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午後八時。事務所に戻るとテレビの前に人だかりができていた。
「東出明人が釈放されたぞ」
一輝から聞かされ、慌ててテレビ画面を睨み付けた。液晶画面の中で、警察署の玄関を出た東出が報道陣に囲まれていた。マスコミのカメラの前に立っている東出明人はひどく痩せていたが、たしかにあのDVDに映っていた男だった。
「どうして釈放されたの?」
「まだわからない。これから喋るんじゃないのか?」
マスコミ各社のレポーターたちが東出に殺到し、マイクを向ける。
「宮崎恵美さんと小木尚子さんを殺害したのは、あなたで間違いないんですか?」
「はい、間違いありません」
「犯行場面を録画したDVDをマスコミ各社に送ったのもあなたなんですね」
「はい、その通りです」
「今朝自首したばかりなのに、どうして釈放されたんですか?」
「私の犯行だという証拠がないので、逮捕はしないということでした」
「でも、あの殺人の場面の映像に映っていたのは、あなたなんですよね?」
「はい、間違いありません。でも、警察は犯人は私じゃないといい張るんです」
素直な受け答えだ。とても凶悪犯には見えない。
「どうして、急に自首しようとしたんですか?」
「贖罪のためです。長い間逃げ隠れているうちに、人を殺したという罪の意識に耐え切れなくなってきたのです。その上無実の田島さんまで私のせいで死刑にしてしまった。すべて私の責任です」
東出が突然シャツの前を広げた。奈緒美が思わず声をあげた。
「この十字架の刺青は、私が殺してしまった二人の女性に懺悔するために身体に刻み込んだものなのです」
風俗嬢が見た、十字架の刺青。
しかし、二人の女性の贖罪のために入れたのだとすると、事件の前に殺す女を探していた男じゃないということだ。体格も年齢も違い過ぎる。しかし、何か関係があるはずだ。
東出の胸は、あばらが完全に浮き出ている。頬の肉もすっかり落ち、しゃれこうべの上に皮が張り付いているように見える。どう見ても健康な身体じゃない。
「私は洗礼をうけた身なのに、人を殺めてしまった。神は私を許さないでしょう。私の命も残りわずか。死ぬまでに真実を告白し、二人の被害者と田島氏に懺悔する日々を送ると決めたのです」
「勝手なこと言いやがって」井川が吐き捨てるように言った。
「この男、末期がんなんだ。七年前に医師に余命半年といわれて見捨てられたらしいんだが、予想外に長生きしちまったみたいだな」
DVDに映っていた男の顔が公表されてから、ネット上で様々な情報が飛び交った。何万人もの視聴者に晒された男の正体は、ネットによってあっけなく突き止められた。記者たちは信用できそうな情報を当たっているうちに、東出の正体を暴きだすことができたのだ。ネット情報を取捨選択し、記者がフォローして真偽を確かめる。今はマスコミの取材よりネットのほうが情報は早い。
東出明人は、小さいころから施設で育った。年齢は三十五歳。両親の顔すら知らない。中学を出て町工場で働きだしたが、八年前の二十四歳の頃に膵臓や肝臓に転移したがんが見つかった。仕事もクビになり、がんの治療を続けながらアルバイトで食いつないでいた。
東出が二人の女性を殺したのは七年前、彼が二十五歳の時だった。がんで余命半年と宣告され、絶望の中の犯行だと、ネット上では噂されているが、本当の動機は当人しか分からない。
「見つかった凶器に東出の指紋は残っていなかったのかしら」
DVDに映っていた東出は、手袋をしていなかった。
「残ってたら、こんなに早く釈放されなかったんじゃねえのか? 殺しをやった時は逃げるつもりだっただろうから、凶器の指紋は拭っていただろう。現に犯行現場からも東出の指紋は出ていなかった」
レポーターが彼から話を聞こうとしたが、今日は疲れているので、明日詳しく会見すると目の前の取材陣に告げ、東出は弁護士が用意した白いワゴン車の中に乗り込んだ。
「警察が釈放したってことは、やっぱりガセだったんじゃねえのか?」
「でも、間違いなくDVDの男だったわ。特徴のある顔だから、見間違えないと思うけど」
「少なくとも、あの場にいる大勢の連中はそのことを疑ってはいない。あの男がDVDに映っていた男に間違いないのは事実だ。ではどうして警察が釈放したかだ。証拠はなくとも出頭してきた容疑者の取り調べが一日で終わるとは思えない」
