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第24話:リオはどこへ
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翌朝、リオは零の位の居室の襖の前で、声をかけた。襖を開けた途端、溢れ出たのは春の陽だまりのような暖かさだった。
零の位は、窓辺の座布団に座っていた。差し込む朝日が彼女の白い肌を透かし、金糸の豪奢な着物を輝かせている。
リオが入室すると、彼女は刺繍の手を止め、花がほころぶような、一点の曇りもない笑顔を見せた。
「おはよう、リオ。顔色が悪いわ、昨日は少し、言いすぎてしまったかしら」
彼女は立ち上がり、足を引きずるそぶりも見せず、流れるような動作でリオに歩み寄った。
白く滑らかな手が伸びてきて、リオの強張った手を包み込む。そして、自身のふっくらとした頬に、リオの手の甲を愛おしげに寄せた。
「心配していたのよ。あなたが怖がって、もう来てくれないんじゃないかって」
その体温は、驚くほど温かかった。昨夜、村を焼き払うと脅したのと同じ口調、同じ声色で、彼女は親愛を囁く。
嘘をついているようには見えない。本気でリオを心配し、好いてくれているように感じられる。昨日の会話は親しい友への忠告で、まるで美しい思い出の一部かのようだ。
「……いいえ」
息苦しさをこらえ、リオは乾いた唇を開いた。
「私が未熟でした。カトラのことは……運が悪かったのだと、理解しました。零の位様が心を痛めていること、疑って申し訳ありませんでした」
心にもない謝罪が、砂利のように喉を傷付ける。零の位は安心したような吐息を漏らし、リオの手を強く握り返した。
「そう。わかってくれて嬉しいわ。わたくし、あなたとは仲良くしたいの。同じ痛みを知る同志だもの」
無邪気に微笑む彼女に、リオはダメ押しの一手を選んだ。
「私に、償いをさせてください」
リオは顔を上げ、潤んだ瞳を装って彼女を見つめた。
「零の位様の想いを正しく伝える、『零物語』の続きを書かせていただきます。あなたの献身、あなたの愛、そして……あなたが背負っているものすべてを、私がこの筆で世に知らしめます」
「まあ、嬉しい!」
零の位ははしゃいで笑った。
午後、リオは季節が止まったかのような庭で、一面に咲いている白い花を摘んでいた。『ユキコガシ』は、かつてカトラと旅路で話した、彼女の亡き母の思い出の花だった。この屋敷に満ちる大神様の加護のおかげで、花弁は白い無垢の色でいる。
「……ごめんね。あなたまで利用して」
机の上には、山積みの高級和紙と墨、そしてユキコガシの花びらを潰して作った透明な液がある。部屋の隅には、すでに製本された状態の本が数十冊、きっちりと積み上げられていた。
数時間前の会話が、脳裏をよぎる。
『手書きですって?』
零の位は、呆れたように目を丸くしていた。
『印刷に回せばいいじゃない。都の印刷所を使えば、千部でも一万部でも、すぐに刷り上がるわよ。あなたの綺麗な手が汚れてしまうわ』
『いいえ』
リオは毅然と言い放った。
『宮の巫女たちには、私の直筆で紡いだ物語を渡したいのです。印刷された文字では、魂は伝わりません。手書きの文字の温かさこそが、凍えた心に深く届くのです』
それは、零の位が好みそうな『美談』だった。
『あの子たちは、冷たい寮で心細い思いをしています。そこへ、零の位様の想いが込められた直筆の書が届けば、彼女たちは涙を流して感謝するでしょう。ぜひ、お手伝いさせてください』
零の位は、面白そうに目を細めた。
『いいわ、許しましょう。あなたのその献身、見せてもらうわ』
献身といえば、献身なのかもしれない。虐げられ命を奪われた者たちへの、そして傷付けられたカトラへの、命を懸けた献身だ。
リオは筆を執った。こうして見ると、水そのものだ。透明なユキコガシの液を含ませた筆先が、紙に触れる。
