リオの偽筆と真っ赤な真実

谷 亜里砂

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第25話:捧げるもの

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 零の位の白い手が、赤い炎を連想させる。ここで火をつければ、建物に引火する。すぐにそんなことはできないはずだ。



「薬院に、薬をもらいに行こうかと」



 苦し紛れの嘘に、声が裏返る。



「あなたのその怯え方。まるで、悪いことをして逃げ出す子どもみたい……何をしたの?」



 証拠はまだ握られていない、と思う。本はまだ配られ始めたばかりで、誰も異変に気づいていない。言葉に迷っているリオの手首を、零の位ががっちりと掴んだ。



「離して!」



 火がついたようにリオは叫び、手を振り払おうとした。だが、びくともしない。この細い腕のどこにこんな力があるのか。



「来なさい、リオ」



 零の位はそのままリオを引きずり、階段を再び上がろうとした。リオは柱にしがみつき、足を突っ張る。だが、彼女の力は圧倒的だった。大神の加護を得た巫女の力は、か弱い女一人を引きずることなど造作もなく、リオは高楼を引きずり上げられた。



 叫んで、手足をばたつかせた。しかし、誰も来ない。



「誰もいないわ、リオ。みんな、本を配りに行ったの」



 手すりの向こうには、石畳の中庭が広がっている。落ちれば、ただでは済まない高さだ。打ち所が悪ければ死ぬだろう。



「どうしてですか、零の位様!」



 腹の底から絶叫した。



「わたくしを裏切る手足なら、折れて燃えてしまった方がいいから……」



 彼女は本気だ。ここから落とした上、火をつけるつもりでいる。



 リオの体を持ち上げ、手すりの外へ押し出そうとする顔には、慈悲も躊躇いもない。ただ、壊れた道具を処分するような、冷徹で乾いた表情があるだけだ。



 体が宙に浮く。重力が消える。死ぬ。殺される。零の位の暗い瞳が、白い手が、リオを投げ出す。下にはユキコガシの白い花畑が広がっている。



 しかし、リオは見た。その白が一斉に、赤く染まっていくのを。



 階下から爆風のような凄まじい寒気が吹き荒れたのは、それと同時だった。リオは飛ばされ、屋敷に押し戻された。飾られた花瓶が倒れ、掛け軸が舞い上がって、襖という襖はガタガタと悲鳴を上げ、風圧に耐えかねて外れる。



 そして、寒い。リオは笑った。寒い、寒い。大神様の加護がなくなった。零の位が、見放された。



「なにこれ? どうなっているの?」



 零の位は、手すりの向こうに広がる赤い花畑を見て後ずさりした。カトラの流した血、狼たちの血、一の位様の血、それらが一斉に零の位を責め立てているように見えるのだろう。



「大神様!」



 彼女は天を仰ぎ、半狂乱で叫んだ。リオは荒い息を吐きながら、彼女を見据えた。勝った。もう、怖くない。加護を失い、ただの凍える少女に戻った彼女は、あまりにも脆く、哀れだ。



「いた! 零の位! あそこよ!」



「よくも三の位様を!」



 鋭く、怒号が響いた。中庭の入り口から、わらわらと人々が雪崩れ込んできた。



 先頭に立っているのは二の位様だ。カトラの新しい側付きの少女もいる。その手には、真っ赤な本が握られている。



 無数の殺気と敵意が、矢のように零の位へ突き刺さっていく。



 リオはゆっくりと立ち上がった。冷たい風が吹き抜け、リオの髪を揺らす。もう逃げる必要はなかった。震える零の位が身に付けているのは、薄い絹の着物一枚だ。とてもこの極寒に耐えられない。彼女の白い肌は青ざめ、唇は紫色に変色している。



