錆びた十字架

アーケロン

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 午前五時。結局、一睡もできなかった。いや、ところどころ眠った時間はあったが、すぐに目が覚めてしまった。二時間も寝ていない。
 玲奈のいない部屋は、冷たく静かで、無意味な空間だった。
 玲奈に甘え過ぎていた。玲奈は奈緒美にぞっこんで、彼女には何を言っても許されると思っていた。セックスの快楽で、彼女をつなぎとめておくことができると思っていた。彼女は奈緒美に尽くすことで幸せを感じていると思っていた。
 馬鹿だった。愚かすぎる自分自身を殴りたい気分だった。結ばれないのならさっさと別れて次を探そう。男女のカップルも同性カップルも考えることは基本的に同じだ。でも、玲奈だけはそんな考えはしないと思っていた。
 すべては奢りだった。傲慢過ぎたのだ。
 しかし、後悔してももう時は元には戻らない。人は誰でも同様の過ちを繰り返す。
 彼女は本当に別れる気なのだろうか。彼女が実家に戻ったのは、奈緒美が別れを受け入れるための時間を作るためなのだろうか。
 喉の奥が、つんと痛んだ。
 どうせ眠れないのだ。
 思い切ってベッドから降りる。自分の息が酒臭い。まだ体内にアルコールが残っている。バスルームで熱いシャワーを頭から浴びていると、自然と涙が零れ落ちてきた。
 身体を拭いてバスルームを出て、裸のままリビングのソファに座る。何も考えられず、壁に掛けられた時計をぼんやりとみていた。身体が冷えてきた。下着をつけ、トレーナーを着ると、ソファの上に横になった。
 寂しさが、急に押し寄せてきた。誰もいない部屋で、奈緒美は声をあげて泣いた。

 騒動が始まって三日目。新たな情報もなく、緊張が切れてきたメンバーたちに、疲れが見え始めてきた。昨夜飲み過ぎたのか、目を真っ赤にした井川という中年の男性記者が大きな欠伸をした。
「お前も飲み過ぎか?」
 井川が涙目で奈緒美を見た。黙って頷いて、ブラックコーヒーの入ったカップを口につける。苦い。ポットに入っていたのをカップに注いだのだが、かなり煮詰まっている。しかし、目を覚ますにはちょうどいい。
「郷田と飲んだんだって?」
「よくご存じですね」
「お前と飲んだ後、“割烹着”に顔を出したんだ。結局、五人で明け方まで飲んでたよ」
 結局、一輝はあの後この連中と合流したのか。もしかしたら偶然来たのではなく、奈緒美を旅行に誘うためにあのバーに顔を出したのかもしれない。
「相変わらずですね。郷田さんは?」
「会社に泊まったはずだ。仮眠室のベッドはいっぱいだったので、どこかの会議室の床で雑魚寝でもしているんだろ」
 そこへ、噂の一輝がやってきた。彼の眼も真っ赤だった。視線がぶつかった。彼が奈緒美の横に座る。
「大丈夫? 今朝まで飲んでたんだって?」
「いつものことだよ」
「酒臭いわよ」
「君だって人のこと言えないよ」
「そんなに匂う?」
「カクテルグラスのジン四杯じゃ、そうはならないだろ。どうしたんだ? あれから部屋に戻った後、猫と飲んでいたのか?」
「猫……逃げちゃった……」
「逃げた?」
「家出」
「窓、開けっ放しにしていたのか?」
「まあ、そんなとこ」
 デスクの小宮も入ってきた。彼の眼も真っ赤だった。無精髭が目立っている。触ればざらついて気持ち悪そうだ。
「訴訟を起こした田島仁志の父親の取材はどうなっているんだ」
 朝の挨拶も抜きに、いきなり会議室に集まったメンバーに問いかけた。田島の遺族への取材は一輝の班の担当だった。
「今、むこうで二人張りこんでいます。父親は家に閉じこもったまま出てきません」一輝が目頭を指で押さえながら答えた。
「取材はいつできるんだ」
「わかりません」
「わかりませんとはなんだよ」
 小宮がいらついている。しかし、一輝は気にも留めずに皺になった上着のポケットから手帳を取り出した。
「田島家の親戚筋を調べました。父親の弟、仁志の叔父の居場所が分かりました。兄の近くに住んでいます。兄弟仲はそう悪くないので、兄から何か話を聞き出しているかもしれません。警備員をやっていますが、夜勤明けでそろそろ家に戻ってくると思います」
「じゃあ、こんなところにいないでさっさと行って来い」
「実は父親の方は今朝も動きがないと思ったもので、父親に張りついていた一人に叔父の方を見張るように言ってあります」
「そ、そうか」小宮は大人しく椅子に腰をおろした。さすがは一輝だ。抜けがない。
「じゃあ、今からすぐに向こうに行きます」
「おう、頼んだぞ」
 一輝が会議室から出て行った後、取材スケジュールの確認が始まった。小宮には黙っているが、藤森俊夫とともに死刑反対運動をしている松岡に会いに行くと決めていた。彼が藤森俊夫と田島仁志、あるいは真犯人とのつながりについて何か知っているかもしれない。
 打ち合わせが終わり取材に行く準備をしていると、先に会議室を出ていった一輝が慌てて事務所に戻ってきた。
「どうしたの? 忘れもの?」
「デスクは?」
 息を荒げながら、奈緒美の質問に答えずに上着を脱ぎ始めた。
「まだ会議室にいると思うけど」
「すぐにテレビをつけろ。真犯人が警察に自首した」