墨で書いた物語だって、嘘ではない。リオが知っている、零の位の『魅力』だ。リオの指には、いつの間にか筆だこができていた。それが潰れ、血が滲み、白い包帯を赤く染めている。痛みで指の感覚がない。それでも手は止めない。
呪いの人形を釘で打つような、怨念の儀式に似ていた。
翌朝、窓から差し込む朝日が、部屋の中央に積み上げられた本の塔を照らしていた。完成した手書き本の一冊一冊が、リオの執念の塊だ。
リオは零の位の前に跪いていた。
「まあ……」
零の位は、言葉を失って口元を押さえた。彼女の視線は、積まれた本ではなく、リオのボロボロの手元に釘付けになっていた。
「墨と血で汚れて、かわいそうだわ……痛いでしょう」
リオの手を取り、愛おしそうに撫でた。
「この身が砕けても本望です」
涙が流れた。零の位にさよならを言うように、リオは宣言した。
「ええ、ええ。わかったわ。あなたの愛、確かに受け取ったわ。すぐに巫女たちに配りましょう」
本の山が、屋敷の人間によってみんな運び出されていく。導火線に火がついた。もう、誰にも止められない。
「どうしたの? 具合が悪いのね、今日はもう休みなさい。これだけのことをしてくれたのだから、しばらくゆっくりしなくてはダメよ」
「……実は、あまり気分が優れなくて。少し寒気がするのです。風邪を引いたのかもしれません。しばらく部屋で、横になろうと思います」
リオは伏せていた顔を少しだけ上げ、弱々しく告げた。零の位は優しく何度もうなずく。
「もうお下がりなさい。しっかり休むのよ」
「ありがとうございます」
同情するように眉を寄せる零の位を残して、リオは部屋を出た。襖が閉まった瞬間から、弾かれたように歩き出す。
自室へ向かうふりをして回廊を進み、角を曲がると同時に、出口へ向かって走り出した。この屋敷にいれば、殺される。リオは着物の裾を掴み、階段を駆け下りようとした。
「リオ?」
背後から鈴を転がすような声が響き、リオの心臓が凍りついた。足が縫い止められたように動かなくなる。振り返ると、深海のように暗く、冷たい瞳が、リオを射抜いていた。
「部屋で休むと言ったわよね」
静かな声だった。
「どこ行くの?」
零の位は、窓辺の座布団に座っていた。差し込む朝日が彼女の白い肌を透かし、金糸の豪奢な着物を輝かせている。
リオが入室すると、彼女は刺繍の手を止め、花がほころぶような、一点の曇りもない笑顔を見せた。
「おはよう、リオ。顔色が悪いわ、昨日は少し、言いすぎてしまったかしら」
彼女は立ち上がり、足を引きずるそぶりも見せず、流れるような動作でリオに歩み寄った。
白く滑らかな手が伸びてきて、リオの強張った手を包み込む。そして、自身のふっくらとした頬に、リオの手の甲を愛おしげに寄せた。
「心配していたのよ。あなたが怖がって、もう来てくれないんじゃないかって」
その体温は、驚くほど温かかった。昨夜、村を焼き払うと脅したのと同じ口調、同じ声色で、彼女は親愛を囁く。
嘘をついているようには見えない。本気でリオを心配し、好いてくれているように感じられる。昨日の会話は親しい友への忠告で、まるで美しい思い出の一部かのようだ。
「……いいえ」
息苦しさをこらえ、リオは乾いた唇を開いた。
「私が未熟でした。カトラのことは……運が悪かったのだと、理解しました。零の位様が心を痛めていること、疑って申し訳ありませんでした」
心にもない謝罪が、砂利のように喉を傷付ける。零の位は安心したような吐息を漏らし、リオの手を強く握り返した。
「そう。わかってくれて嬉しいわ。わたくし、あなたとは仲良くしたいの。同じ痛みを知る同志だもの」
無邪気に微笑む彼女に、リオはダメ押しの一手を選んだ。
「私に、償いをさせてください」
リオは顔を上げ、潤んだ瞳を装って彼女を見つめた。
「零の位様の想いを正しく伝える、『零物語』の続きを書かせていただきます。あなたの献身、あなたの愛、そして……あなたが背負っているものすべてを、私がこの筆で世に知らしめます」
「まあ、嬉しい!」
