愚者の墓標に刻む詩

アーケロン

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七   死者の遺言

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 クラウンの車内から新聞社に連絡した。期待はしていなかったが、応対に出た社員が担当の記者につないでくれた。対応に出た女性記者に電話で取材をしたいと申し出ると、既に処理済みの件だからなのか、特に面倒がらずに了承してくれた。
「事件性は全くなかったですね。川に夜釣りに来ていて、誤って足を滑らせたようでした」
 岡島と名乗った女性記者が、はきはきした声で答えた。
「川で夜釣りですか?」
「あの辺りはウナギがよく釣れるらしいんです。最近はウナギも数が少なくなって高価だから、ウナギを狙う釣り人は多いんですよ。現場に残されたつり道具もウナギ釣りの仕掛けだったらしく、餌をつけた竿も落ちていたそうなんです。富樫さんが自宅近所の釣り具屋で餌を買っていたことも警察が確認しています。これまでも、富樫さんはよくあの辺りにウナギを釣りにいっていたようでした」
「では、完全に事故だと」
「警察では自殺の線も調べたらしいんですけど、その可能性はないみたいです。遺書などもなかったそうですし」
「自殺って?」
「この富樫という人物ですが、事故の少し前に強制わいせつ容疑で取り調べを受けていたらしんです。スナックの女にいきなり抱きついたとかで。本人は否定していたらしいんですけど。でも、会社では肩身の狭い思いをしていたはずですし、それを苦にしての自殺というケースも考えられたんです」
 強制わいせつ。心がざわついた。相手は海千山千のスナックの女だ。何かの意図が感じられる。
「その被害者の女性って誰だかわかりますか」
「もちろんわかりますが、それはお教えできません」
「そりゃ、そうですよね。じゃあ、富樫さんが事故に見せかけて殺されたとかって可能性についてはどうですか?」
「カルタックですね。それを調べているんでしょ?」
 こちらを探るような物言いだった。すんなりとカルタックの名前が出てくるところをみると、この岡島という女性記者もやはり関連を調べていたようだ。
「死んだ富樫さんの勤めていた会社とこの事故との関わりについて、岡島さんも何か調べておられたんですね」
「まあ、そうですね。でも、こちらの取材で得た情報はお教えできません。警察が発表したことでしたらお答えできますけど」
「お察しの通り、同じ会社の社員がたて続けに亡くなったということで、私は品川の猟奇殺人との関連について調査をしています」
「でも、富樫さんの死因に不審な点はないですし、品川の事件とも手口が全く異なることから、少なくとも同一犯とは考えられないと思います。警察の方でもそれ以上突っ込んだ捜査はしていないようです」
「例えば、カルタックに雇われた複数の殺し屋が、それぞれ富樫さんと但馬さんを手分けして殺したとは考えられませんか?」
 冗談とでも思ったのか、拓哉の言葉を聞いた岡島が笑った。
「ま、記事にするには面白そうなネタだと思いますが、カルタックが二人を殺す動機がありません。富樫さんの件は事故の可能性が高いのですが、警察の方でもきちんと捜査はしたみたいです。一度は事故死で片付いていたのに、後日県警がわざわざ警視庁に品川の事件の捜査資料の開示請求までしたみたいですから」
「警視庁でもカルタックと二人の死の関連について調べていたというころですね」
「ええ。これ以上の情報はお教えできませんが、結果はシロですね」
 確かにこの時点で富樫豊が殺されたという証拠は何もない。警察は起訴できない事件をいつまでも捜査はしないし、本当に事故死なのかも知れない。だが、富樫が死んだ二週間後に同じ会社に勤めていた但馬靖男が何者かによって殺されている。関連を疑わず、これをただの偶然だと片付ければ、康祐に笑われる。
 拓哉は岡島に礼を言って電話を切ると、クラウンのエンジンをかけた。

