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昨日の雨空が嘘のような清々しい朝だった。休日の空は晴れ渡り、雲一つない。きっと日ごろの行いが良いからだ。窓から青い空を見上げて、愛美は心の中で呟いた。
朝からそわそわと落ち着かなかった。寮の部屋で机に座ってテキストをひろげても頭に入ってこない。
落ち着かないので、昼食を食べ終えてすぐに出掛ける準備を始めた。外出時にいつも携帯するポシェットに、ハンカチ、定期入れ、そして財布を入れる。その手をふと止める。財布を開け、中を確認する。札入れから三枚の紙を取りだした。それを手に取り、広げる。
最近売り出し中のロックバンド・モッブスのコンサートチケットだ。愛美はそれを大切そうに財布に戻し、その財布をポシェットへ入れた。愛美は、部屋の隅に置いてあるクローゼットのドアを開け、鏡に向かって服を選び始めた。
「楽しそうね」
ラフなトレーナー姿でベッドに寝転んで雑誌を読んでいたルームメイトの優希が、嬉しそうに微笑んでいる愛美を見て言った。
「でも、結構、緊張しているかも」
「そりゃそうでしょ。憧れの鵜飼君と久しぶりにデートなんだから」
「久しぶりって、私、鵜飼君とデートなんてしたことないわ」
「この前、イルカのペンダント買ってもらったんでしょ?」
「あれは、単なる成り行きでそうなったの。それに、今日は池澤君も一緒だし」
そう言いながら、クローゼットから取り出したブラウスやワンピースを身体に当てて服選びを続けた。
「玲からまだ連絡ないの?」
「連絡って?」
「まだならいい」
そう言って、優希は視線を雑誌に戻した。
白のブラウスに薄ピンクのキュロットを着て、鏡の中の自分をチェックする。背中を覆う黒く長い髪は、後ろに束ね、ピンで留める。
「いいよ、それ。愛美らしくって」
突然、ベッドの中から優希が褒める。
「そう? 砂浜での野外コンサートだから、どんな服装がいいのか解んなくって。動きやすくて、それでいて、上品なものにしたんだけど……」
「可愛いよ。それなら、鵜飼君の心もばっちり掴めるよ」
「そんなの無理よ」
愛美と優希は微笑み合っていた。
「思いっきり楽しんで来てね」
「うん」
その時、愛美の携帯がなった。玲からだった。
JR須磨駅に約束の時間より早く着いた愛美は、改札の前をうろうろしたり、砂浜に出たりと終始落ち着かなかった。
快速電車が駅に入り、改札口から人の流れが次々に吐き出される。
「あれ、櫻井さんもモッブスのコンサート?」
同じクラスの女子生徒に声をかけられ、ドキッとする。作り笑いを浮かべてクラスメートと挨拶を交わし、視線を改札口に戻すと、恭平が向こうから歩いてくるのが見えた。
「あ、鵜飼君」
恭平を見つけた愛美が手を上げた。
「あのね、さっき、玲から電話があって……」
「ああ、真司が謝ってたよ。ドタキャンしてごめんって。しょうがねえよな、あいつは」
『真司が急にいけなくなっちゃって……』
携帯の向こうで話す玲の声を聞き、愛美ははめられたことに気づいた。
「チケット一枚余っちまったな」
「いいのよ。どうせ、貰いものだし」
「でも、もったいないだろ。どこかで金に換えよう。会場の周りにチケット探してる奴いるだろうし」
二人は会場のゲートを目指した。恭平の横を歩いているだけなのに、愛美は緊張しっぱなしだった。手に握ったハンカチをぎゅっと握り締める。こんなに緊張して果たして今日一日神経がもつのかどうか心配になってきた。
ゲート近くできょろきょろしている中学生風の少女がいたので、恭平が声をかけた。
「三千円で売れた。定価の半額だといって、あの子も喜んでたよ」
「悪いわ。あのチケット貰いものだから、ただであげても良かったのに」
