リオの偽筆と真っ赤な真実

谷 亜里砂

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第26話:りんごの兎

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 彼女が求めた温もりは、誰かの犠牲の上にしか成り立たなかったのか。そして、自分が選んだ正義もまた、誰かを凍えさせることでしか成し得なかったのか。



 リオは自分の手を見た。墨と血で汚れた、筆だこだらけのこの手が、彼女を葬った。



 薬院の廊下には、絶えず煮詰められた薬草の苦い匂いが立ち込めていた。



 すれ違う神官や医師たちが、早足で行き交う。誰もが険しい顔をしており、時折、どこかの部屋からうめき声や、布を裂く音が漏れ聞こえてくる。



 リオは着物を引きずるようにして、長い板張りの廊下を歩いていた。膝が笑い、油断するとその場に崩れ落ちそうになる。それでも足を前に出したのは、確かめなければならないことがあったからだ。



 廊下の突き当たり、ひときわ警備の厳重な部屋の前で、リオは足を止めた。衛兵がリオの顔を見て、無言で道を譲る。



 引き戸に手をかけた。指先が震えて、うまく力が要らない。



 もし、カトラが目覚めていなかったら。あるいは、目覚めていても、二度と顔など見たくないと言われたら。



 想像するだけで、胃が鉛を詰め込まれたように重くなる。それでも、歯を食いしばり、少しだけ戸を開けた。



 シャク、と小気味よい音がした。リオは瞬きをした。薄暗い部屋の中、白い布団の上に、カトラがいる。



 頭には何重にも包帯が巻かれ、左腕は添え木を当てられて吊られている。それなのに、彼女の右手には林檎のカケラが握られていた。



「……あ」



 入り口に立つリオに気付き、カトラが動きを止めた。



 言葉が出なかった。謝罪の言葉も、安堵の言葉も、喉の奥で団子になって詰まっている。ただ、涙だけがじわりと視界を歪ませた。



 カトラは食べかけの林檎を置いて、ふう、と息を吐いた。



「……遅いんだけど」



 その声は枯れて、少し掠れていた。しかし、そこにはいつもの、太陽のような力強さが宿っていた。



「カトラ……」



 リオはその場にへたり込んだ。張り詰めていた糸が切れ、嗚咽が漏れる。



「生きてる……よかった、本当によかった……」



「当たり前だろ。あたしがこの程度でくたばるかよ。未来の『一の位様』だぞ」



 カトラは笑おうとして、顔の傷が痛んだのか、イテテと顔をしかめた。それでも、その瞳にある星の輝きは失われていなかった。



 リオは膝で歩いて布団に近づき、カトラの無事なほうの手を、両手で包み込んだ。温かい。脈打つ命の音が聞こえるようだ。



「ごめん。ごめんね、カトラ。私、ひどいこと言った。裏切るようなことして、本当に……」



「もういいよ。一時はリオが本当におかしくなったと思って、あたしも頭にきちゃって、臨時の側付きにも協力してもらったくらいだったけど……」



 カトラは真面目な顔になった。



「リオの書いた本、読んだよ。二の位様が持ってきてくれた。『零物語』。あれ、すごかったな。あの文字、寒くなると赤く浮き出るんだろ? とんでもない仕掛けを考えたな」



「あれしか、思いつかなかったから」



「おかげで助かったよ。あのまま零の位が力を持ち続けてたら、あたしは今頃、消し炭だった」



 彼女は天井を見上げた。その瞳が、わずかに揺れる。



「一の位様がね、守ってくれたんだ」



 リオの指先が強張った。



「あたしたち、零の位が変なことしてるって気付いたんだよ。国がだんだん衰えていることと、富がどこかへ消えていくのを追ってた。それで一の位様と一緒に、二の位様を待って告発の相談をしようってときに、あの女が火を放った」



 カトラの手が、固い握りこぶしを作る。



「逃げ場なんてなかった。炎があっという間に回って、天井が崩れてきて……一の位様は、崩れてきた梁を背中で受け止めて、あたしを逃がしてくれた。『いきなさい』って。『生きる』なのか、『行く』の方かわかんなかったけど、両方だろうな……あんなに毅然とした穏やかな人だったのに、最後は武人のように格好良かったよ」



 部屋の空気が重く沈む。



 リオは、あの上品な初老の女性を思い出した。リオの書いた物語を読み、初頭村の貧しさに心を痛めてくれた人だった。カトラの才能を誰よりも早く見抜き、導いてくれた人でもあった。



 彼女を殺したのは、零の位だ。そして、その零の位に力を与えるような、彼女の人生を正当化する物語を書いたのは、他ならぬリオだった。



「……私が、殺したようなものだ」



 やっと絞り出すように言った。



「私が零の位を増長させた。みんな、うすうす零の位の正体に気付いて動いていたのに、彼女の孤独に同情して、狂気を見過ごした」



「違う」



 カトラの言葉は鋭く、迷いがなかった。



「リオは、書いたんだろ。真実を。自分の手を血まみれにして、命がけで告発したんだろ。それが最後の一押しになったんだよ。なら、リオは共犯者じゃない……最後の最後で、リオはこっち側に戻ってきたんだ」



 カトラの手が、リオの頭に置かれた。不器用に、わしゃわしゃと髪を撫でられる。



「おかえり、リオ。それに、意識がなかったとき、夢の中で一頭の龍を見たよ」



「龍?」



「あたしが沼に落ちそうなところに飛んできて、背中に乗せて助けてくれた。えらい気さくな龍で、『孫が世話になってるから』って……あれってさ……」



 親友の声が届く前に、リオの目から涙が溢れる。おばあちゃんは幸せに暮らしている、きっとそうだという気がする。だから声を上げて泣いた。



 カトラの布団に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。林檎の甘酸っぱい香りをさせながら、カトラはずっと、リオの背中をさすってくれた。




 ひとしきり泣いて、少し落ち着いた頃、カトラが不意に言った。



「それに、謎も解けたしな」



 リオは鼻をすすりながら顔を上げた。



「謎?」



「初頭村の場所だよ。兎の神様が『光の中』って言った意味さ」



 カトラは窓の外、冬の空を指差した。



「『光』っていうのは、大神様の目くらましのことだったんだよ。零の位は大神様の力を独占していた。つまり、村は大神様の強烈な光、とてつもない神威の直下にあって、その輝きが強すぎたせいで、外からは見えなくなっていたんだ」



 リオは呆然とした。



「大神様のあまりにも強い光の中にあったから、誰も直視できなかったんだ。リオ、ずっと目をつけられてたんだよ」



 大神様の力を私物化し、初頭村を隠した上、あたかも自分が発見したように装ってまでリオに恩を売った零の位を思うと、背筋が寒くなった。



「ま、全部終わったことだ」



 兎の形に切られた林檎をまた一口かじって、カトラは言った。



「リオ、これからどうすんの?」



 リオは即答した。



「ここに残る」



 真っ直ぐにカトラの星の瞳を見据えた。



「私は書くよ。嘘の美談じゃなくて、本当のことを。一の位様のこと、カトラのこと、それに……零の位のことも。愚かで、哀れで、それでも必死に生きた人たちの物語を、ちゃんと残したい」



 カトラは満足そうに頷いた。



「そっか。じゃあ、まずはあたしの伝記から頼むよ。『不死身の巫女カトラ、地獄からの帰還』ってどう?」



 思わず笑いがこぼれる。



「なにそれ、全然売れなそう」



「これでも控えめにしたつもりなのに……」



 二人は顔を見合わせて、久しぶりに心からの声で笑い合った。
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