幻のスロー

道端之小石

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孵化の刻

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 白球が青々とした空に弧を描く。それを振り返りながら見上げたのは純だった。ホームランではないが今日8回目の出来事だ。 

(コントロールも球威も変化球のキレもいつもと変わりはなかったはずだ)

 純はマウンドの上でボールの行方を見届け軽く舌打ちをした。純はそこそこ打たれようともほとんど調子を崩さない。プライドが無いわけではない、むしろ純は自分の投球に人一倍誇りを持っている。
 だからこそ自分のミスでピンチに陥ることや自分が乱れることによって打たれることこそが許せないことなのだ。

 自分の最高の球が撃たれたのならば仕方がない、その時は他のピッチャーでも撃たれるだろう、そのバッターの実力が素晴らしいものだった、と純は考えることにしている。自分への言い訳とも言うがそれで心の平静を保っていた。もちろん言い訳しつつもリベンジに燃える心も持っている。

 だが被安打数8というのは彼にとってとても大きい数字だ。失点こそしていないものの7イニングを投げても今までなら多くても2安打3安打程度だったのが急に倍以上にまで上がっているのだ。
 若干自分への言い訳が苦しいが故に、純は今『自分がブレていないこと』それを再確認することで落ち着こうとしていた。それでも多少気が滅入っている。

 内心はイライラ感であったり、打たれたことの悔しさであったり、反省であったりと色々な感情が渦巻いてごちゃ混ぜの状態だ。それでも純は顔にも投球にもその様子はまるで出さなかった。

 その様子をベンチから将也が苦笑いしながらその様子を見ていた。その理由は至って簡単なこと。

(随分とヌルい球投げてんなぁ。いや、コースはエグいが。あれを見た後じゃなぁ)

 2週間前から純は余力を残こさないような全力の投球を行っていた。コントロールは少し悪くなるが球速は今までより5キロほど早くなっており、変化球はもはや別物と言えるようなもののようなものである。その練習に将也達は飛び込んでおり純は嫌そうな顔をしながらも球を投げ込んでいた。

 故に今の純の投球は気が抜けたもののように見えた。将也はヘルメットを被り、バッターボックスへゆったりとした足取りで近づいていく。今日は純のキャッチャーではない。バッターとして対峙する。

(それが試合になったらこれだからなぁ。十分抑えれてる事とは言え、な)

 純はあまりに変わらなさすぎた。自分の野球に関しては完璧主義なのだろう。そのせいか、練習の時より試合の時の方が全体的に小さくまとまっている。頭が変に硬いのだ。

 とはいえ今の純の投球は高校球児として既に相当高い領域にある。他校であればエースを張れる程度の実力はあるだろう。しかし、彼らにはそれが少し物足りなくなっていた。
 何度もその球筋を見ていたことに加え、その一段上の領域の投球を見て体感した彼らの実力は相当に高くなっていた、純の球をまぐれではなく実力で2割6分近く捉える程度には。

 その彼らというのはもちろん秋山や隅田だけではない。鎌瀬達の2年生や、一ノ瀬ら1年生のレベルも一部の天才達に引っ張られるように引き上げられていった。だから純の球が見える者が増えている。バットを当てる者が増えている。
 食中毒と言うアクシデントに見舞われたからこそ、それを挽回する為に。そうでなくとも彼らの士気、やる気は元々高かった。
 それに加えて、ほぼ確定している噂として流れているのが『選抜高等野球大会に出場する事が決まっている』というもの。春の甲子園とも呼ばれるそれは彼らのモチベーションを保つのに十分すぎるもので、さらに部員達の熱意に拍車をかけるものとなった。

 ただ1人、足踏みをしているのは純だけだった。

「よっこらせっと、じゃあ打たせてもらおうかな?」

 打席に立った将也はスゥーと息を吐いた。十分リラックスした状態に加え程よい緊張感が将也の集中力を大きく高める。岡部将也と言う人物は初めてゾーンと呼ばれる極度の集中状態に深く深く入った。

