこうという時だったのだ。男のために、あの当時の生活を捨て去ることができなかった。
お互い、嫌いになって別れたわけでも、性格の不一致が原因でもない。むしろ、一輝は奈緒美の一番の理解者だった。二人の問題を解決するために譲歩したのは、常に彼の方だった。彼が我を貫いたのは、仕事で海外に行くといった時だけだ。そして、それが原因で別れてしまった。
タイミングが悪かったといえばそれまでだ。もし、当時無職なら、一輝についていって、海外で彼と一緒に暮らしていただろう。
後悔しなかったと言えば嘘になる。奈緒美の方から謝罪してよりを戻そうと考えたこともあった。しかし結局、踏ん切りがつかないまま時が過ぎ、玲奈と出会ってしまったのだ。
突然、黒い革靴が目に入った。顔をあげると男が三人、奈緒美を見ていた。一目で筋者とわかる男たちだった。
「地面とにらめっこして歩いていると危ないぜ」
「あら、ごめんなさい」
彼らの横を通り過ぎようとした時、一番若い男が奈緒美の前に立ちふさがった。
「何か用かしら?」
「変なこと嗅ぎまわるなよ」
「何のこと?」
「商売女たちにいろいろ探りを入れているだろ。誰に断って俺たちの縄張りで勝手なことやってんだ?」
この男たちも、田島仁志をはめた男を探しているのか。
「取材の許可なら、本人たちにとっているわ」
「ふざけんなよ。記者さんなら、俺たちが何を言いたいかくらいわかるだろ? 俺たちと揉めると、記事が書けなくなるぜ」
「それって、脅迫?」
男たちの顔色が変わった。こんな人目の多い通りで、彼らは手を出したりしない。脅迫と受け取られかねない暴言も慎まねばならない立場なのだ。
「この街で取材するのに、誰かの許可を得ないと駄目だなんて決まりはないわ。私はこれからも自由な取材を続けます。妨害するなら業務妨害で訴えますよ」
男たちは黙ったまま、顔をにやけさせて奈緒美を見ていた。嫌な笑い方だ。こいつらは何かをたくらんでいる。
男たちが奈緒美に背を向けて立ちさっていった。知らぬ間に拳を握りしめていた。そっと掌を開くと、汗でじっとりと湿っていた。
「よう」
鼓膜になじみのある低い声が響く。外を歩いているのか、街の喧騒が受話器から漏れ出てくる。
ヤクザが接触してきたというと、一輝が「もう来たのか」と暢気そうに笑う声が聞こえてきた。
「笑うことないでしょ。すごく怖かったんだから」
「でも、公衆の面前で奴らが手を出さないってことも知ってたんだろ?」
「私、これでも女なんですけど。ヤクザ者三人に囲まれて、平気だったと思う?」
別れ際、あの男たちの嫌な笑い顔が頭に浮かんだ。あれは何かを企んでいる顔だ。
「私はどうすればいい?」
「奴らの仕返しを気にしてるのかい? 心配いらないよ。得にもならないことは、奴らはやらない。でも、君から情報を聞き出そうとするかもしれない」
どこでどんな男たちに声をかけられたのか、一輝が聞いてきた。場所と男たちの特徴を説明すると、一輝が「旭道会のチンピラだ。街娼のケツ持ちだよ」と教えてくれた。
「次に街で彼らと顔を合わせたら、俺の名前を出せばいい」
「頼りになること、言ってくれるのね」
「頼りになる男のつもりだよ、知ってるだろ?」
「そうね。で、そっちは何か収穫あったの?」
「ヤクザたちは情報を訊きだせずに焦っているようだ。ただ、いくつか情報も入っているみたいだな。下っ端のチンピラから聞き出したんだが、その田島をはめたって男、断られた風俗嬢に協力してくれそうな女を紹介してくれたら金を渡すといっていたらしい。連絡先を書いたメモまで渡している。もちろん、メモはもうないがな」
「連絡先? 証拠になるのに? どういうことかしら」
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奈緒美は確信した。やはり、田島仁志ははめられたのだ。
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