愛美は申し訳なさそうに恭平からお金を受け取った。
「でも、あの子、ダフ屋を探していたんだって。ダフ屋から買えばもっと吹っかけられるんだ。あんなに喜んでたんだからいいじゃねえか。その金で今度滝井と佐々木に何か奢ってやれよ」
恭平がそう言って笑った。
二人はゲートをくぐり、座席に着いた。須磨海水浴場の砂浜に作られた即席の野外会場。二人の席は、中央の前から四列目だった。Dと書いてある列ならどこを座ってもいいので、帰るときにすぐに出られるよう、ゲートに近いところに腰かけた。
「こんな良い席で見るのか? 舞台がすぐそこだよ」
恭平が嬉しそうに会場内を見渡した。後ろの席にさっきチケットを売った少女が座っていた。目が合ったので、恭平が軽く会釈をする。
「聴いたことのある曲ばかりだと思うよ」
「うん」
愛美が恭平を見て笑った。緊張がいつの間にか解けていた。空には厚い雲が覆い始めていた。雨が降るか心配だったが、日光が遮られているおかげで暑くなかった。心地よい浜風が肌を撫でる。
会場の席は徐々に埋まっていく。そして、始まった。
アーティストが舞台に立った途端、席に座っていた客達は、総立ちになり、会場が一気に興奮で包まれた。
「立たないと見えないよ」
恭平は愛美に声を掛け、腕を取った。愛美はドキッとしたが、そのまま立ち上がった。戸惑いながらも、周りの様子を見ながら、同じように手を挙げたり、拍子をしたりした。
恭平は愛美に気を配りながらも、ノリまくっていた。初めはぎこちなかった愛美も、いつの間にか周りと一体化していた。愛美は、自分の横で楽しそうにしている恭平を時々盗み見ては微笑んだ。
コンサートが終盤になっても、会場内はノリにノリまくっていた。いつの間にか、恭平は自分の世界に入っていた。愛美は、隣でノリまくる恭平を横目でみながら、そっと椅子に腰を掛ける。
子供みたい。こんな鵜飼君、初めて見るよ。
愛美は恭平を見つめながら、誘ってよかったと思った。
アンコールも終わり、舞台に幕が下りた。陽もだいぶ傾いてきていた。客達が、パラパラと出口に向かって歩き出す。
帰ろうかといって、恭平は愛美を見た。愛美は、嬉しそうに笑っていた。
「耳がキンキンしてるな」
「うん。私、静かなコンサートしか行ったことなくて」
「誘ってもらった俺が訊くのも変だけど、よかったか?」
「うん」
愛美は笑顔を返して席を立った。
会場を出た人の流れは、駅に向かっていた。このまま帰るのは惜しい気がしてきたが、恭平に何と話しかけていいか、愛美にはわからなかった。
「しばらく海でも見て帰るか」
不意に話しかけられ、愛美は顔を上げる。「今ホームに上がっても人が多そうだからな」
二人は駅に向かう人の流れから離れて砂浜に向かった。愛美は先を行く恭平の後を追って、ゆっくりと階段を上った。目の前に、一瞬にして、波の穏やかな大阪湾が左右の視界いっぱいに広がった。砂浜の遊歩道沿いに、海の方を向いてベンチが並んでいた。
「コンサートのお礼にジュースを買ってくるよ。そこに座って待っていてくれ」
恭平は駅の方に向かって走って行った。
「ふぅ……」
愛美はベンチに座って海を見た。吹き抜ける潮風がすがすがしい。砂浜に打ちつける波の音が涼しげだった。海水浴場の端にある防波堤の上に、釣り人が並んで海に糸を垂れている。夕暮れの近い砂浜にマットを敷き、寝そべっているカップルが何やら囁き合っているのが見える。その先の波打ち際には、高校生らしき少年が三人戯れていた。穏やかな白いしぶきをあげて、波が砂浜をならしている。水平線の上に貨物船が並んでいる。
愛美にとっては久しぶりに見る海だ。恭平と二人でこんな時間を過ごせるなんて思ってもみなかった。コンサートが始まる前の極度の緊張感はすっかり失せて、ゆったりとリラックスした時間が流れていた。