 記者たちが、テレビ画面にくぎ付けになっている。小宮も取材を放り出している記者たちを怒鳴りつけることもなく、彼らと共に黙ってテレビを見ていた。
 東出明人が警察に自首したのは、朝の九時を過ぎてすぐだった。警察は当初東出の存在を隠していたが、各社のサツ回りが嗅ぎつけた。十五分後にはマスコミ各社が所轄に殺到し、各社同時にテレビで速報を流した。
 ヘリで上空から撮影する画面がテレビに映っている。移送される真犯人を載せた警察車両を、マスコミのワゴン車が追っていた。
「どこも自首した犯人の映像を撮っていなかったようだな」
 小宮が呟くように言った。
「車内の映像も取り損ねたようですね」
 一輝がリモコンで他の局のチャンネルに変えた。
 それから一時間が経った。新しい情報はなかなか伝わってこない。テレビを見ていた記者たちが一人二人とテレビの前を離れ、取材に出ていく。
「記者クラブの発表は?」
「まだ連絡は入って来てません」
 井川の声だった。警察の広報からの発表は夜になるだろう。奈緒美は席を立った。一輝はいつの間にか姿を消していた。

 都心にある十二階建てオフィスビルの八階に、オリーブフードサービスの本社があった。社長の松岡芳樹は奈緒美の突然の訪問にも嫌な顔もせず、社長室に招き入れてソファを勧めた。
「突然の訪問をお許しください」
 コーヒーを持ってきた秘書らしき女が出ていってから、頭を下げた。
「いえいえ、構いませんよ。隆弘君の無実を世間に訴えてくれるなら、どれほど忙しくても時間は作りますよ」
「公平な立場で報道させていただきますので、無罪を訴えるとは限りませんが、記事にはなるべく配慮いたします」
「つまりは、それが隆弘君の無実を世間に伝えていただくことになるのですよ。彼は明らかに無実なんだから。確固たる証拠もなく裁判であれほど無実を訴えていたのに、裁判所は隆弘君の言い分にまったく耳を貸さなかった。明らかに偏見に満ちた、公平性を欠いた裁判だったよ」
「隆弘さんはかなりの不良だったらしいですけど、藤森さんはそんな息子さんのことをどう思っていたんでしょうか?」
「もちろん、父親として息子の将来を気にしていましたよ。息子がどんな人間かもわかっていたでしょう。人様に迷惑をかけなければいいと、そればかり言っていました」
「松岡さんは隆弘さんが本当に無実だと思っているんですか?」
 松岡の眼が、一瞬冷たくなった。
「私も人となりの人物だと自負しています。希望的観測は述べませんよ。それでも、隆弘君が無実かどうかなどという質問は愚問だ。私は隆弘君がどんな人間か知っている。皆は彼のことを不良呼ばわりするが、とても優しい男なんです。父親の藤森さん同様、私も彼を救いたいと思っている」
「女性に乱暴したことも多かったようですが」
「若気の至りという奴ですよ。男なら誰でもそうだ。確かに粗暴な面のある男だが、それは彼の本質ではない。それがわかっているからこそ、全力で彼の無罪を今も主張し続けているんです。私は一度こうだと決めたことはとことんやり抜く男です。死刑廃止運動でも国会議員でも、彼の命を救うためなら利用できるものは何でも利用しますよ」
「藤森さんはむしろ、もし息子が罪を犯したのなら、罪を償うことを息子さんに訴えたいといっていました」
「藤森さんも心の底から息子を救おうとしている。命をもって罪を償えなんて、本心から言った言葉じゃないよ。他人を殺してでも自分の息子を守ろうとするだろう。それが親というものだ」
「そうかもしれません。話は変わりますが、今、無実の罪で処刑されたと騒がれている田島仁志という人物が、藤森さんと何らかの接点はありませんでしたか?」
「どういうことですかな」
 松岡が訝しげに奈緒美を見た。
「あくまでも私の想像なのですが、藤森さんは息子の隆弘さんを救うために田島氏に殺人の罪をかぶせて冤罪で処刑させた可能性があります。そうなれば、法務省は隆弘さんの死刑執行に躊躇すると考えたからです。早期に刑を執行させるため、殺された少女の遺族に会って訴訟を起こすように提案したかもしれません。もしかしたら、判決が出る前に法務省が田島氏の死刑を執行することも読んでいたかもしれません」
 松岡が強い視線を向けた。
「馬鹿馬鹿しい妄想ですよ。第一、判決が出たら出たで、隆弘君の刑が半年以内に執行される状況にもなりかねなかった」
「では、むしろ、藤森さんにとっては今回の法務大臣の執行命令は歓迎すべきだったかもしれないと?」
「なんともいえませんね。裁判に決着がつかなかったことで、下手をすれば、再び同様の訴訟を、今度は隆弘君相手に起こされるかもしれない。そうなれば隆弘君もその田島という男と同様、いつ執行されてもおかしくない状況になる。藤森さんがあなたの考えているようなことを画策したとは思えないですね」
「でも、真犯人が名乗り出てくれば状況は変わります」
 奈緒美の言葉に、松岡は眉一つ動かさなかった。
「昼に自首してきたと騒いでいたな。確か、東出とかいいましたか」
「田島氏の冤罪は真犯人によって証明され、無実の人間が国によって処刑されたという衝撃的な事実が国民に伝えられるでしょう。そうなれば、確固たる物証もないまま死刑判決を受けた確定囚への執行は、今後おそらく中止されるでしょう」
「藤森さんと真犯人につながりがあるといいたいのかね?」
「可能性があると思っています」
 松岡はソファの背もたれに体重を預けると、呆れ顔で大きなため息をついた。
「まあ、いろいろ複雑な事情がある方が、記事としては面白いでしょう。しかし、藤森さんがそんな計画を立てたとは思えませんな。それに、どんな状況になろうとも、私は藤森さんとともに、隆弘君の命は必ず守ります。処刑させるなんてことは、決してさせません」
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