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第27話:物語係
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それから、季節はいくつも巡った。
宮の回廊を、リオは小走りで抜けていく。手には筆と紙、そして依頼書の束を抱えている。着物の袖についた墨は、このあいだの不注意でついてしまった。それからどんなに洗っても落ちないので、執筆用の着物として割り切ることにした。
「あ、リオさん! 頼んでたお手紙、まだ?」
「ごめんなさい、あと少し! 今は先約の方の恋文代筆が立て込んでて!」
「やだ、どなた宛てなの? 同じ人じゃないでしょうね……」
「それは……お伝えできません」
すれ違う巫女や側付き、衛兵たちが、次々と声をかけてくる。リオは今や、宮で一番多忙な『物語係』となっていた。
零の位が失脚したあと、宮の体制は大きく変わった。大神様の加護は、特定の誰かではなく、国全体に公平に行き渡るようになった。初頭村にも支援は届き、交易地点の一つとして道が整備され、村は自立した豊かさを手に入れつつあるという。
誰もがリオの文章を求めた。恋文の手助け、故郷への手紙、あるいはただの気晴らしのための物語を書く日が、来る日も来る日も続く。リオの紡ぐ言葉には、人の心の澱をすくい上げ、浄化する力があると評判だった。
忙しいけれど、リオは毎晩、ぐっすりよく眠れた。自分の言葉が、誰かの役に立っている。誰かを騙すためではなく、誰かの心を温めるために、筆を握っている。
祈りの場では、抱えるほどの兎の石像を前にして、カトラが手を合わせていた。リオが割ってしまったあと、一人の石工が新たに彫り直した。彼は一度でも目にしたものを正確に覚えておく力のある人で、師匠が掘った先代の兎の石像を再現することができたのだという。
カトラの周りには、数え切れないほどの側付きが控えている。あれから驚異的な回復を見せ、今では一の位の座に就き、兎の巫女として宮を牽引していた。
その背中は以前よりも大きく、頼もしく見えた。しかし、リオに笑顔で手を振るときは、相変わらず、無邪気でおどけたカトラのままでいる。
カトラがこちらに気付き、片目を瞑って見せた。リオは軽く会釈する。言葉はいらなかった。二人は同じ宮の中で、それぞれの役割を果たしている。
文机の前で筆を握っていたリオは、ふと手を休めて窓から空を見上げた。春の風が吹き抜け、桜の花びらが舞い散る。抜けるような青空に、一筋の白い雲が流れていく。
いや、雲ではない。
目を凝らすと、それは白銀で、小さな龍の形をしていた。
陽光を反射してきらきらと輝く鱗、長い髭をなびかせ、龍は気持ちよさそうに大空を泳いでいる。宮の反り返った屋根をかすめて、遥か彼方の山脈、初頭村のある方角へと飛んでいく。
騒動の後、リオは初頭村に金色の社を建てた。龍を祀るためだ。
『誰も思いつかないようなことが、この頭に詰まってるんだねえ』
懐かしい声が、風に乗って聞こえた。
「行ってらっしゃい、おばあちゃん」
リオは空に向かって呟いた。
物語は、それ以上の意味を持たない。神様が食べるわけでもなく、人の腹の足しにもならない。しかしそれでも、そこには救いがある。悲しみに寄り添い、喜びを増幅させ、心を育てる。
リオの胸の奥で、確かな温もりが灯る。それは誰かから奪ったものでも、誰かを犠牲にしたものでもない、心の底から湧き上がってくる熱だった。
「さて、と」
リオは筆を持ち直し、墨を含ませる。
さあ、次はどんな物語を書こうか。
カトラが待っている。みんなが待っている。そして何より、リオ自身が、新しい物語に出会うことを待ち望んでいる。
春の風の中、リオの筆は走っていく。
(了)
宮の回廊を、リオは小走りで抜けていく。手には筆と紙、そして依頼書の束を抱えている。着物の袖についた墨は、このあいだの不注意でついてしまった。それからどんなに洗っても落ちないので、執筆用の着物として割り切ることにした。
「あ、リオさん! 頼んでたお手紙、まだ?」
「ごめんなさい、あと少し! 今は先約の方の恋文代筆が立て込んでて!」
「やだ、どなた宛てなの? 同じ人じゃないでしょうね……」
「それは……お伝えできません」
すれ違う巫女や側付き、衛兵たちが、次々と声をかけてくる。リオは今や、宮で一番多忙な『物語係』となっていた。
零の位が失脚したあと、宮の体制は大きく変わった。大神様の加護は、特定の誰かではなく、国全体に公平に行き渡るようになった。初頭村にも支援は届き、交易地点の一つとして道が整備され、村は自立した豊かさを手に入れつつあるという。
誰もがリオの文章を求めた。恋文の手助け、故郷への手紙、あるいはただの気晴らしのための物語を書く日が、来る日も来る日も続く。リオの紡ぐ言葉には、人の心の澱をすくい上げ、浄化する力があると評判だった。
忙しいけれど、リオは毎晩、ぐっすりよく眠れた。自分の言葉が、誰かの役に立っている。誰かを騙すためではなく、誰かの心を温めるために、筆を握っている。
祈りの場では、抱えるほどの兎の石像を前にして、カトラが手を合わせていた。リオが割ってしまったあと、一人の石工が新たに彫り直した。彼は一度でも目にしたものを正確に覚えておく力のある人で、師匠が掘った先代の兎の石像を再現することができたのだという。
カトラの周りには、数え切れないほどの側付きが控えている。あれから驚異的な回復を見せ、今では一の位の座に就き、兎の巫女として宮を牽引していた。
その背中は以前よりも大きく、頼もしく見えた。しかし、リオに笑顔で手を振るときは、相変わらず、無邪気でおどけたカトラのままでいる。
カトラがこちらに気付き、片目を瞑って見せた。リオは軽く会釈する。言葉はいらなかった。二人は同じ宮の中で、それぞれの役割を果たしている。
文机の前で筆を握っていたリオは、ふと手を休めて窓から空を見上げた。春の風が吹き抜け、桜の花びらが舞い散る。抜けるような青空に、一筋の白い雲が流れていく。
いや、雲ではない。
目を凝らすと、それは白銀で、小さな龍の形をしていた。
陽光を反射してきらきらと輝く鱗、長い髭をなびかせ、龍は気持ちよさそうに大空を泳いでいる。宮の反り返った屋根をかすめて、遥か彼方の山脈、初頭村のある方角へと飛んでいく。
騒動の後、リオは初頭村に金色の社を建てた。龍を祀るためだ。
『誰も思いつかないようなことが、この頭に詰まってるんだねえ』
懐かしい声が、風に乗って聞こえた。
「行ってらっしゃい、おばあちゃん」
リオは空に向かって呟いた。
物語は、それ以上の意味を持たない。神様が食べるわけでもなく、人の腹の足しにもならない。しかしそれでも、そこには救いがある。悲しみに寄り添い、喜びを増幅させ、心を育てる。
リオの胸の奥で、確かな温もりが灯る。それは誰かから奪ったものでも、誰かを犠牲にしたものでもない、心の底から湧き上がってくる熱だった。
「さて、と」
リオは筆を持ち直し、墨を含ませる。
さあ、次はどんな物語を書こうか。
カトラが待っている。みんなが待っている。そして何より、リオ自身が、新しい物語に出会うことを待ち望んでいる。
春の風の中、リオの筆は走っていく。
(了)
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