恭平が缶ジュースを二つ持って戻って来た。
「コーラでよかったか?」
愛美はありがとうと言って、恭平から缶を受け取った。
「海が見れてよかった」と愛美がはしゃいだ。「こうして明るく広い海を見ていると、細かいことはどうでもいいって思えちゃうから不思議」
「でも、もう夕方だぜ」
「いいの。私は夕方の海が見たかったの」
恭平はプルトップを引いてコーラを飲んだ。愛美が恭平の横顔を盗み見る。切れ長の二重の瞳にしゅっと通った鼻梁。素敵だと思う。じっとしていられなくなった愛美は、立ち上がって砂の上に立つと、「えいっ」と砂をけり、はずみでよろけた。
「砂だらけになるぞ」
「いいの、どうせ寮に帰ってから洗濯するし」
愛美は周囲を見回した。自分と同じ歳くらいの高校生のカップルがベンチに座って海を見ていた。彼らにも、きっと自分と恭平が仲の良いカップルに見えているに違いないと思うと、少し恥ずかしくなった。
上空は曇っていたが、東の雲の合間から夕日が射していた。愛美は穏やかな波音の響く砂の上に座って、オレンジ色に染まった東の空を見つめた。恭平が砂浜にやってきて、愛美の横に座った。
「本当に海見るのって、久しぶり。私、泳げないから、海水浴とか行かないの。最後に行ったのは中学一年の頃かな」
愛美はやさしい声で言った。
「磯の浦ってところ。サーフィンができる浜で有名なのよ。おじいちゃんの家が海岸のすぐ近くにあって、おじいちゃんがまだ生きている時は、よく海に連れて行ってもらったわ。それでね、浜で焚き火をするの。焚き火して、市場で買ってきた貝やお肉を焼いて食べるの。二人だけのバーベキュー。楽しかったな」
「今は行かないのか?」
「おじいちゃん、死んじゃったから。それに、家も売っちゃったし。三年ぐらい前かな」
「そうか。俺なんか、小さい頃、海に縁がなかった。実家が奈良の山ん中だったから」
「でも、鵜飼君、水泳得意なんでしょ」
愛美の言葉に恭平が笑った。
「別に海の傍じゃないと泳ぎが達者にならないってわけじゃないだろ。それに、近所の川でよく泳いだよ。兄貴と一緒に」
「そうか、お兄さんいたんだったわね。東大でしょ。すごいな」
「大したことないよ。大学なんて、どこ出たって同じさ。要はその後、何をやるかだ」
そう言って、恭平は海を見た。意志の強そうな、自分よりずっと大人びた同級生を見て、愛美は胸がきゅんと締めつけられるのを感じた。
「でも、やっぱりすごいよ。それに、鵜飼君も」
恭平がはにかんだように笑った。愛美は周りを見回した。いつの間にか、浜辺には誰もいなくなっていた。
愛美立ち上がって大きく伸びをした。
三宮に向かう電車の中はすし詰め状態だった。休日なのに、スーツを着込んだ乗客が多かった。多くの乗客が無表情だ。本を読んでいたり、ヘッドフォンで音楽を聴いていたりしている。目の前の席に座っている男性は髪が薄く、分厚い黒い鞄を抱えている。その隣の若い女性のミニスカートから出ていた腿が白くて眩しかった。
天井に中吊り広告がぎっしりと並んでいた。英会話学校、インターネットのプロバイダー、缶コーヒー、週刊誌の広告。「あなたの会社は大丈夫か?」という見出しが目に付く。
恭平が愛美をかばうように乗車口付近のステンレス棒を握り、腕を突っ張って、愛美との間に少し隙間を作っていた。そのスペースに収まって手すりをつかんでいる愛美は、自分が恭平に大切に守ってもらっているような感じがして、急に緊張してきた。
電車が速度を速めたり緩めたりする度に乗客が左右に流れ、恭平と密着してしまう。ずいぶん汗をかいたので、汗臭くないか心配になってきた。
電車が揺れて再び恭平と密着した。今度はなかなか離れない。シャツを通して恭平の逞しい筋肉を感じ、胸がキュンと締まった。
「混んでるなぁ」
