錆びた十字架

アーケロン

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 ホテルの部屋に入るなり、東出明人は崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
「末期がんなんだって?」
 取り調べにあたった刑事が、あざ笑うかのように言った。あくまで任意の取り調べだったが、警察に東出を逮捕しようという意思はなかった。たわごとを聞いてやっている、そんな態度だった。
「警察が証拠を隠滅できないようにマスコミまで呼びやがって。死ぬ前にひと騒ぎ起こしてやろうって思ったのかい。人騒がせな野郎だ。田島が吊るされる前に死んでくれりゃ、よかったのに」
 こいつらはいつもこうだった。弱いものを徹底的にいじめ、強い奴や社会的地位のあるものにはへいこら頭を下げる。
「逮捕して、留置所に入れないんですか?」
「留置場で死なれたらたまらんからな」
 あの人の言うとおりだった。口を封じるために逮捕して死ぬのを待つ。そんな手段も警察にはあった。しかし、日本中を騒がせ世界中から注目されている事件。その張本人が署内で死亡でもしたら、よからぬ憶測を呼び警察の権威は地に落ちてしまう。多くの警察幹部を生贄に差し出さなくならなくなる。だから、必ず釈放するといっていた。
 取り調べは休憩を挟み十時間以上に及んだ。しかし、意味のある取り調べではなかった。冒頭で散々嫌味を言われた後は、ほとんど雑談だった。DVDの画像の話も、見つかった凶器についても、刑事は何も聞いてこなかった。凶器には指紋も残っていたはずだ。金属についた指紋は七年では消えない。それでも、刑事は東出を逮捕しようとしなかった。
 自宅アパートは、徹底的に調べられただろう。しかし、あの人との関係を示すものは何もないはずだ。病院の診察券も処分した。もう必要ない。
 健康上の理由から帰宅を許されたが、家には戻らずにこのホテルに泊まった。そして、おそらく警察の監視下に置かれている。マスコミ関係者はホテルに入ってくることができない。ホテル側の要請との名目で、入り口で警察が記者の侵入を防いでいるからだ。
 これもあの人の予定通りだった。
 東出は天井を見上げた。明日、会見を行うとマスコミの前で公言した。あの人の予想が当たるとすれば、今夜だ。
 もう永くはない。所詮、捨てても惜しくない命だ。振り返れば、不遇の人生だった。いつどこで生を受け、両親は何をしている人で自分が誰の子供なのかも知らないで育った。小さいころから身体が弱く、施設ではずっと虐められていた。中学を卒業すると逃げ出すように施設を出て印刷工場で働き始めたが、そこでも先輩の従業員に酷い仕打ちを受けた。それでも、働かないと食べていけない。まして中卒では別の仕事を探しても決まらないかもしれない。食べていくために我慢するしかなかったのだ。
 体調の異変に気付いたのは、工場で働き始めて九年目のことだった。突然、全身が酷い痒みに襲われた。特に腰のあたりの痒みが酷かった。しかし、そんなことで仕事は休めなかった。しばらくして、仕事中に激しい腹痛に襲われ、倒れてしまった。
 精密検査の結果を説明する医師の表情が強張っていたのを、今でも覚えている。
 検査の結果、胆管にがんが見つかった。がんは肝臓や膵臓にも転移していた。ステージⅣだと、医師が言った。意味がわからないという顔をしていると、末期がんだと告げられた。
 会社に戻ると、診察の結果を社長は知っていた。病院からこっそり聞き出したのだとわかった。面倒をみなければならなくなる前に、依願退職させられた。手にした退職金は、五万円だった。
 明日からどうやって生きていけばいいのか。仕事もなく、その上病気だ。自殺するしかないと思った。しかし、自殺は教会で禁じられている。どうしたらいいのか相談するために、洗礼を受けたばかりの教会に行った。あの人にあったのはその時だった。
「最期の時まで、私が面倒を見てあげるよ」
 大きな外車に乗っていたあの人が、優しく微笑みながら今月の生活費だと言って二十万円を渡してくれた。そして、がん治療で実績のある大きな病院に通院させてくれたのだ。
 あの人がいなければ、とっくの昔に野たれ死んでいた。死にたいと思った時、叱咤激励してくれた。永く生きろ、生きることができる間は死ぬことを考えるなと言われ続けた。彼に支えられ続けて七年間。奇跡の時を過ごすことができたのだ。
 もう、思い残すことはない。
 突然、激しく鈍い痛みが身体の奥から突き上げるように襲ってきた。耐えがたい内臓痛。末期がんの痛みだ。がん患者は死ぬ前、誰もがこの痛みにのたうちまわる。がんが進行しすぎると、モルヒネが効かなくなるからだ。
 東出は自分の顔を鏡で見た。よく今日まで生きることができた。しかし、死期が近いことはわかっている。もうこれ以上命を永らえることはないのだ。
 覚悟はできている。
 また痛みが襲ってきた。モルヒネ製剤を瓶から取り出し、水とともに飲み下す。十分ほどで痛みはましになるが、完全に消し去ることはできない。
 もう、持っていても仕方ない。残りのモルヒネ錠を全部飲んだ。
 早く準備をしなくては。
 天井、ミニバー、壁、ベッドサイド、念のために浴室にも。
 部屋の電話が突然鳴った。全身に緊張が走る。受話器を取り上げ耳にあてた。
「はい」
「あの、下の階から天井から水漏れがすると苦情がありました。バスルームはご使用になられましたか?」
 女性の声だった。ついに来たか。
「いえ、まだ使っていませんけど」
「今から係の者が伺いますので、少し調べさせていただけないでしょうか、すぐに済みますから」
 胸の鼓動が高鳴る。
「い、いいですよ」
「では、しばらくお待ちください」
 受話器を置く。額から汗が流れ落ちた。深呼吸を繰り返す。痛みは、感じなくなっていた。
 ドアベルが鳴った。ずいぶん早い。女性が電話している時は、外ですでに待機していたのかもしれない。
「はい」
 レンズから外を見ると、ホテルのボーイと作業着を着た男が立っていた。
「夜分すみません。バスルームの点検に来ました」
「ちょっと待ってください」
 ドアチェーンを外して鍵を開けた。ドアを開けると、ボーイが頭を下げた。
「失礼します」
 二人の男が中に入ってきた。ドアが閉められる。作業着を着た男がバスルームのドアを開けた。突然、ボーイが東出の腕を取り、後ろにねじ上げた。思わず悲鳴を上げるが、ボーイは構わずにベッドに東出を押し付けた。
「手荒にするな。おかしな傷を身体につけるんじゃない」
 バスルームから出てきた作業服姿の男の手に、タオルが握られていた。
 やはり、僕を殺すのか。
 それが、この国の答えなんだな。
 作業着の男がドアのノブにタオルをくくりつけた。
「いいぞ」
 ボーイ姿の男に引きずられ、ドアのそばに行く。輪になるように、タオルがドアノブに括り付けられていた。
 ボーイに上体を起こされる。作業着姿の男に襟首を掴まれた。あっという間にタオルでできた輪に首を通された。
 ボーイは東出の両手首を掴んで、膝で身体を押さえつけている。作業着姿の男が、東出の両肩に手を置いた。
 強く肩を下に押された。タオルが首に食いこみ、目の前が真っ暗になった。
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