 彼もまた天才の1人。その日、その才能が開花した。

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 何度も見ていた。何度も捕ってきた。ただ、立つ場所が違うだけでこうも見えないものか。どうして見えないのかずっと考えていた。未だ、理由はわからない。理由はわからないが今日、やっと見えた。

 小学校の時からずっと追いかけてきた。あいつは覚えてないかもしれないけど、ずっと引っ張られてきた。ずっと悩んでいた、『お前はずっとあいつの後ろを追いかけるのか』と。でも最近、ようやく気づいたんだ。
 ずっとお前の背中ばかり見ていたから、お前の見ているものが見えないんだって。だから、今日からお前の隣に立つよ。

 でもやっぱり純の球は冴えてる。コースはバッチリストライクゾーンの隅だし変化球もキレてる。2球見送ったけど手が出せそうになかった。3球目は、きっとストライクゾーンで勝負してくる。

 1球目はインハイ高めの普通のストレート。2球目はストライクゾーンギリギリのイン側低めに落ちる高速シンカー。

 3投目。チラッとキャッチャーの一ノ瀬を見る。いつもとおんなじ感じだ。何か特別なサインを出した感じもない。守備陣の位置もいつも通り。ランナーは2塁。カウントは2ストライク、2アウト。

 俺だったら次は何を投げさせる。考えろ。まず、純の武器は抜群のコントロールと豊富な変化球による選択肢の多さだ。配球は今は一ノ瀬がやってる感じだったな。
 一ノ瀬は緩急よりコース分けで打ち取ることが多い。遅い球を待ってるように振る舞ったから3球目も速球でくるはず。だからチェンジアップとカーブと低速シンカーは捨てよう。
 で今はイン側に意識をよらせてるからスライダーかな? いやアウトローにジャイロを投げさせても十分振り遅れを狙えるな。でもこれはファールになりやすいな。純が嫌いそうだ。でも首を横には振らないからわからないな。
 結局のところどれだけ考えたって選択肢が多すぎて択が絞りきれなかった。ま、なるようになるだろ。

 純が足を上げた。……来る。クイックが早い。大丈夫、構えはしっかり出来てる。よく見ろ、指先を、リリースポイントを、目線を、ボールを。

 その瞬間、手元にボールが止まって見えた。光、音、全てが遠のいて俺とボールだけがその世界にはあった。
 ティーバッティングは死ぬほどやってきた自信がある。練習通りに、いつも通りに。バットを振るう。
 光が戻ってきた。ボールが2つに見える。一つは純の手から離れてゆっくり動いている。もう一つは手元で止まっている。
 
手元に止まっていたボールと動いていたボールが寸分違わず重なり合った。

 そこから先は一瞬のことで覚えていない。手に残る心地のいい痺れだけがそれが現実だと教えてくれる。ただ飛んでいく白球を目で追っていた。心のどこかに確信があった。『あれは入る』と。ベースを回ってベンチに戻るまで夢心地だった。

 ホームランは今までに何回も打ってきている。だが、純がホームランを打たれるのはこれが初めてではないだろうか。
 そう思うと妙に飛び上がりたいような、叫びたいようなそんな高揚感を感じた。今までに感じたことのない快感を、達成感に身を震わせた。

 この感覚をより高いレベルで、多くの人の前で体感することができるのなら、それはどれほどの快感だろうか。それを考えた時、プロ野球選手になりたいと、初めて強く願った。

 純がこちらを見ている。純は何故か笑っていた。何故だろう。

 よく純の考えていることがわからなくなる。ベンチに戻り次のバッターとすれ違うがなんか注意しておいた方がいいかもしれない。だが俺は何も言わなかった。
 純が崩れることはない、言い換えるのならば変わることがないと俺には確信があった。純のことを信頼しているからこそわかる。ただ、今のあいつ、なんかちょっとおかしいぞ? 本当にどうしたんだ?

 その1投目。球が見えなかった。いや、見えてはいるが球が加速したように見えた。球はストライクゾーンど真ん中……コントロールが雑だ。というか練習の時よりまだ上があるってどう言うことだ?

 というか投球スタイルが思いっきり変わっているんだが?