一輝の疑問に答えられるものは、その場にいなかった。
その後、関連ニュースが流れた。無実の人間が処刑されたニュースは世界中で報道されているといって、キャスターが各国の現状の説明を始めた。東出明人が犯行に及ぶ場面が、動画ではなく写真で紹介されていた。次のニュースでは、田島仁志の父親が訴状を裁判に提出したと伝えられた。証拠は揃っている。国に勝ち目はないだろうと、コメンテーターが言っている。
「あいつ、どこのホテルに泊まってるんだ?」
井川が一同に訪ねたが、誰も知らなかった。
ホテルには二十四時間マスコミ関係者が張り付くだろうが、今夜はホテルの部屋に引き込んだまま出てこないだろう。明日の会見で彼が何を話すのか、日本中の注目を集めるだろう。
「飯でも食いに行くか?」
十時を過ぎて事務所を出ようとした時、一輝に声をかけられた。少し前に井川が数人を引き連れて事務所を出て行ったところだった。
「今夜は、割烹着にはいきたくない」
「俺もだ」
一輝が通りでタクシーを捕まえた。
連れてこられたのは、駅ふたつ離れた場所にある居酒屋だった。地元のなじみ客が利用する狭くて静かな居酒屋だった。一輝はここの常連で、もう三年も通っているらしい。三年前といえば、奈緒美が一輝と別れた時だ。
カウンター席に座ってビールを注文した。ふたりでビールのグラスを合わせ、刺身と揚げ物、それにサラダを注文した。
「どうして警察は東出を拘留しようとしないのかしら?」
「またその話か」
「だって、東出を放っておくと、いろんな情報が出てしまうじゃない。むしろ東出を拘束して、自分たちにとって不都合な情報が出ていかないようにするのが、これまでの警察のやり方だと思わない?」
「だから手出しできなかったんだ。みんな、警察のやり方は知っているからな。無実の人間が処刑されたばかりだから、下手に高圧的な態度に出れば、またマスコミに騒がれてしまう。それに田島の刑が執行されて、既に事件の法的手続きは完了している。東出が真犯人となると、今後ややこしい手続きが待っているだろう」
「まさか、このまま東出が罪に問われないってことにはならないわよね」
「最終的には逮捕されるだろう。田島の無罪判決が出た後、東出を被告として裁判をやり直す。しかし、あの様子じゃ、東出の身体は持たないかもしれない。公判が維持できるかどうかは微妙だな」
顔は土色に変色し、腕は木の枝のように細く、身体も骸骨のようにやせ細っていた。
「確かにひどそうだったわね。でも、どこでどうやって治療を受けてきたのかしら。末期のがんなのに七年も命を長らえたってことは、よほどいい治療を受けてきたのよ。彼、アルバイトで食いつないでいたんでしょ?」
「ああ、安アパートに住んでいる貧困層だ」
「あの身体じゃ、仕事なんてできなかったはずよ。がんの治療にはお金がかかるの。七年間の治療費用は膨大だったはず。会社をクビになってお金もなく、国民健康保険にも加入していなかったはずなのに」
「誰かが援助していたといいたいのか。まさか、それが藤森俊夫だと?」
「藤森俊夫は裕福な男よ。彼には七年もの間、末期がんの東出明人を支えることができたはずだわ。そうする理由も、彼にはあった。もし東出が裁判で有罪になるとどうなるのかしら」
「そりゃ、今みたいな騒ぎになるだろうね。国が誤って無実の人間を処刑したことが、法的にも確定してしまう」
「死刑制度は、なくなるかしら」
「それはないだろうな。政府が無実の人間を処刑したことは認めるだろうが、東出にはめられたものであり、過失はないと主張するだろう。それでも、警察にとっては耐え難い屈辱だよ」
店が混んできたので事件の会話を止めた。二人で大分飲んだ。いつの間にか二人とも無口になっていた。いつの間にか、玲奈のことを考えていた。一輝が一人で黙って飲んでいるのに気づいた。
「どうしたの? 飲み過ぎたの? 今夜はずいぶん無口ね」
「君もな。猫のことを考えていたのか?」
「そうね」
「可愛いのをプレゼントしてやるよ」
「いいわ、もう」
十時を回った。店がそろそろ看板なので、一輝が金を払い店を出た。
「半分払うわ」
バッグを開けようとして身体がふらついた。一輝が慌てて手を伸ばして奈緒美を支えた。
「飲みすぎちゃった」