「『ユキコガシ』です」



 リオの声は、風の音にかき消されそうだった。それでも、はっきりと彼女に届いたようだった。零の位がビクリと肩を震わせる。



「ご存知でしょう? 冷たい場所では、赤くなる花です。あなたの故郷にも咲いていたはずです」



「あなた……なにをしたの……」



 彼女が顔を上げた。その瞳には、混乱と、そしてリオへの恐怖が宿っていた。



「あなたの物語を書きました。あなたが望んだ通りの零物語を」



 一歩、彼女に近づいた。寒さで足の感覚がない。それでも、歩を進める。



「でも、その行間には白い『ユキコガシ』の汁で、真実を書きました。暖かいこの部屋では透明で見えなくても、凍えるような外の世界でなら、文字が赤く浮き上がるように」



 零の位の目が、極限まで見開かれた。



「裏切ったのね……わたくしを……」



「裏切ったのは、あなたです!」



 リオは叫んだ。涙がこみ上げてきて、視界が歪む。



「私は、あなたのことを信じていたかった! あなたの孤独も、故郷を想う気持ちも、嘘じゃないと思いたかった。私の物語で、あなたの冷え切った心を温めたかった! 神様は気まぐれなんかじゃない。神様は、私たちの心の鏡で、みんながあなたを敬っていたから、大神様もあなたを守っていた。でも、もう誰もあなたを信じていない。私の本を読んで、みんなが真実を知ってしまったから!」



 冷たい風を吸い込み、声を張り上げる。



 「あなたが寒さに震えているのは、あなたがもう愛されていないからです!」



 あの春のような部屋で、彼女と語り合った時間や、無邪気な笑顔の、それらがすべて幻だったとは、認めたくなかった。できることなら、ただの友人として、彼女のそばにいたかった。



「……でも、一の位様を殺し、カトラを狙い、初頭村を人質にとるのは間違っています。誰かを犠牲にして得る温もりなんて、そんなの間違ってる!」



 リオは涙を拭った。袖が冷たく濡れる。



「そんなこと、してないわ」



 零の位は眉を寄せ、静かに言った。



「リオ、これは悲しいすれ違いだわ。わたくしは火事なんて知らない。そんなことしていない。ねえ、自分は間違ったことを書いてしまったと、みんなに謝りましょう?」



 息をするのもつらそうに、零の位は指先を擦り合わせていた。それが爪をいじっている仕草だと、リオは気付いた。話しながら、時折首をかしげて空を仰ぐ。寒冷がもたらす恐怖心から、指先の痛めつけることで気を逸らしているのか。



「大神様の加護の香りは、甘い飴の匂いがするんです」



 彼女の指先の動きが止まった。



「あなたは言いましたよね。寒さとひもじさを知っていると。暗くて冷たい思いを知っているあなただからこそ……誰よりも正しく生きてほしかった。誰かを凍えさせるのではなく、温める人であってほしかった!」



 悲痛な叫びが、寒風の中に響いた。零の位は顔を歪め、天に向かって、獣のような咆哮を上げた。



「大神様!」



 爪が剥がれた手が懐へ入り、黄金の装飾が施された短剣を握って出てきた。護身用なのか、それとも誰かを傷付けるために持っていたのか。刃が、雪明かりを受けて鈍く光る。



「大神様……これを差し上げます。どうか今一度、ご加護を」



 そしてよろめきながら立ち上がり、短剣の先を自分の右目に当てた。



 目の前の彼女が、あまりにも哀れで、目が離せなかった。髪が乱れ、ガタガタと震える手で刃物を構えている。そこには、国の頂点に立つ巫女の威厳など欠片もなかった。



 リオは零の位のそばに寄って言った。



「もうやめましょう。そんなに震える手では、何も捧げることなど……」



 血走った目がリオをとらえ、次の瞬間、短剣はリオの胸元に食い込んでいた。



 しかし、刺さらない。血も出ない。



 リオは首を振り、零の位の青白い手に自分の手を添え、短剣を離させた。床に刃が落ちる乾いた音と、破れた袋からこぼれる砂金の音が入り交じる。



「寒い。なんで……こんなに寒いの」



 零の位は呆然と呟いた。膝から力が抜け、床に崩れ落ちる。



「大神様……どうして……わたくしを温めてくれないの……髪も、爪も、足も、村も。あんなに喜んでくださったじゃない……」



 押し入ってきた槍を構えた衛兵、宮の者たちの憎悪の業火は、零の位を中心に渦を巻く。



「連れて行け!」



 怒号の中で、彼女は引きずられるようにして連行されていった。抵抗する力もなく、ただ「寒い、寒い」とうわ言のように繰り返す声が、寂しくこだましていた。
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