零の位ははしゃいで笑った。
午後、リオは季節が止まったかのような庭で、一面に咲いている白い花を摘んでいた。『ユキコガシ』は、かつてカトラと旅路で話した、彼女の亡き母の思い出の花だった。この屋敷に満ちる大神様の加護のおかげで、花弁は白い無垢の色でいる。
「……ごめんね。あなたまで利用して」
机の上には、山積みの高級和紙と墨、そしてユキコガシの花びらを潰して作った透明な液がある。部屋の隅には、すでに製本された状態の本が数十冊、きっちりと積み上げられていた。
数時間前の会話が、脳裏をよぎる。
『手書きですって?』
零の位は、呆れたように目を丸くしていた。
『印刷に回せばいいじゃない。都の印刷所を使えば、千部でも一万部でも、すぐに刷り上がるわよ。あなたの綺麗な手が汚れてしまうわ』
『いいえ』
リオは毅然と言い放った。
『宮の巫女たちには、私の直筆で紡いだ物語を渡したいのです。印刷された文字では、魂は伝わりません。手書きの文字の温かさこそが、凍えた心に深く届くのです』
それは、零の位が好みそうな『美談』だった。
『あの子たちは、冷たい寮で心細い思いをしています。そこへ、零の位様の想いが込められた直筆の書が届けば、彼女たちは涙を流して感謝するでしょう。ぜひ、お手伝いさせてください』
零の位は、面白そうに目を細めた。
『いいわ、許しましょう。あなたのその献身、見せてもらうわ』
献身といえば、献身なのかもしれない。虐げられ命を奪われた者たちへの、そして傷付けられたカトラへの、命を懸けた献身だ。
リオは筆を執った。こうして見ると、水そのものだ。透明なユキコガシの液を含ませた筆先が、紙に触れる。
墨で書いた物語だって、嘘ではない。リオが知っている、零の位の『魅力』だ。リオの指には、いつの間にか筆だこができていた。それが潰れ、血が滲み、白い包帯を赤く染めている。痛みで指の感覚がない。それでも手は止めない。
呪いの人形を釘で打つような、怨念の儀式に似ていた。
翌朝、窓から差し込む朝日が、部屋の中央に積み上げられた本の塔を照らしていた。完成した手書き本の一冊一冊が、リオの執念の塊だ。
リオは零の位の前に跪いていた。
「まあ……」
零の位は、言葉を失って口元を押さえた。彼女の視線は、積まれた本ではなく、リオのボロボロの手元に釘付けになっていた。
「墨と血で汚れて、かわいそうだわ……痛いでしょう」
リオの手を取り、愛おしそうに撫でた。
「この身が砕けても本望です」
涙が流れた。零の位にさよならを言うように、リオは宣言した。
「ええ、ええ。わかったわ。あなたの愛、確かに受け取ったわ。すぐに巫女たちに配りましょう」
本の山が、屋敷の人間によってみんな運び出されていく。導火線に火がついた。もう、誰にも止められない。
「どうしたの? 具合が悪いのね、今日はもう休みなさい。これだけのことをしてくれたのだから、しばらくゆっくりしなくてはダメよ」
「……実は、あまり気分が優れなくて。少し寒気がするのです。風邪を引いたのかもしれません。しばらく部屋で、横になろうと思います」
リオは伏せていた顔を少しだけ上げ、弱々しく告げた。零の位は優しく何度もうなずく。
「もうお下がりなさい。しっかり休むのよ」
「ありがとうございます」
同情するように眉を寄せる零の位を残して、リオは部屋を出た。襖が閉まった瞬間から、弾かれたように歩き出す。
自室へ向かうふりをして回廊を進み、角を曲がると同時に、出口へ向かって走り出した。この屋敷にいれば、殺される。リオは着物の裾を掴み、階段を駆け下りようとした。
「リオ?」
背後から鈴を転がすような声が響き、リオの心臓が凍りついた。足が縫い止められたように動かなくなる。振り返ると、深海のように暗く、冷たい瞳が、リオを射抜いていた。
「部屋で休むと言ったわよね」
静かな声だった。
「どこ行くの?」
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