「どうしたんだ。今夜はずいぶん飲んでいたじゃないか。それにずいぶん考え込んでいたみたいだけど。まさか、仕事のことじゃないだろ? そんなに猫のことが心配なのか?」
とたんに目から涙が溢れてきた。
「お、おい」
「大丈夫……」
「よほど可愛がっていたんだな」
「命より大切だったかもしれない」
「そうか、察するよ」
大通りまで出てタクシーを捕まえようと一輝がいって、二人並んで歩き始めた。近道だといって、住宅街を突っ切っていく。付近に人影はない。静かな場所だった。
歩いている間、時折涙がこぼれた。鼻を啜ると、一輝がそのたびに心配そうに足を止めた。
「大丈夫か?」
背中に触れられると、また涙があふれてきた。
「大丈夫だから」
両手で顔を覆った。深呼吸を繰り返す。
不意に一輝に肩を抱かれた。彼の顔が被さってくる。唇が触れ合った。一輝の顔が離れた。街灯が逆行になって彼の表情が見えないが、熱い視線を感じる。
「一輝……」
再び唇を塞がれた。彼の舌が侵入していた。奈緒美は一輝のなすがまま、ただ身体をゆだねていた
一輝の身体の重みが懐かしかった。かつて馴染んでいた男の身体とその匂いに、身体が震えた。
最低だと思うが、寂しくて死にそうだった。たった二日しか経っていないのに。
三年前と変わらず、一輝は優しかった。欲情につきたてられ、奈緒美を激しく攻めることはせず、時には強く、時には頼りなさ気に奈緒美の反応を窺いながら変化をつけてくる。奈緒美はただ、彼の動きに快感を同調させるだけだった。湿っぽい音が部屋に響いたが、卑猥だとは思わなかった。
何度も達した。そのたびに大声をあげた。まだ二人が付き合っている時、いく時の声が大きいので一輝とセックスをするのはいつもホテルだった。
何度も絶頂を迎え、意識がもうろうとしてきたとき、ようやく一輝が果てた。奈緒美から出た彼が身体を横たえ、髪を撫でてきた。
結局、行為の最中、玲奈の顔を思い出すことは一度もなかった。
「相変わらず、声、大きかったでしょ?」
「その方が興奮するよ」
「本物は久しぶりだったから、夢中になっちゃったの。ずっとシリコンのおもちゃだったのよ」
一輝が笑った。
「三年前にあなたと別れて以来かな、本物は」
「ほんとかい?」
「そう……」
一輝の逞しい身体を抱きしめた。
「奈緒美、結婚してくれ」
「え?」
「ラブホテルのベッドの上でプロポーズとはあまりロマンチックじゃないけど、今言わないと言えないような気がしたから」
一輝に見つめられ、奈緒美は視線を外すことができなかった。
「東出明人が釈放されたぞ」
一輝から聞かされ、慌ててテレビ画面を睨み付けた。液晶画面の中で、警察署の玄関を出た東出が報道陣に囲まれていた。マスコミのカメラの前に立っている東出明人はひどく痩せていたが、たしかにあのDVDに映っていた男だった。
「どうして釈放されたの?」
「まだわからない。これから喋るんじゃないのか?」
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「はい、間違いありません」
「犯行場面を録画したDVDをマスコミ各社に送ったのもあなたなんですね」
「はい、その通りです」
「今朝自首したばかりなのに、どうして釈放されたんですか?」
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「でも、あの殺人の場面の映像に映っていたのは、あなたなんですよね?」
「はい、間違いありません。でも、警察は犯人は私じゃないといい張るんです」
素直な受け答えだ。とても凶悪犯には見えない。
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東出が突然シャツの前を広げた。奈緒美が思わず声をあげた。
「この十字架の刺青は、私が殺してしまった二人の女性に懺悔するために身体に刻み込んだものなのです」
風俗嬢が見た、十字架の刺青。
しかし、二人の女性の贖罪のために入れたのだとすると、事件の前に殺す女を探していた男じゃないということだ。体格も年齢も違い過ぎる。しかし、何か関係があるはずだ。
東出の胸は、あばらが完全に浮き出ている。頬の肉もすっかり落ち、しゃれこうべの上に皮が張り付いているように見える。どう見ても健康な身体じゃない。