 『力の光希、技の純、変態の新野だなハハ』って寒いことをコーチが言ってたけど今マウンドに立ってるのは誰? 見るからに力の伊藤じゃん。明らかに『全力を持ってねじ伏せる』と言う強い意志を感じるんだけど。

 いや、待て。よく考えればわかるはずだ。純は投球のことに関しては完璧主義に近いところがあるのは知ってる。それで基本的に努力を人に見せたくないタイプってのも知ってる。
 もしかしてあいつ、始めてのホームランで結構傷ついて自棄ヤケになってね?『コントロールまだ甘いし恥ずかしいなぁ』とか思って出してなかったレベルの力で投げてるんじゃね? 何か振り切れちゃったんじゃね?
 
 2投目も力押しジャイロ。あれは打てない自信がある。左に立っても右に立ってもあれはきつい。だって普通に早いし、ジャイロだから変なノビ方するし無理。
 3投目はスライダー。外側いっぱいから内側に抉り込んでくるエグい変化をした。端的に言えば気持ち悪い程曲がった。キレはそんなにだったが変化量が頭おかしい。曲がれば曲がるだけいいってもんじゃねーぞ。

 さて、純の様子が少し気になるけどこれでスリーアウトだし、さっさと準備しないとな。いつも通りのキャッチャー装備一式を身につけてベンチから立ち上がった。


 バッティングのあの爽やかな快感もいいけど、バッターを掌の上でコロコロする愉悦はやっぱり捨てがたいと改めて感じた。

 ところでさ龍宮院君よぉ。純が出来るんだからさ、狙ったコースに投げるくらい普通に出来るでしょ? 別に球速とか変化量とかまでコントロールしろなんて言ってないよ。ボール半個レベルのコントロールを要求してるわけじゃないから、ね?
 ボール2つ分くらいの誤差に抑えて欲しいって言ってるだけなんだからさ出来るでしょ?

 うーん、また組み立て直しだなぁ。いや、無理を言ったつもりはなかったんだけどなぁ。どこかで出来るんじゃないかなぁって思ってたんだけどそう上手くはいかないか……。
 一回、打たれるとそのあと急激に弱くなるのどうにかならないかなぁ。光希ならパワーアップするのに、いやパワーアップした分コントロールがどこかに飛んで行くからそれはそれで困るんだけど。

 「あードンマイ」

 次のサインを送ると龍宮院がギョッとした表情でこっちを見つめ返してきた。そういえば今日は右側に投げるスライダーが調子悪いんだっけ? 
 いや、調子悪いって言ってもいつもよりボールの落ち具合が悪いとかコントロールがボール1個程度ズレるとかストレートの回転数がちょっと少ないとかでしょ。大丈夫大丈夫。


 全然大丈夫じゃなかったわ。
 一ノ瀬、お前……何で龍宮院と組んで優勝出来てるの?

「あの、先輩。いいですか」
「え?何?」
「めっちゃ、投げづらいんですけど」

 いや、それを言われてもなぁ。こっちもめっちゃ配球組みづらいんだけどなぁ。

「あーごめん。気をつける。どこら辺がダメだった?」

 なるべく嫌味っぽくならないように、威嚇してない感じで話しかける。なにかの役に立てれるかもしれない意見が出るかもしれないしな。
 そうじゃなくても周りからの風当たりが強くなるのはごめんだしね。

「えっと……俺は機械じゃないんですけど」
「そりゃ、そうでしょ?」

 そりゃあ、どこからどう見ても人間ですけど。

「ピッチングマシンか何かと勘違いしてません?」
「いや、そんなわけないだろ」

 変化球が複数出せるピッチングマシンなんて触ったことないし。ゲーム気分っていうのが一番近い感覚だと思う。

「そんなわけあります。ボール2つ分の誤差でいいよ、じゃないですよ。18メートルも離れてるんですよ?」
「……?そうだな? 18メートル離れてるな?」

 それだったら二盗を刺す方が難しそうだな。

「本当に分かってます?単純に考えても投げる角度が1度違うだけでキャッチャーに行く頃には30センチはズレができるんですよ」
「へぇー。気にしたことなかったけど凄いな」
「ボールの大きさが大体7.4センチですから、ボール1個分の制御っていうのは単純に考えただけでも0.2度レベルの繊細なコントロールが必要なんです」