 高速道路に乗ると、四〇分ほどで市原インターについた。高速道路をおりて西に進むと、すぐに養老川の青い川面が目に飛び込んできた。
 三週間前に富樫豊が河岸で溺死体となって発見された。おそらくこの近くだろう。路肩に車を停めて窓を開ける。川は流れが速く、青黒かった。かなり水深がありそうだ。
 富樫豊の住んでいたアパートは、五井駅の近くにある二階建てのよくあるタイプの文化住宅だった。同じような建物が三棟並んでいる。階段の脇にアパートを管理している不動産事務所の番号が貼ってあったので、そこに電話して大家の番号を教えてくれというと、電話に出た年輩だと思われる男が、特にこちらを疑うことなく素直に教えてくれた。続けて大家に電話を入れると、長いベルの後、眠そうな男の声が聞こえてきた。事情を説明し取材したいのでそちらを訪ねていっていいかと訊くと、愛想のいい声でこちらからアパートに出向くから待っていてくれといわれた。
 クラウンの中でラジオを聞きながら待っていると、軽自動車が後ろからやってきてアパートの前で停まり、六十歳くらいの頭の薄い男が車から降りてきた。拓哉が車から降りると、 男は愛想よく笑って僅かに頭を下げた。
「こういうことがあると困るんだよなぁ」
 二階への階段を登りながら、次の借り手がなかなか見つからないといって大家がこぼしだした。
「部屋で死んだんじゃないんだから、関係ないんじゃないんですか?」
「でも、やっぱり借り手は嫌がるよ。この前見学に来た女の客が、部屋が恋しくて霊が戻ってくるかもしれないといって怖がっていたよ。全くばかげている」
 不満をこぼしながら、大家が部屋のドアを開けた。
 日当たりの悪い部屋だった。キッチンに、六畳の部屋がふたつ。小さな風呂とトイレ付き。広いとはいえないが、一人暮らしをするには十分だろう。
 大家が窓を開けた。窓から近所の子供がはしゃぐ声が聞こえてきた。
「富樫さんにはご兄弟や親戚はいなかったんですか?」
「息子がひとりいるよ。ずいぶん前に奥さんを亡くして男手ひとつで育てたようだけど、息子の方は父親を放っぽり出してフィリピンに住んでるらしい。父親に聞くと、息子は私の夢をかなえてくれているんだといっていたがね」
 手に着いた埃を払うと、彼は腰に手をあててゆっくり伸ばした。富樫豊は何か国ものアジアの言葉を話せると、新聞記事に書いてあったのを思い出した。
「話を聞きたいのですが、息子さんの住所はわかりますか?」
「さあな。入居申込書にもしもの場合の連絡先を書いてもらうことになってるんだけど、空欄だったし、今はどこにいるのかわからないね。父親が死んでからしばらくは空いた部屋を使って荷物の整理とかしていたようだけど、もしかしたら葬式だって挙げていないんじゃないかな。部屋を引き払うときにうちに挨拶に来たけど、これからどうするんだと聞いたら、父を弔うために旅に出るかもといっていた。お気楽なもんだ。また外国にでも行ったんじゃないのかな」
「息子さんは父親の死をどうやって知ったんです?」
「日本にいる知り合いから連絡があったって言ってたよ」
「知り合いって誰だかご存知ですか?」
 拓哉の質問に大家は「さあ」っと言って首をかしげた。
「富樫さんが普段どんな生活を送っていたか知りたいのですが、このアパートで富樫さんと親しい方はいらっしゃいますか?」
「さあね。親しいかどうかまでは知らないけど、隣に住んでいる善本さんとなら挨拶くらいはしているだろう」
 そういうと、大家が一人でさっさと玄関から出て行った。一人残された拓哉はこのまま待つべきか後を追うべきか考えていたが、しばらくして大家が隣の住人を連れてきてくれた。
 善本という男は、大家と同じくらいの六十過ぎの小柄な男だった。お互い一人暮らしということで、富樫豊とは顔を合わせば世間話をする程度の仲だったと善本が言った。
