錆びた十字架

アーケロン

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 昨日と同じ服のままだが、マンションに戻って着替える気はなかった。昨夜は帰るつもりだったので替えの下着も持ってきていないが、仕方ない。誰かに指摘されれば、昨夜は仮眠室に泊まったといえばいい。
 明け方に、一輝ともう一度愛し合った。玲奈のことは、やはり思い出さなかった。思っている以上に自分は薄情な女なのかもしれない。
 玲奈と違って、奈緒美は男を受け入れることができる。果たして今もそうなのかと思っていたが、以前と変わらず好きものだったのには、自分でも呆れてしまった。それとも、一輝との身体の相性がいいのか。
 ホテルから出て最寄りの駅の傍の喫茶店に入り、ふたりで朝食をとった。食事の間、二人とも黙って朝刊に目を通していた。警察署から釈放される東出が、一面トップで映っていた。死刑廃止を推し進める代議士の吉本のコメントにならんで、藤森俊夫と松岡芳樹のコメントも載っている。この二人は協力して死刑廃止運動を続けていて、日本中を講演のために飛び回っていると記事に書いてある。
「先に会社に行くね。ふたり一緒に顔を出すと怪しまれるから」
 新聞を元あった場所に戻し、ミネラルウォーターを飲んだ。
「誰も気づきはしないよ」
「昨日と同じ格好だし」
「俺なんか、毎日同じ服だ」
「女はそういうわけにはいかないの。他の女はよく見ているのよ」
「今日は田島の友人に会いにいくんだろ?」
「無実の罪で処刑された哀れな友人について一言、なんてワイドショーのリポーターみたいだけど、記事を書くには必要だから。あなたは?」
「田島の父親にあってくる。東出明人とどこかに接点があるかもしれない。あいつの起こした過去のトラブルとつながってるはずなんだ。どこかで田島は東出の眼に止まった。そして田島を罠にかけたはずなんだ」
「東出はいつかそのことを話すわ、きっと」
「どうかな。時間は思ってるほどないかもしれない」
「そうね」東出のあの様子では、いつ死んでもおかしくない。
 一輝はコーヒーを飲み干すと、二杯目を注文した。奈緒美との時間差出勤に協力してくれる気になったのだろう。
「週刊スカット、来月から外部の編集プロダクションに任すことになったの、知ってるか?」
「え?」
「オフレコで頼むよ。誌面をリニューアルするらしい。編集方針も大きく変わるだろうな」
「だって、売り上げ、まあまあじゃない。路線は間違っていないわ」
「内容を変えればまだまだ伸びると上は思ってるんだろ。でも、編集長が方針を変えようとしない。だから外部に任すことになったらしい」
「編集長はどうなるの?」
「そりゃ、他所の部署に異動になるだろうけど、あの人のことだから辞めてフリーになるだろうな。だが、ライターは現状のまま据え置きらしい。職を失うのだけは免れることができそうだな」
「そうか……。あの編集長とも今月で終わりか……」
「この世界、人の入れ替わりが激しいんだ。長く持った方だと思うよ」
 払っといてといって、一輝に伝票を押し付けた。この魅力的な肉体を好きにさせてあげたのだから、それくらいの代償は当然だ。
 電車に乗って会社に戻った。事務所には誰もいなかった。いつもしかめっ面をして椅子に座っているデスクの小宮の姿もなかった。ロックもかけずにパソコンの画面を開いたままにしているので、すぐに戻ってくる気なのだろう。
 自分のデスクに座ると同時に携帯電話が鳴った。一輝からだった。
「もしもし?」
「連絡、入ってるか?」
「何の?」
「東出がホテルで自殺した。ついさっき発見されたんだ」
 何か言おうとしたが、言葉が出なかった。無意識に何か言ったかもしれないが、覚えていないのかもしれない。電話は切れていた。一輝のことだから、現場に向かったのだろう。
 ネットニュースを覗いた。速報が出ていた。東出明人が昨夜午前零時過ぎに、ホテルの部屋のドアノブで首を吊ったと書いてある。詳しい状況はまだわかっていないらしい。
 事務所を出てコミュニケーションルームに行くと、やはりみんな集まっていた。
「すみません、気が付かなくて」
「俺たちもさっき知ったところだ」
 井川が脂ぎった頭を掻いた。ニュースでは、ホテルに慌ただしく出入りする捜査員の姿が映っている。
「向こうの様子はどうなんですか?」
「ただの自殺にしては人の出入りが激しいようだな。まあ、今日本中から注目を集めている人物の自殺だからな」
「捜査官たちは何かを必死で探しているな」
 小宮がテレビを見ながら言った。
「何を探しているんです?」
「そんなの知るもんかい。だが、有名人の自殺にしても、騒ぎ過ぎだろ。何かあるんじゃないのか」
「贖罪のためといって自首してきた人間が、どうして自殺なんかしたんでしょうか? 自殺なんかすれば贖罪にもならないし、自首した意味もないじゃないですか」
「殺されたってことか」井川の言葉に、一同の視線が二人に集まる。
「誰に? まさか共犯者じゃないだろうな」
「警察かもしれません。あるいは政府関係者」
「馬鹿な。殺すつもりなら留置場でやればいい。いつ死んでもおかしくない男だったんだ。拘留中に死んだことにすりゃ、いくらでも言い逃れができる。それをわざわざ釈放した後、衆人監視の中、ホテルに忍び込んで殺しなんかするかよ。そんなリスクを負う意味もない」
「留置所で東出に死なれたら、困るのは警察ですよ」
 井川と奈緒美のやり取りを、誰もが黙って聞いていた。
 次のニュースに変わった。官房長官の記者会見のライブ放送が始まった。東出の死について、自殺の可能性が濃厚であると説明した後、死刑制度はこの先も存続すると、官房長官は言った。

