リオの偽筆と真っ赤な真実

谷 亜里砂

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第18話:けんか

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 玄関の扉を開ける音がする。リオが転げるようにして階段を下りると、どこかこわばった顔のカトラが帰ってきたところだった。



「カトラ! 違うの、勝手に決められたの! 私が頼んだわけじゃない!」



 リオは必死に訴えた。息が切れて言葉が途切れそうになるが、構っていられない。誤解されたくない。裏切ったなんて思われたくない。私はカトラの側付きで、カトラの友人で、これからもずっと一緒にやっていくのだと、伝えなければならない。



「……わかってるよ」



 カトラの声は低く、押し殺されていた。リオは縋るように頷いた。



「そうでしょ? わかってくれるなら、お願い! 取り消してもらうように、カトラからも言ってよ! 私はまだ、カトラの側付きだって! 三の位が嫌だって言えば、いくら零の位様だって無理強いは……」



 リオはカトラに近づき、その袖を掴もうとした。しかし相手はその手を避けるように、一歩後ずさる。リオの手が空を切った。カトラは顔を歪め、叫ぶように言った。



「どうやるんだよ!」



 その声の大きさ、見開かれた両目に、リオはびくりと身をすくませた。



「相手は零の位様だぞ! この国の頂点に立つ、生ける神だ! あたしなんかじゃ、逆らった瞬間に一瞬で焼かれて死んじまう! 三の位だ、二の位だなんて言ったって、零の位様の前じゃ、蟻んこと同じなんだよ!」



 鮮烈な映像が、リオの脳裏に蘇った。



「焼かれて……死ぬ……」



 つい先ほどの、草原で優雅に返された手のひらと、爆ぜる音、そして紅蓮の炎が瞼の裏で燃えている。黒焦げになった狼の死骸から、炭化した肉が崩れ落ちる音がする。



 膝をついたリオに、カトラが駆け寄る。



「どうしたんだよ?」



 リオは視線を泳がせた。零の位様が、逃げようとした狼を殺した場面が再生されている。でも、零の位様は『怖くない人』のはずだ。それどころか、とても優しい。守ってくれただけ。信じたい。そして、そう信じ込まなければ、立っていられない。



「……狼が出たの」



 リオは震える声で言った。今、話すべきなのは狼のことではないのに、なぜか口から出た言葉がそれだった。



「狼?」



「そう、草原で。六頭もいて、襲いかかってきたの。私、もう死ぬかと思って……」



 恐怖を思い出すと、嘘のように体が震える。



「でも、零の位様が守ってくれた。すごい力で、狼たちを一瞬で追い払ってくれた」



 リオは自分に言い聞かせるように、言葉を重ねる。カトラの眉が、ピクリと動いた。彼女はリオの顔をじっと見つめたまま、「どうやって?」と、低い、疑念に満ちた声で聞いた。



「狼が出て、追い払ってもらって、なんでそんなに震えてんだよ。おい、お前、本当に何を見た?」



「……焼いた」



 リオは観念して、小さな声で言った。



「炎で、狼たちを……」



「焼き殺したのか」



「……でも、仕方がなかった。襲われたから。零の位様は守ってくれただけ。最初の一頭が飛び掛かってきて、やっつけて。他の五頭も、逃がさずに。だって危ないから」



 悲しげに、信じられないものを見るように、カトラは首を振った。



「……守った?」



「そう、狼を倒したあとも、すごく朗らかに笑ってて、『怪我がなくてよかった』って……」



「笑ってた?」



 カトラの目が、鋭く細くなる。言葉は、鋭利な刃物のようだ。ため息をついて、カトラは一気に言った。



「平気で狼を焼き殺して、笑っていられる奴の何がいいんだよ」



 うんざりしたように、がっかりしたように、カトラは続ける。



「リオ、お前、そんな奴じゃなかっただろ……。お前は、芋泥棒の話を書いたとき、泥棒にも事情があるかもしれないって哀れむ奴だった。小さな命を大事にする奴だった。それなのに、目の前で虐殺を見て、それを『守ってくれた』『朗らかだった』なんて……なんでわかんねぇんだよ」



 あまりにも正しい言葉だった。論理的で、道徳的だ。でもそれは、安全な場所から見下ろす者の、傲慢な説教でもある。



「零の位様が、全部悪いわけじゃない」



 リオは呟いた。カトラにはわからない。零の位様は、初頭村を見つけ出してくれた。まだ幼い、実のきょうだいの痩せた腕が頭をよぎり、目の前の温かい食事に『人でなし』と責められたことなど、カトラにはきっとない。布団が足先に柔らかい熱をくれる夜、隙間風のない部屋で、自分だけが恵まれていることに潰される哀しみを、カトラは経験したことがない。贖罪のために初頭村のことを書いて褒められても、忍び寄る冬の前に命を削られるままの家族を救うことはできなかった。



 零の位様は、寒いのが怖いと震えた。リオには、その気持ちが自分のことのように理解できる。



 カトラはため息をつき、頭をかいた。



「側付きへの引き抜きだって、こんな乱暴に……」



「カトラにはわからない!」



 リオは叫んだ。涙が溢れ出した。



「はあ?」



「零の位様がいなきゃ、みんな死んでたんだよ! あ、そうだ。もしかして、私がすごい人に見出されたのが、気に入らないとか?」



 舌に、どす黒い感情が乗って溢れる。自分でも思ってもみなかった言葉が、次々と飛び出してくる。リオは地団駄を踏んだ。踏みつけられた木の床が、ギッ、ギッといびつな音を立てる。



「私は零の位様のお役に立ちたいの! 零の位様の寒さを癒やしてあげたい、初頭村だって助けてくれた、狼を焼いたのだって、私を守るためだった……カトラなんて結局、恵まれたお金持ちの家の子じゃん! 村が見つからなくて巫女にもなれなかった、私の気持ちなんてわかるわけない! 寒いのがどんなに怖いかなんて想像もできない!」



 信じていた足場が崩れ去ったような、痛々しい表情のカトラがそこにいた。胸が痛む。言い過ぎた。カトラの表情から、色が消える瞬間を見た。瞳の星が闇に呑まれて、沈んでいった。



「そうかよ。あたしが間違ってたよ。お前は、そっち側の人間だったんだな」



 乾いた声だった。カトラはリオを見据えた。石ころを見る目のほうがまだ優しいと思えるほど、冷たい瞳だった。



「お前、おかしくなってるよ」



 カトラはリオの前を素通りして、二階の階段に消えながら言った。



「もういい。行けよ。荷物は向こうにあるんだろ。二度と顔見せるな」



 扉が閉まる音がした。二人の間にあった長い時間と、温かな絆を、永遠に断ち切るような響きだった。



 カトラに見捨てられた。一番の親友に、軽蔑されて、縁を切られた。何かが間違って、すれ違って、終わってしまった。でも同時に、リオの中に暗い炎が燃え上がる。



 どうして自分が責められなきゃいけないのか。悪いことはしていない。ただ、恩人に報いたいだけだ。才能を認められて、出世するのがそんなに悪いことなのか。



「私だって、あっちの方がいいもん」



 涙が溢れて止まらなかった。悔しいのか、悲しいのか、怖いのか、自分でもわからなかった。ただ、もうここには居場所がないということだけが、痛いほどわかった。リオは袖で乱暴に涙を拭い、カトラの屋敷を飛び出した。
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