恭平がうんざりしたような口調で呟いた。
「もうすぐ着くからな。気分悪くないか?」
「大丈夫」
愛美は赤い顔で俯いた。
電車が駅に着くと、人が溢れ出てホームを埋め尽くした。ふたりとも寮の夕食をキャンセルしていなかったので、このまま帰ることになった。恭平が駅前でタクシーを拾って愛美を乗せた。
「俺、歩いて帰るよ」
恭平がタクシー代だと言って、愛美にお金を持たせた。
「いいよ、自分で払うから」
そういって、返そうとしたが、恭平がタクシーから離れた時にドアが閉まった。タクシーが走り出し、恭平の姿が小さくなっていくのを振り返って見ていた。急に寂しくなって、目が潤んできた。
「どうだった?」
寮の部屋に戻ると、机で勉強をしていた優希がにこにこしながら訊いてきた。
「ありがとう。おかげで楽しかった」
愛美はわざと「おかげで」を強調した。
「何か進展あった?」
「あった、あった」
「えっ? キスとかしたの?」
「馬鹿」
風呂に入ってから、愛美は寮の食堂で優希と食事を取った。愛美は今日一日のことを優希に語った。二人でコンサートを聴き、海を見ながら語り合う。話を聞いていた優希は物足りなさそうだったが、愛美には十分すぎるほど充実した一日だった。
その夜、布団に入っても、目が冴えて眠れなかった。目を閉じると、あの恭平の優しい笑顔と、美しく輝く須磨の海が目に浮かんできた。眠ってしまうのが惜しかったが、明日は授業があるので、眠らなくてはならない。そう思って目を閉じるが、焦れば焦れほど目が冴えてくる。
「優希、起きてる?」
部屋を中央で仕切っているカーテンの向こうにいる優希にそっと声をかける。カーテンの向こうから規則正しい優希の寝息が聞こえてきた。どうやら熟睡しているようだ。一度寝ると、彼女は朝まで目を覚まさない。愛美は身体を丸めて布団の中に潜りこんだ。
眠れないから、仕方なくって。
一人でするとき、愛美は心の中でいつもこう言い訳をした。いつからなのか、大人の女へと変化して行く自分の身体を実感する度に、身体が甘く疼いてしまうようになっていた。
初めてしたのは去年の春だった。戸惑い、罪悪感に取り憑かれながらも、つい求めてしまう。
パジャマのボタンを外してそっと左手を差し込み、そっと右の乳房を包む。乳房を撫でながら乳首をつまんだり手のひらでそっと刺激するように撫でたりしていると、次第に身体の中心が熱くなっていく。
空いている右手をそっと下半身にもっていく。手をパジャマの中に入れて布の上からそっと指でなぞる。爪を軽くたてて引っかくようにすると、声が出そうになる。
布団に顔を押し付ける。ショーツに手を入れ、直接そこを刺激する。あっというまにそこは熱くなり、ぬるっとした感触が指に感じられてくる。
隣で寝ている優希に気づかれないよう、声を必死で我慢する。快感に思わず身体が捩れてしまい、ベッドが軋んでぎしりと音をたてる。その音が妙に大きく感じてしまい、どきりとする。
優希に勘繰られないよう注意しながら慰めの指を動かす。枕に顔を押しつけて、くぐもった声を吸収させる。
我慢できなくなってきて、指のピッチを早める。すぐに脳で快感がはじけそうになった。その瞬間、枕に顔をうずめて奥歯を噛み締める。快感が電流のように腰から背中に流れ、身体がびくんと震えた。一瞬、電車の中で触れた、恭平の逞しい筋肉の感触が脳裏に蘇った。
身体を襲った快楽の波が去ると、布団から顔を出し、大きく息をついた。布団の中に篭っていた空気が首元から漏れ出て、あたりに匂いが漂った。過呼吸のために身体が痺れて、足の指先の感覚がない。汗で額が少しべとついている。
けだるい心地よさに包まれながら、目を閉じた。自己嫌悪感はなかった。カーテンの向こうから優希の寝息が聞こえてくる。