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DVDに映っていた男の顔が公表されてから、ネット上で様々な情報が飛び交った。何万人もの視聴者に晒された男の正体は、ネットによってあっけなく突き止められた。記者たちは信用できそうな情報を当たっているうちに、東出の正体を暴きだすことができたのだ。ネット情報を取捨選択し、記者がフォローして真偽を確かめる。今はマスコミの取材よりネットのほうが情報は早い。
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「見つかった凶器に東出の指紋は残っていなかったのかしら」
DVDに映っていた東出は、手袋をしていなかった。
「残ってたら、こんなに早く釈放されなかったんじゃねえのか? 殺しをやった時は逃げるつもりだっただろうから、凶器の指紋は拭っていただろう。現に犯行現場からも東出の指紋は出ていなかった」
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「警察が釈放したってことは、やっぱりガセだったんじゃねえのか?」
「でも、間違いなくDVDの男だったわ。特徴のある顔だから、見間違えないと思うけど」
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「あいつ、どこのホテルに泊まってるんだ?」
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ホテルには二十四時間マスコミ関係者が張り付くだろうが、今夜はホテルの部屋に引き込んだまま出てこないだろう。明日の会見で彼が何を話すのか、日本中の注目を集めるだろう。
「飯でも食いに行くか?」
十時を過ぎて事務所を出ようとした時、一輝に声をかけられた。少し前に井川が数人を引き連れて事務所を出て行ったところだった。
「今夜は、割烹着にはいきたくない」
「俺もだ」
一輝が通りでタクシーを捕まえた。
連れてこられたのは、駅ふたつ離れた場所にある居酒屋だった。地元のなじみ客が利用する狭くて静かな居酒屋だった。一輝はここの常連で、もう三年も通っているらしい。三年前といえば、奈緒美が一輝と別れた時だ。
カウンター席に座ってビールを注文した。ふたりでビールのグラスを合わせ、刺身と揚げ物、それにサラダを注文した。
「どうして警察は東出を拘留しようとしないのかしら?」
「またその話か」
「だって、東出を放っておくと、いろんな情報が出てしまうじゃない。むしろ東出を拘束して、自分たちにとって不都合な情報が出ていかないようにするのが、これまでの警察のやり方だと思わない?」
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「まさか、このまま東出が罪に問われないってことにはならないわよね」
「最終的には逮捕されるだろう。田島の無罪判決が出た後、東出を被告として裁判をやり直す。しかし、あの様子じゃ、東出の身体は持たないかもしれない。公判が維持できるかどうかは微妙だな」
顔は土色に変色し、腕は木の枝のように細く、身体も骸骨のようにやせ細っていた。
「確かにひどそうだったわね。でも、どこでどうやって治療を受けてきたのかしら。末期のがんなのに七年も命を長らえたってことは、よほどいい治療を受けてきたのよ。彼、アルバイトで食いつないでいたんでしょ?」
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「あの身体じゃ、仕事なんてできなかったはずよ。がんの治療にはお金がかかるの。七年間の治療費用は膨大だったはず。会社をクビになってお金もなく、国民健康保険にも加入していなかったはずなのに」
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何度も達した。そのたびに大声をあげた。まだ二人が付き合っている時、いく時の声が大きいので一輝とセックスをするのはいつもホテルだった。
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「相変わらず、声、大きかったでしょ?」
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