「富樫さんの事故死について少し調べているらしいよ」と大家がいうと、善本が好奇な目を拓哉に向けた。
「それで、少しお話を伺いたいのですが、このアパートの近くで怪しい人を見かけたことはありませんでしたか? 怪しい者がこのアパートの周りをうろついていたとか、富樫さんが誰かと揉めていたとか」
 拓哉の言葉を頷きながら聞いていた善本の目が光った。
「いたよ」善本は拓哉と大家の顔を交互に見た。「道路の前に怪しい車が止まっていて、中の男が二階を見上げているのを何回か見たよ。それに、アパートの廊下でやくざのような男とすれ違ったこともあってさ。この階には俺と富樫さんしかいないから、富樫さんに用があったのかなって思ってたんだよ」
「富樫さんは何かトラブルに巻き込まれていたんでしょうかね?」
「さあ」善本が首を捻った。
「富樫さんのことで他に何か気づいたことはありませんでしたか?」
「一度空き巣に入られたことがあったよ。先々月くらいだったかな」
「空き巣だって?」大家がそんな話は初めて聞くといった態度で善本を見た。
「平日の昼に富樫さんの部屋で物音がしていたんだ。仕事が休みかと思っていたんだけど、その日の夜、仕事帰りの富樫さんに階段で会ってさ。昼間の話をすると、慌てて部屋に駆け込んでいってね。俺も一緒に部屋に入ったんだけど、中がひどく荒されていたよ」
「そりゃ、知らなかったな」拓哉の横で大家が唸り声を上げた。
「それで、すぐに警察を呼んだんだ。富樫さん、銀行でおろしたばかりの三十万円が無くなってるっていって、泣きそうな顔で警察官に何とかしてくれってすがったんだ」
「そりゃ、そうだろ。なけなしの金を持っていかれちゃあな」大家が腕を組んで、さも気の毒そうに頷いた。
「ところがそうじゃなかったんだ。警察が帰ってから、あまりに気の毒だったので少しカンパしてやるよっていったら、さっきのは嘘だって言うんだ。そういわないと警察は真面目に犯人を探してくれないからっていってさ」
「じゃあ、特に被害は無かったわけですね」拓哉が慌てて訊いた。
「何も盗られなかったって言ってたね。まあ、結局犯人も見つからずじまいだったけど」
 こんなおんぼろアパートに空き巣なんか入る奴の気がしれねえや、と善本が冗談っぽくいった。大きなお世話だと言って大家が大笑いした。
「富樫さんは勤めていた会社の話とかしていませんでしたか?」
「外国から雑貨とかを輸入する会社に就職したばかりだって言ってたよ。なんでも、不況でそれまで働いていた会社をリストラされたらしいんだけど、なんとかその会社に潜り込めたんだって話していたから」
「そこで何かトラブルがあったとか言っていませんでしたか?」
 善本はかぶりを振った。「特に不満があるわけではなさそうだったけどな」
「富樫さんは釣りが趣味だと聞いたんですけど」
「釣りは好きみたいだったね。それほど大物を狙っているわけじゃなかったけど、俺もよく鯖やら鯵やらをもらったよ」
「亡くなった当日もすぐそこの川で夜釣りに出かけたんですよね。ウナギを釣りにいってたらしいんですけど」
「話は聞いたことはあるよ。ウナギのいるいい穴場を知っているって」
「その日、誰かに誘われたとかいっていませんでしたか?」
「さあ、知らないね。でも、夜釣りにいくときはだいたいが金曜日で、早めに仕事を切り上げて用意して出かけていたよ」
 つまり、カルタックの社員ならその日夜釣りにいくかどうかは富樫豊の退社時間でわかるわけか。但馬も富樫もカルタックの人間の手にかかった可能性も捨てきれない。康祐のことともつながっているかもしれない。
 拓哉は薄暗い部屋の中を見まわした。富樫豊はこの薄暗い部屋で何を想いながら暮らしていたのだろうか。

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