鼓動が静まり、火照った身体が冷めていくにしたがい、睡魔がやってきた。ゆっくり意識が遠のいていくのを自覚しながら、愛美は静かに波打つ祖父の海を思い出した。
朝からそわそわと落ち着かなかった。寮の部屋で机に座ってテキストをひろげても頭に入ってこない。
落ち着かないので、昼食を食べ終えてすぐに出掛ける準備を始めた。外出時にいつも携帯するポシェットに、ハンカチ、定期入れ、そして財布を入れる。その手をふと止める。財布を開け、中を確認する。札入れから三枚の紙を取りだした。それを手に取り、広げる。
最近売り出し中のロックバンド・モッブスのコンサートチケットだ。愛美はそれを大切そうに財布に戻し、その財布をポシェットへ入れた。愛美は、部屋の隅に置いてあるクローゼットのドアを開け、鏡に向かって服を選び始めた。
「楽しそうね」
ラフなトレーナー姿でベッドに寝転んで雑誌を読んでいたルームメイトの優希が、嬉しそうに微笑んでいる愛美を見て言った。
「でも、結構、緊張しているかも」
「そりゃそうでしょ。憧れの鵜飼君と久しぶりにデートなんだから」
「久しぶりって、私、鵜飼君とデートなんてしたことないわ」
「この前、イルカのペンダント買ってもらったんでしょ?」
「あれは、単なる成り行きでそうなったの。それに、今日は池澤君も一緒だし」
そう言いながら、クローゼットから取り出したブラウスやワンピースを身体に当てて服選びを続けた。
「玲からまだ連絡ないの?」
「連絡って?」
「まだならいい」
そう言って、優希は視線を雑誌に戻した。
白のブラウスに薄ピンクのキュロットを着て、鏡の中の自分をチェックする。背中を覆う黒く長い髪は、後ろに束ね、ピンで留める。
「いいよ、それ。愛美らしくって」
突然、ベッドの中から優希が褒める。
「そう? 砂浜での野外コンサートだから、どんな服装がいいのか解んなくって。動きやすくて、それでいて、上品なものにしたんだけど……」
「可愛いよ。それなら、鵜飼君の心もばっちり掴めるよ」
「そんなの無理よ」
愛美と優希は微笑み合っていた。
「思いっきり楽しんで来てね」
「うん」
その時、愛美の携帯がなった。玲からだった。
JR須磨駅に約束の時間より早く着いた愛美は、改札の前をうろうろしたり、砂浜に出たりと終始落ち着かなかった。
快速電車が駅に入り、改札口から人の流れが次々に吐き出される。
「あれ、櫻井さんもモッブスのコンサート?」
同じクラスの女子生徒に声をかけられ、ドキッとする。作り笑いを浮かべてクラスメートと挨拶を交わし、視線を改札口に戻すと、恭平が向こうから歩いてくるのが見えた。
「あ、鵜飼君」
恭平を見つけた愛美が手を上げた。
「あのね、さっき、玲から電話があって……」
「ああ、真司が謝ってたよ。ドタキャンしてごめんって。しょうがねえよな、あいつは」
『真司が急にいけなくなっちゃって……』
携帯の向こうで話す玲の声を聞き、愛美ははめられたことに気づいた。
「チケット一枚余っちまったな」
「いいのよ。どうせ、貰いものだし」
「でも、もったいないだろ。どこかで金に換えよう。会場の周りにチケット探してる奴いるだろうし」
二人は会場のゲートを目指した。恭平の横を歩いているだけなのに、愛美は緊張しっぱなしだった。手に握ったハンカチをぎゅっと握り締める。こんなに緊張して果たして今日一日神経がもつのかどうか心配になってきた。
ゲート近くできょろきょろしている中学生風の少女がいたので、恭平が声をかけた。
「三千円で売れた。定価の半額だといって、あの子も喜んでたよ」
「悪いわ。あのチケット貰いものだから、ただであげても良かったのに」
愛美は申し訳なさそうに恭平からお金を受け取った。
「でも、あの子、ダフ屋を探していたんだって。ダフ屋から買えばもっと吹っかけられるんだ。あんなに喜んでたんだからいいじゃねえか。その金で今度滝井と佐々木に何か奢ってやれよ」