 古びたアパート。この辺りに多いタイプの文化住宅だった。
 郵便受けに宮崎と書いてある。宮崎恵美の母親の部屋は、この文化住宅の、二階奥の部屋だった。階段を上がり、目的の部屋に向かう。以前母親を取材した同僚の記者に、彼女が水商売をしていると聞いている。午後三時。もう起きている時間だろう。
 ドアの前に立つ。向こう側で人の動く気配がしている。ドアベルのボタンを押したが、音が鳴らなかったので、ドアをノックした。
 ドアが薄く開いて、中から五十過ぎの女がこちらを覗いた。ドアチェーンがかかっている。
「突然申し訳ありません。週刊スカット編集部の桐原と申します」
 ドアの隙間から名刺を差し込む。母親がそれを受け取ってちらっと見た。
「おたくの記者さん、ついこの前ここに来たばかりよ」
「はい、その記者に宮崎さんのことを聞いて訪ねてきたんです。お時間は取らせません。取材に協力してもらえませんか?」
「もう話すことなんてないよ」
「そうおっしゃらずに」
 ドアの隙間の前に立って、手土産を見えるようにした。ドアが一度閉じ、チェーンを外す音が聞こえた後、再び開いた。
 つまらないものですけど、そう言って手土産を渡した。和菓子の詰め合わせだが、白い封筒に入った商品券も入れてある。これで彼女の口が少しでも軽くなれば儲けものだ。
「お嬢さんを殺した犯人が自殺したようです」
「そうみたいだねえ。朝からテレビで大騒ぎしてるじゃないか」
 手土産を床に置くと、玄関に立ったまま女が話し始めた。どうやら中に入れる気はないようだ。
「第一、真実を話す前に首をくくるなんて卑怯だよ。何のために自首したのかねえ。人騒がせな男だわ」
「自殺した東出明人についてどう思いますか」
「娘を殺されたんだ。そりゃ、恨んでいるに決まっている」
 しかし、生前の娘とは全く交流はなかったはずだ。子供に無関心な母親の典型。各社の取材協力費が目的で取材に応じてきたのは明らかだった。
「田島仁志氏の処刑を早めるように、裁判を起こされましたね」
 母親がじろりと奈緒美を見た。不愉快な話題を持ち出すんじゃないといいたそうな表情だった。
「いっておくけど、人違いは私のせいじゃないよ。判決が間違っていたんだ。裁判官だって田島という男が娘を殺したと思ってたんだから、あたしが間違ったって無理のない話じゃないか」
「はい、あなたのせいじゃありません。私が聞きたいのは、あなたが裁判を起こした理由なんです」
「いろんな記者さんに喋った通りだよ。娘が殺されたのに、殺した犯人がのうのうと生きているのが我慢ならなかったんだよ。死刑判決が出たら半年以内に刑を執行するよう、法律で決まってるじゃないか。それなのに、犯人をのうのうと生きながらえさせて、こんな理不尽な話があるもんかい」
 刑事訴訟法にそんな条文があることなど、この女が知っているはずはない。誰かがこの女に裁判を起こさせたのだ。東出明人は末期がん。天涯孤独で、働けなかったうえ、貧困のため健康保険料すら払えなかった。しかし、手厚い治療を受けていた。金はどこかから出ていた。経済的余裕があり、東出を助ける理由のある人物。そいつが黒幕だ。
「宮崎さんに裁判を起こすように言ったのは誰なんですか?」
 予想外の質問に、女の顔が突然強張った。
「知らないよ、そんなの。私が弁護士に頼んだんだ」
 そんなはずはない。それにこの女が訴訟費用など出せるはずはない
「この男に訴訟を起こすように頼まれたんじゃないですか。しかも、裁判の費用まで出してくれたのでは?」
 藤森俊夫の写真を見せた。女は写真を手に取ってしばらく眺めていたが、「知らないね」といって突き返してきた。
 口止め料を支払っているのか。それにしても、嘘を言っているようには見えない。これまで多くの人間相手に取材をしてきた。嘘をつく人間はすぐにわかる。
「誰に頼まれて訴訟を起こしたんです?」
「だから言っただろ。人に頼まれたんじゃない。自分から弁護士に頼んだんだよ!」
 母親が奈緒美の身体を玄関の外に押し出すと、持ってきた手土産の入った紙袋を突き返し、ドアを閉めた。
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