 さっきから単純に単純にってうるさいな。

「純はボール半個レベルでコントロール出来るしなぁ。ボール2個分ってその4分の1の精度だぞ?4分の1くらいのコントロール力はあるだろ」
「待って、その考え方はおかしい」
「いや、おかしくないだろ。銃の精度を測るのにMOAって言う規格もあるし、今のはそれと似た考え方だからな」
「そんな銃の精度の話されてもよくわからないんですけど、無理なものは無理ですよ」

 えー、こいつめんどくさくない? 一ノ瀬助けて……あ、あいつ無視しやがった! 負けると龍宮院はめんどくさいって知ってやがったな?!

「それでですねさっきは単純に角度だけを問題にしてましたけどピッチングには角度以外にも回転数とか回転の向きとか様々な要素が絡む繊細な技術なんです。大変なんですよ」
「あー、知ってる知ってる。純が回転量と軸が大事だって言ってたな」

 あとは怪我しないことが大事くらいしか言ってたな。当たり前のことだけど大事なことだ。

「それが難しいんですよ。投球ってのは繊細なんです」
「成程、ガラス細工の心の持ち主ってわけだ。うちのピッチャーの心臓には毛が生えてるんだけどな」

 光希は満塁の時でも高めにストレートぶち込むからな。あれはなかなか凄い。新野は失投しても『てへぺろ』で済ませようとしてくるし、純は打たれると『今のはお前のリードが悪い』って言ってくるしな……俺って結構頑張ってるよな。あ、純の場合は俺が悪いこと多いかも。偶に理不尽だけど。

「……心臓に毛が生えてなくてすいませんね」
「もうちょっとどうにかならない?打たれると日和っちゃうの良くないよ。そのせいで更に打たれるハメになるしな」

 現に今日はボコボコに連打されていた。それで負けるとグチグチ愚痴を撒き散らすって……一ノ瀬、お前も苦労したんだな。ちなみに今の龍宮院は何というか……ダメだな。ムスッとしてる。小6かな?

「そんなことを言われてもランナー背負った状態でキツいコースにドンピシャで決めるなんて難しいですよ」
「それを決めるのがピッチャーでエースだろ。純ならやるぞ」

 もちろん光希と新野もやる。あいつらなら確実にやれる。成功する保証はないが際どいところを全力で狙おうとするだろう。龍宮院は日和ってコースが甘くなったり球威が落ちたりするから、そこだけどうにかならないか。
あと言い訳するのも良くないぞー。純なら言い訳しないのにな。

「……また伊藤先輩ですか。伊藤先輩なら伊藤先輩ならって、あの人基準で考えないでください」
「……えぇ?」

 今、怒る場所あった? おかしいこと何も言ってなくね?

「いいですか先輩。伊藤先輩はサイボーグです。人間じゃありません」
「あー。うん、なるほど」

 何故か、スッとその言葉には納得できた。

「あの人の動きの精密さはおかしいレベルです。いいですか? 普通、無理です。調子が狂わないのもサイボーグだからです。普通の人間に要求していいスペックじゃありません」
「あーなんだろ。それにはめっちゃ納得したわ」
「だから先輩の要求は無茶苦茶なんですよ。分かります?」

 納得した。え、何。じゃあ俺って松野とか新野にも龍宮院と同じこと思われてるの?


 聞いてみた。

「投げにくいってことはないよ。将也はどこ投げても取ってくれるから安心して投げれる。他の人だと取れないことがあるんだよね」
「今更? 俺のフォークを逸らさない時点で十分だと思うけど」

 なんだろう、リード能力じゃなくて捕球能力を評価して論点ずらすのやめて貰えませんかね。というかよく考えたらこいつらはあまりこっちのサインを聞かないんだよな。コースどころか偶に球種まで違うからな。