恭平がそう言って笑った。
二人はゲートをくぐり、座席に着いた。須磨海水浴場の砂浜に作られた即席の野外会場。二人の席は、中央の前から四列目だった。Dと書いてある列ならどこを座ってもいいので、帰るときにすぐに出られるよう、ゲートに近いところに腰かけた。
「こんな良い席で見るのか? 舞台がすぐそこだよ」
恭平が嬉しそうに会場内を見渡した。後ろの席にさっきチケットを売った少女が座っていた。目が合ったので、恭平が軽く会釈をする。
「聴いたことのある曲ばかりだと思うよ」
「うん」
愛美が恭平を見て笑った。緊張がいつの間にか解けていた。空には厚い雲が覆い始めていた。雨が降るか心配だったが、日光が遮られているおかげで暑くなかった。心地よい浜風が肌を撫でる。
会場の席は徐々に埋まっていく。そして、始まった。
アーティストが舞台に立った途端、席に座っていた客達は、総立ちになり、会場が一気に興奮で包まれた。
「立たないと見えないよ」
恭平は愛美に声を掛け、腕を取った。愛美はドキッとしたが、そのまま立ち上がった。戸惑いながらも、周りの様子を見ながら、同じように手を挙げたり、拍子をしたりした。
恭平は愛美に気を配りながらも、ノリまくっていた。初めはぎこちなかった愛美も、いつの間にか周りと一体化していた。愛美は、自分の横で楽しそうにしている恭平を時々盗み見ては微笑んだ。
コンサートが終盤になっても、会場内はノリにノリまくっていた。いつの間にか、恭平は自分の世界に入っていた。愛美は、隣でノリまくる恭平を横目でみながら、そっと椅子に腰を掛ける。
子供みたい。こんな鵜飼君、初めて見るよ。
愛美は恭平を見つめながら、誘ってよかったと思った。
アンコールも終わり、舞台に幕が下りた。陽もだいぶ傾いてきていた。客達が、パラパラと出口に向かって歩き出す。
帰ろうかといって、恭平は愛美を見た。愛美は、嬉しそうに笑っていた。
「耳がキンキンしてるな」
「うん。私、静かなコンサートしか行ったことなくて」
「誘ってもらった俺が訊くのも変だけど、よかったか?」
「うん」
愛美は笑顔を返して席を立った。
会場を出た人の流れは、駅に向かっていた。このまま帰るのは惜しい気がしてきたが、恭平に何と話しかけていいか、愛美にはわからなかった。
「しばらく海でも見て帰るか」
不意に話しかけられ、愛美は顔を上げる。「今ホームに上がっても人が多そうだからな」
二人は駅に向かう人の流れから離れて砂浜に向かった。愛美は先を行く恭平の後を追って、ゆっくりと階段を上った。目の前に、一瞬にして、波の穏やかな大阪湾が左右の視界いっぱいに広がった。砂浜の遊歩道沿いに、海の方を向いてベンチが並んでいた。
「コンサートのお礼にジュースを買ってくるよ。そこに座って待っていてくれ」
恭平は駅の方に向かって走って行った。
「ふぅ……」
愛美はベンチに座って海を見た。吹き抜ける潮風がすがすがしい。砂浜に打ちつける波の音が涼しげだった。海水浴場の端にある防波堤の上に、釣り人が並んで海に糸を垂れている。夕暮れの近い砂浜にマットを敷き、寝そべっているカップルが何やら囁き合っているのが見える。その先の波打ち際には、高校生らしき少年が三人戯れていた。穏やかな白いしぶきをあげて、波が砂浜をならしている。水平線の上に貨物船が並んでいる。
愛美にとっては久しぶりに見る海だ。恭平と二人でこんな時間を過ごせるなんて思ってもみなかった。コンサートが始まる前の極度の緊張感はすっかり失せて、ゆったりとリラックスした時間が流れていた。
恭平が缶ジュースを二つ持って戻って来た。
「コーラでよかったか?」
愛美はありがとうと言って、恭平から缶を受け取った。
