リオの偽筆と真っ赤な真実

谷 亜里砂

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第17話:距離への急襲

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 夕暮れ時の宮は、藍色と茜色が混ざり合う複雑な色彩に沈んでいた。宮の裏手の通用門をくぐり、重い戸を閉め、零の位様の屋敷へと急ぐ。裏口をそっと開けると、中から鋭い目に睨まれた。



「信じられないわ……本当だったのね」



 氷のように冷たい声に、リオはびくりと肩を跳ね、足を止めた。



 現れたのは、腕組みをして仁王立ちしている初老の女性だった。零の位様の側付きであり、宮内の規律に誰よりも厳しいことで知られる人物だ。



「側付き様……」



 リオの声が震える。



 無断外出だ。しかも、この国の守り神とも言える最高位の巫女を、護衛もつけずに下界へ連れ出し、危険に晒した。これは追放どころか、投獄されても文句の言えない重罪だ。



「これは、その……」



「言い訳は無用よ」



 彼女はリオの言葉を遮り、冷徹な眼光で射抜いた。



「零の位様をこのような格好で連れ回すなど、言語道断です。もしお怪我でもされたら、あなたの首一つでは贖えなくてよ」



 側付きの視線が、零の位様の着物を舐めるように走る。裾についた煤汚れ、ほのかに漂う草いきれ、そして焦げた獣の臭い。



 しかし零の位様は優雅に、悪びれる様子もなく微笑んだ。先ほど冷たい風に吹かれたときの狼狽ぶりが嘘のように、いつもの平静さを取り戻していた。



「あら、大袈裟ね」



「零の位様! いけません、このような……。何かあったらどうなさるおつもりですか。我々の寿命を縮めるおつもりですか! こんな、零の位様の側付きですらない者に、何が任せられるというのです!」



 その声には怒りと、それ以上に悲痛なまでの心配がありありと表れていた。それでも、零の位様は涼しい顔で、微塵の動揺も見せず、花が咲くように微笑む。



「何もなかったわ。ただ、庭の奥で『村人ごっこ』をしていただけよ。リオに物語の取材を手伝ってもらっていたの」



「村人ごっこ……ですか? しかし、妙な焦げ臭いがしますが」



「ああ、焼き芋をしたのよ。失敗して焦がしてしまったけれど。ねえ、リオ?」



 つい先ほど、六頭もの狼を生きたまま焼き殺した人物とは思えないほど、その瞳は澄んでいた。呼吸一つも乱れがない。



 不意に話を振られ、リオは裏返った声で答えた。



「はい! ええ、芋を私が焦がしてしまって……」



 慌てて話を取り繕う。側付きは不服そうに唇を引き結んだ。



「……零の位様がそう仰るなら。ですがリオ、あなたは三の位様の側付きでしょう。本来の主を放っておくなど、いかがなものかと」



 吐き捨てるような言葉を残し、側付きは零の位様を引き入れ、足音高く去っていった。リオは震える膝を無理やり動かして、カトラの屋敷へ戻った。気付けば、冷や汗で背中がびっしょりと濡れている。



 温泉に沈んで身を清めながら、夕食の時間にでも、カトラに今日の話を聞いてもらおう、何と言われるだろうかと考える。零の位様を危険にさらしたと知ったら、さすがに怒るだろうか。



 すると、伝達係がリオを呼びにやってきた。零の位様が、今日中にまた屋敷へ来てほしいと言っているという。



 あたりはすっかり暗くなっていたが、リオは吊るされた灯篭でぼんやりと足元を照らしながら、春のように暖かい屋敷へ足を踏み入れた。



 零の位様は、くすくすと楽しそうに笑っていた。



「ごめんなさいね、一日に何度も。でも、あんなに怒らなくてもいいのにねえ。焼き芋、本当にしてみたかったわ」



 その無邪気な様子を見ると、やはり零の位様は、咄嗟の機転で自分を庇い、嘘をついてくれたのだと思い直す。それに、不手際を責めることもない上、守ってくれた。



 やはり、零の位様は味方だ。狼を焼き殺すほどの恐ろしい力も、人を守るためのものだ。それに、冷たい風があんなに苦手だと知っていたら、もっと上手く立ち回ってあげられたのに。



