リオの偽筆と真っ赤な真実

谷 亜里砂

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第19話:書けないリオ

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 あてがわれた個室は、リオが一生かかっても稼げないほどの富で埋め尽くされていた。



 床の間には、名のある絵師による掛け軸が飾られ、その前には見事な生け花が活けられていた。すでに敷かれた布団は、大人三人が手足を伸ばしても余るほどの大きさで、掛けられた絹の夜具は、水面のように滑らかだ。



 貝細工が散る黒漆の机に向かい、真新しい筆を握りしめていた。手元には、零の位様から賜った最高級の和紙が広げられている。一枚だけで、庶民の一ヶ月分の食費に相当するほどの代物だ。



 しかし、その純白の紙には、一滴の墨も落ちることがない。筆先が震え、宙を彷徨っている。書けない。あれほど溢れ出ていた言葉が、今は沼の底に沈んだ泥のように重く、動かない。



 机の脇には、季節外れの桃や、異国の香りがする果物が山と盛られ、見たこともないような繊細な砂糖菓子が並んでいる。



 リオは逃げるように、菓子の一つを手に取り、口に放り込んだ。甘い。舌が痺れるほどの、暴力的な甘さだ。



 砂糖の塊が喉を通り過ぎていくが、胸の奥にある鉛のようなつかえは、少しも溶けてくれない。むしろ、甘さが罪悪感を煽るように、胃のあたりで重くよどむ。



『二度と顔見せるな』



 カトラの声がこだまする。あの軽蔑した目と、失望に満ちた背中が頭の中にこびりついている。



「そんなことない」



 リオは頭を振った。乱れた髪が頬を打つ。



「零の位様は本当に優しい。優しいったらない」



 自分に言い聞かせるように呟く。声に出さなければ、不安に押しつぶされそうだった。狼を焼いたのは、人を守るため。この贅沢な部屋も、執筆に集中してもらうため。すべては善意だ。善意でなければ、と考え、黒焦げの狼が頭をよぎる。



 リオは障子に歩み寄った。格子越しに外を覗く。眼下には広大な御殿の庭園が広がり、白い花畑が続いている。そのずっと向こう、木の枝の先に、三の位の屋敷の屋根が小さく見えた。



 息が詰まる。カトラ。今頃、何をしているだろうか。新しい側付きを探しているだろうか。それとも、まだ怒っているだろうか。握りしめた指先が白くなる。このままではいけない。誤解されたまま、絶縁するなんて耐えられない。側付きとして戻れないとしても、まだ、カトラの友でいたい。



 零の位様には恩があるけれど、カトラとの絆だって本物のはずだ。ちゃんと話せば、わかってくれる。無理やり連れてこられたのだと説明すれば、きっと。



「謝ろう。やっぱり、ちゃんと話さなきゃ」



 リオは部屋を飛び出した。零の位様に見つからないように、裏の廊下を駆け抜け、息を切らして走った。足袋が畳を蹴る音だけが響く。



 カトラの屋敷の門は、堅く閉ざされていた。いつもなら開け放たれている通用門さえも、拒絶するように閉じている。



 夕暮れの風は、冷たい。リオは肩で息をしながら、震える手で扉を叩いた。乾いた音が響くが、応えはない。もう一度、強く叩く。拳が痛い。



「カトラ! 私、リオだよ! お願い、開けて!」



 しばらくして、重い閂が外れる音がした。門が、わずかに開いた。人が一人通れるかどうかの隙間から、顔が覗いた。リオは身を乗り出した。親友の名前を叫ぼうとして、喉が固まった。



 そこにいたのはカトラではなかった。見知らぬ少女だ。歳はリオと同じくらいだろうか。髪を一本の乱れもなく結い上げ、新しい着物の襟元まで隙がない。少女の目が、リオの乱れた髪、泥の跳ねた足袋の先をゆっくりと舐めるように見下ろした。



 新しい側付きだ。リオの指先が冷たくなる。早すぎる。もう、私の代わりがいるなんて。



「あの、カトラに……三の位様に会わせてください! 少し話すだけでいいの! 誤解を解きたいんです!」



 リオは扉の隙間に手をかけた。少女は一歩後ろに引き、袖口を顔の前に翳した。まるで、穢れたものに触れぬように。



「お引き取りください」



 氷のような声だった。



「三の位様は、『裏切り者に会う顔はない』と仰せです」



 裏切り者。膝が震えた。カトラが、そう言ったのか。あの親友が、自分をそう呼んだのか。



 あの部屋で言い争ったときだけではなく、時間が経っても、カトラの中での自分は、『裏切り者』のままなのか。



「裏切り者だなんて……誤解なの! 私は勝手に連れていかれただけで……お願い、伝えて! 一度だけでいいから!」



 リオは扉を押し開けようとした。爪が食い込む。少女の目が細くなり、眉間に皺が寄る。



「お帰りください。これ以上騒ぐと、衛兵を呼びます」



 少女が体重をかけて扉を押し返し、リオの指が弾き出される。無慈悲な音と共に、門は完全に閉ざされた。内側から、再び閂のかかる音が重く響く。二度と開くことのない音だった。



 閉まった門の前で立ち尽くした。木の扉の木目が揺らいで見える。目の前が滲む。頬が熱い。完全に拒絶された。言い訳の余地さえ与えられず、切り捨てられた。



 膝から力が抜けた。崩れ落ちそうになる体を、門扉に手をついてなんとか支える。手のひらに木の冷たさが染み込む。



 もう、戻る場所はない。カトラの隣に、自分の居場所はない。



 足を引きずるようにして、零の位様の御殿に戻ったリオは、何かに憑かれたように荷物を漁った。カトラの屋敷から運び出された葛籠だ。その奥底に、布に包まれた小さな物があった。龍の置物だ。今、縋れるのはこの神様しかいない。



 リオはふかふかの畳の上ではなく、床の間の板敷きに置物を安置した。正座する。冷たい床に手をつく。額を床につける。



 部屋は薄暗い。灯りをつける気力もなかった。月明かりだけが、障子を透かして龍の置物を青白く照らしている。



「龍の神様……助けてください」



 震える声で祈った。額が板に触れたまま、動けない。



「私、どうしたらいいの? カトラと仲直りしたい。どうしても。たくさん酷いことを言ってしまったのに、謝ることもできない」



 涙が畳に落ちる。誰かに『大丈夫だ』と言ってほしかった。カトラとの仲がいずれ修復するとか、その方法を教えてほしかった。あの小さな龍の姿を思い浮かべる。



「お願い、答えて。どうしたらいいの?」



 リオが置物に額を近づけても、龍は微動だにしない。どれだけ手を合わせても、返事一つ聞こえない。



「あ……」



 リオは喉の奥で悲鳴を上げ、後ずさった。これは拒絶だ。友だけでなく、神にも見限られた。いつだったか、兎の神様に祈ったからだろうか。親友に激高し、言ってはいけないことを言ったからだろうか。神様はそのような心の卑しい自分のことを、見抜いたに違いない。



 部屋の広さが、今は恐ろしかった。どこにも逃げ場がない。世界中から見放された自分が、この広い部屋にたった一人、ぽつんと置かれている。


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