「海が見れてよかった」と愛美がはしゃいだ。「こうして明るく広い海を見ていると、細かいことはどうでもいいって思えちゃうから不思議」
「でも、もう夕方だぜ」
「いいの。私は夕方の海が見たかったの」
恭平はプルトップを引いてコーラを飲んだ。愛美が恭平の横顔を盗み見る。切れ長の二重の瞳にしゅっと通った鼻梁。素敵だと思う。じっとしていられなくなった愛美は、立ち上がって砂の上に立つと、「えいっ」と砂をけり、はずみでよろけた。
「砂だらけになるぞ」
「いいの、どうせ寮に帰ってから洗濯するし」
愛美は周囲を見回した。自分と同じ歳くらいの高校生のカップルがベンチに座って海を見ていた。彼らにも、きっと自分と恭平が仲の良いカップルに見えているに違いないと思うと、少し恥ずかしくなった。
上空は曇っていたが、東の雲の合間から夕日が射していた。愛美は穏やかな波音の響く砂の上に座って、オレンジ色に染まった東の空を見つめた。恭平が砂浜にやってきて、愛美の横に座った。
「本当に海見るのって、久しぶり。私、泳げないから、海水浴とか行かないの。最後に行ったのは中学一年の頃かな」
愛美はやさしい声で言った。
「磯の浦ってところ。サーフィンができる浜で有名なのよ。おじいちゃんの家が海岸のすぐ近くにあって、おじいちゃんがまだ生きている時は、よく海に連れて行ってもらったわ。それでね、浜で焚き火をするの。焚き火して、市場で買ってきた貝やお肉を焼いて食べるの。二人だけのバーベキュー。楽しかったな」
「今は行かないのか?」
「おじいちゃん、死んじゃったから。それに、家も売っちゃったし。三年ぐらい前かな」
「そうか。俺なんか、小さい頃、海に縁がなかった。実家が奈良の山ん中だったから」
「でも、鵜飼君、水泳得意なんでしょ」
愛美の言葉に恭平が笑った。
「別に海の傍じゃないと泳ぎが達者にならないってわけじゃないだろ。それに、近所の川でよく泳いだよ。兄貴と一緒に」
「そうか、お兄さんいたんだったわね。東大でしょ。すごいな」
「大したことないよ。大学なんて、どこ出たって同じさ。要はその後、何をやるかだ」
そう言って、恭平は海を見た。意志の強そうな、自分よりずっと大人びた同級生を見て、愛美は胸がきゅんと締めつけられるのを感じた。
「でも、やっぱりすごいよ。それに、鵜飼君も」
恭平がはにかんだように笑った。愛美は周りを見回した。いつの間にか、浜辺には誰もいなくなっていた。
愛美立ち上がって大きく伸びをした。
三宮に向かう電車の中はすし詰め状態だった。休日なのに、スーツを着込んだ乗客が多かった。多くの乗客が無表情だ。本を読んでいたり、ヘッドフォンで音楽を聴いていたりしている。目の前の席に座っている男性は髪が薄く、分厚い黒い鞄を抱えている。その隣の若い女性のミニスカートから出ていた腿が白くて眩しかった。
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電車が速度を速めたり緩めたりする度に乗客が左右に流れ、恭平と密着してしまう。ずいぶん汗をかいたので、汗臭くないか心配になってきた。
電車が揺れて再び恭平と密着した。今度はなかなか離れない。シャツを通して恭平の逞しい筋肉を感じ、胸がキュンと締まった。
「混んでるなぁ」
恭平がうんざりしたような口調で呟いた。
「もうすぐ着くからな。気分悪くないか?」
「大丈夫」
愛美は赤い顔で俯いた。
電車が駅に着くと、人が溢れ出てホームを埋め尽くした。ふたりとも寮の夕食をキャンセルしていなかったので、このまま帰ることになった。恭平が駅前でタクシーを拾って愛美を乗せた。
「俺、歩いて帰るよ」
恭平がタクシー代だと言って、愛美にお金を持たせた。
「いいよ、自分で払うから」