「どうしたのですか?」



 リオはほぐれた心で、要件を尋ねた。零の位様は、意味ありげにリオをじっと見る。



「あのね、ほら、さっき『側付きですらない』と言われたでしょう」



「いえ、今日のことでしたら、私がお止めするべきでした。私の責任です」



 謝るリオに、零の位様は唐突な提案を投げかけた。



「ねえ、リオ。いっそ、わたくしの側付きになってしまえばいいのよ。そうしない?」



「……え?」



「そうすれば、文句を言われる筋合いもなくなるわ。堂々とわたくしのそばにいられるでしょう?」



 冗談だと思って笑いかけようとしたが、灯りに照らされた零の位様の瞳は、吸い込まれるように真剣だった。



「あの、それは……困ります。私はカトラの、三の位様の側付きですので」



 リオは困惑しながら答えた。



「カトラとは、ずっと一緒にやってきたんです。色々と面倒を見てくれて、一緒に試験を受けて、ここまで来ました。彼女の稲が育たないときも、一緒に悩んで……私にとって、カトラはただの巫女じゃありません。姉妹みたいなものなんです」



 しかし、零の位様は視線を外さず、リオに畳みかけた。



「でも、わたくしのところにいれば、小言も聞かなくていいわ。下働きのような雑用は他の者にさせて、あなたは好きなだけ物語を書いていればいいの。美味しいものを食べて、綺麗な着物を着て、わたくしとずっとお喋りして暮らせるのよ? 初頭村への支援だって、もっと手厚くしてあげられるわ」



 甘い誘惑だった。今の生活は確かに忙しく、決して楽ではない。それに比べれば、零の位様の提案は夢のように思える。しかし、リオはきっぱりと首を振った。



「ありがたいお話ですが、できません。カトラを裏切ることになってしまいます……」



 零の位様には、初頭村のことで恩義があるし、人間的にも惹かれるものがある。それでも、ここは譲れない一線だった。ところが、彼女は小首をかしげて微笑んだ。



「あら、困ったわ。もう大神様にも宮の者たちにも、通達してしまったもの」



「え?」



「もう決定事項よ。ごめんなさいね、順序が逆になってしまって」



 リオの思考は停止した。人の生き方を相談もなしに書き換えて、にっこり笑っている。



「そんな、困ります!」



 思わず、声を荒げた。相手が最高位の巫女であることも忘れて、抗議した。それでも、零の位様は不思議そうに目を瞬かせただけだった。



「どうして? あなたにとっても悪い話ではないでしょう? 三の位も、わたくしが頼めば断れないわ。むしろ、自分の側付きが栄転するのだから、喜ぶべきことよ」



 善意の純度が、あまりに高い。暴力的とすら思えるほどだ。悪意の臭いは少しも嗅ぎ取れない。しかし今回の場合に至っては、毒のように感じる。零の位様の微笑みが、なぜか歪んで見えた。



「荷物も、もう運び始めているわ」



 何度も何度も、言葉を変えて断った。しかし、話が通じない。



「失礼します!」



 リオは一礼もそこそこに、駆け出した。ここにいてはいけない気がした。離れなければ、呑み込まれてしまう感覚に迫られていた。カトラの元へ帰らなければならない。もう誤解されているかもしれない。とにかく、自分の口から説明しなければ。足音が反響して、虚しく響いた。



「カトラ、零の位様が勝手に……!」



 勢いよく襖を開けたリオの言葉が、喉の奥で凍りついた。部屋が、広くなっていた。いつも置いてあった文机も、箪笥も、布団もない。壁に立てかけてあった予備の着物も、書きかけの原稿も、全てが取り去られていた。



「おっと、ごめんよ」



 数人の屈強な男たちが、最後の荷物である木箱を運び出そうとしているところだった。



「な、何してるんですか! それ、私の荷物……!」



 リオは男たちに詰め寄った。



「零の位様のお屋敷へ移動させております」



 男の一人が事務的に答えた。



「触らないで! 行くなんて言ってない!」



 木箱に取りすがろうとしたが、男たちはリオの制止など意に介さず、軽々と箱を持ち上げた。



「命令ですので」



 それだけ言い残し、男たちは出て行った。



「嘘でしょ……」



 ガランとした部屋に、リオだけが取り残された。畳に残った箪笥の跡だけが、つい先ほどまでここに、自分の生活があったことを証明していた。
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