 結論としては、純がサイボーグなのには納得したがやっぱり龍宮院もおかしいんじゃないか、というところに行き着いた。龍宮院はメンタルクソザコすぎて心配になるなぁ。

────────────────────────────

 校内戦が終わってから純は真顔で不貞腐れていた。冷えたスポーツドリンクを一口飲んで階段に腰を下ろした。

(あー、最悪だ。やっぱりホームラン打たれるのはなかなかクルな。マジでなんなんだよもう。ストライクギリギリの完璧な球だったろ絶対。……はー、マジ凹むわー。あれ打たれるとか意味わかんねぇ)

 火照った純の体を冬の風が冷ましていく。ジャージの前を開けて軽く服の中に風を取り込んでいると将也が前から近づいてきた。

「なぁなぁ、調子はどうだ?」

(ん?将也か。あれは完璧にやられたな。見事だった。クソッタレ)

「ま、普通ってとこだな」
「あれ?思ってたのと違う反応」

将也は純の隣に腰掛けた。

「普通にホームラン打たれたな。あれは見事としか言いようがない。ま、次は打たせないけどな」

(その為にも練習、だな)

「で、あれは何? リミッター外した?  オーバーロードした?」
「単純にコントロールもできない全力でぶん投げただけだな」
「ねじ伏せてやるー!ってな感じか」

 将也が顔芸をしながら言ったものだから純は軽く頬を引き攣らせた。

「まぁ、そんな感じ」
「力の伊藤、技の純、2人合わせて力技の伊藤純ってな感じだな」
「なにそれ、クソダセェ。意味わかんないし」

 力技の伊藤純という字面にふっと声を出して純は笑った。

「それはコーチに言ってあげて」
「御免被る」
「俺もやだね」

 ここで会話が一旦途切れる。自主練中の隅田達を眺めながらスポーツドリンクをもう一口飲むと将也が立ち上がった。

「明日からどうする?」

 その目は真っ直ぐ純のことを見ていた。

「全力で投げても今レベルのコントロール可能にすることが目標だな」
「なんだよ、結構元気じゃん」
「何で心配してるの?」
「俺に被本塁打童貞奪われちゃってショックじゃないかなーって思って」
「ホームラン打たれたぐらいで凹むかよ」

 嘘である。めっちゃ凹んでいた。ついでに言うと文句も垂れ流していた。

「ま、それもそうか。俺はちょっと用事あるから帰るわ」
「おう」
「あ、アイフェスのライブCDあるけど持ってる?」
「勿論だ」
「初期版限定映像付きだけど」
「是非借りたい」
「いいぞ」

 アニメキャラが印刷されたTシャツが純の胸元で激しく存在感を放っていた。

「どころでさ、純は音を何で聞いてるの?」
「スピーカーかイヤホンだけど」
「何円くらいのやつ使ってる?」
「大体1000とか4000円のやつだけど」
「あーそっかー……それだとねぇ、アイフェスを真の意味で堪能は出来ないんだよね」

 わかってないなぁ、と言わんばかりの表情を将也がする。非常にむかつく顔である。

「別にそんなに変わらないだろ」
「それが変わるんだなぁ、試しに20000円くらいのイヤホン買ってみなよ」
「いや、試しにってレベルじゃないだろそれ」
「じゃあ8000円くらいから始めてみよう?どうせすぐに20000とか50000の物に手を出すから高いやつ買った方がいいぞー。全然音の数と質が違うからな」
「まぁそこまで言うなら。8000円くらいでおすすめどれ?」
「あぁ、それならね……」

 後日、純は見事なまでに音響沼にハマっていた。

「うわ、やべぇ!すげぇ!」
「ちょっと、煩いんだけど……ってそれ」
「おおぉぉ……ん? 奏か。これ、いいぞ」
「え、それって……うわっやっぱり。え、しかも最新モデル? 何で二桁万円のヘッドホンとアンプ買ってるの……?」

 純は一瞬で金欠になった。貯金は残り1万円程度しかない。しかし、純は後悔も反省もしていなかった。

「これは、あぁ、これいい。最高だぁ」

 金欠になっても問題ない。見たいDVDは大抵将也が持ってるから借りればいいし、曲のデータも大体将也に任せておけばハズレはない。

 だから、何も問題ないのである。
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