そういって、返そうとしたが、恭平がタクシーから離れた時にドアが閉まった。タクシーが走り出し、恭平の姿が小さくなっていくのを振り返って見ていた。急に寂しくなって、目が潤んできた。
「どうだった?」
寮の部屋に戻ると、机で勉強をしていた優希がにこにこしながら訊いてきた。
「ありがとう。おかげで楽しかった」
愛美はわざと「おかげで」を強調した。
「何か進展あった?」
「あった、あった」
「えっ? キスとかしたの?」
「馬鹿」
風呂に入ってから、愛美は寮の食堂で優希と食事を取った。愛美は今日一日のことを優希に語った。二人でコンサートを聴き、海を見ながら語り合う。話を聞いていた優希は物足りなさそうだったが、愛美には十分すぎるほど充実した一日だった。
その夜、布団に入っても、目が冴えて眠れなかった。目を閉じると、あの恭平の優しい笑顔と、美しく輝く須磨の海が目に浮かんできた。眠ってしまうのが惜しかったが、明日は授業があるので、眠らなくてはならない。そう思って目を閉じるが、焦れば焦れほど目が冴えてくる。
「優希、起きてる?」
部屋を中央で仕切っているカーテンの向こうにいる優希にそっと声をかける。カーテンの向こうから規則正しい優希の寝息が聞こえてきた。どうやら熟睡しているようだ。一度寝ると、彼女は朝まで目を覚まさない。愛美は身体を丸めて布団の中に潜りこんだ。
眠れないから、仕方なくって。
一人でするとき、愛美は心の中でいつもこう言い訳をした。いつからなのか、大人の女へと変化して行く自分の身体を実感する度に、身体が甘く疼いてしまうようになっていた。
初めてしたのは去年の春だった。戸惑い、罪悪感に取り憑かれながらも、つい求めてしまう。
パジャマのボタンを外してそっと左手を差し込み、そっと右の乳房を包む。乳房を撫でながら乳首をつまんだり手のひらでそっと刺激するように撫でたりしていると、次第に身体の中心が熱くなっていく。
空いている右手をそっと下半身にもっていく。手をパジャマの中に入れて布の上からそっと指でなぞる。爪を軽くたてて引っかくようにすると、声が出そうになる。
布団に顔を押し付ける。ショーツに手を入れ、直接そこを刺激する。あっというまにそこは熱くなり、ぬるっとした感触が指に感じられてくる。
隣で寝ている優希に気づかれないよう、声を必死で我慢する。快感に思わず身体が捩れてしまい、ベッドが軋んでぎしりと音をたてる。その音が妙に大きく感じてしまい、どきりとする。
優希に勘繰られないよう注意しながら慰めの指を動かす。枕に顔を押しつけて、くぐもった声を吸収させる。
我慢できなくなってきて、指のピッチを早める。すぐに脳で快感がはじけそうになった。その瞬間、枕に顔をうずめて奥歯を噛み締める。快感が電流のように腰から背中に流れ、身体がびくんと震えた。一瞬、電車の中で触れた、恭平の逞しい筋肉の感触が脳裏に蘇った。
身体を襲った快楽の波が去ると、布団から顔を出し、大きく息をついた。布団の中に篭っていた空気が首元から漏れ出て、あたりに匂いが漂った。過呼吸のために身体が痺れて、足の指先の感覚がない。汗で額が少しべとついている。
けだるい心地よさに包まれながら、目を閉じた。自己嫌悪感はなかった。カーテンの向こうから優希の寝息が聞こえてくる。
鼓動が静まり、火照った身体が冷めていくにしたがい、睡魔がやってきた。ゆっくり意識が遠のいていくのを自覚しながら、愛美は静かに波打つ祖父の海を思い出した。
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「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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