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第23話:幸せな人質
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零の位は、リオの沈黙に飽きたように視線を外し、窓の外へと目を向けた。彼女の横顔は、彫像のように完璧で、人間味がないように見える。
「ねえ、リオ。あなたはわたくしの生まれを知っているわよね」
唐突な問いかけだった。
「……はい」
リオは絞り出すように答えた。
『零物語』に、リオはそれを書いた。今や町中で売られているあの本の中に、彼女の過去が綴られている。美しく脚色された、悲劇と奇跡の物語だ。
「雪深い、貧しい地域よ」
零の位は着物を合わせた。うつろな目だった。
「戦争に負けて、属国になった惨めな国よ。わたくしはそこから、人質としてこの国に連れてこられたの。まだ、乳歯が抜けたばかりの頃よ」
彼女の視線が、遠い過去を見つめるように虚空をさまよう。その瞳に浮かぶ寂しさは、演技には見えなかった。底なしの井戸を覗き込んだような、暗く、冷たい孤独の色だ。
「寒かったわ」
零の位が、自身の肩を抱くようにして呟く。
「冬になると、家の中まで雪が入ってきた。食べるものなんてなくて、木の根をかじり、雪を溶かしてお腹を満たした。家族が一人、また一人と死んでいったわ。病気じゃないの。ただ、寒さとひもじさに耐えきれなくて、命の火が吹き消されていくの」
部屋の異常な暖かさの意味が、リオの胸に痛かった。この春のような室温は、彼女の贅沢ではなく、魂に刻み込まれた恐怖への抵抗であり、凍えることへの、病的なまでの忌避だ。
「あなたならわかるでしょう? リオ……」
なんて切なげで、守ってあげたくなるような儚さを帯びた話し方だろうか。彼女が伸ばした手は、雪山に吹きすさぶ一つの小さな花にも思える。
「飢えることは苦しいわ。凍えることは恐ろしいわ。わたくしたちは、似た者同士なのよ。だから、リオ。わたくしはあなたに、『零物語』の続きを書いてほしいの」
白く滑らかな手が、リオの手の甲に触れた。驚くほど暖かい手だった。何も知らず、気付きもしなかった頃は信じたいと思っていた、甘美で心地良い温度だった。
リオは手を引くこともできず、けれど握り返すこともせず、乾いた声で答えた。
「それは、どうでしょうか」
零の位の眉尻が上がっていく。リオの声は冷えていた。否定も、肯定もできない。これが精一杯の抵抗だったが、そんな真似はしない方が賢いのかもしれない。
考えなければならないことは山ほどあるのに、頭の中は何一つ形を成すことができない。まるで真っ白な紙のままだった。この場を切り抜け、薬院のカトラの元へ走り、祈り、命が助かっても、この手がまた炎を放つとするなら、一体どうすればいい。
「……そう」
零の位は、つまらなそうに肩をすくめた。リオから自分の手を離し、再び茶を一口啜る。
「ねえ。初頭村は、いいところになったでしょう? どうだった?」
脈絡のない言葉に、ドクン、とリオの心臓が跳ねた。
「……はい」
「そうでしょうね。あそこには、大神様に仕えるわたくしの名のもとに、ありとあらゆるものを集めたんだもの」
彼女は夢を見ているような表情でいたかと思いきや、急にリオの顔をまっすぐ捉え、芯のある声で言った。
「来年のお正月も、初頭村に雪が降るといいわね」
「どういう……どういう意味ですか」
震える声で問うリオに、零の位は笑ってみせた。
「わたくし、その気になればいくらでも、熱くしてさしあげてよ」
脅しだ。リオの手足から、さあっと体温が引いていった。部屋は春のように暖かいのに、寒気で心臓が凍りそうだ。
もし逆らえば、カトラと一の位様にしたように、初頭村を焼く。
あの新しい屋敷も、満面の笑みでご馳走を食べていた父ちゃんも、生まれてからずっと植えるしかなかった弟たちも、全員、灰にする。
この女には、それができる。大神様の力を借りて、災害のように村一つを消し去ることなど、造作もないことだ。
「何が……何がしたいんですか」
涙を流して、リオは呻いた。
「こんなことして、何が楽しいんですか。あなたは最高位の巫女でしょう? 全てを持っているじゃないですか、何もかも揃っているじゃないですか。これ以上、何を望むんですか」
零の位はキョトンとした顔で、空が青い理由を聞かれた子どものように、不思議そうに瞬きをした。
「仕送りかしら」
「え?」
「仕送りよ。親孝行みたいなものね」
彼女は楽しそうに、歌うように言う。
「あなたが初頭村を養っているように、わたくしも故郷を養っているの。大神様の力を借りて、この国の富を、資源を、少しずつ、少しずつ、わたくしの生まれた国へ送っているのよ」
口を開けて、やっと言葉を探す。
「で、でも、あなたの国は……戦争に負けて、属国になったんじゃ……」
「ええ。だからこそよ。負けたから奪われた。なら、奪い返せばいい。この国の豊かな実りを、金銀財宝を、あちらへ流してあげるの。そうすれば、向こうの冬も少しは暖かくなるでしょう?」
「人から奪ってまでも、ですか」
リオは絞り出すように言った。
「この国の人たちだって、必死に生きているんです。カトラだって、村のみんなだって……」
零の位は、ふっと冷笑した。
「だから、奪われた分を取り返しているだけよ。これは正義でしょう?」
一点の曇りもない、澄んだ瞳だ。まるでリオが、物分かりの悪い子どものように見えているに違いない。
この人は、幼い頃に受けた屈辱、寒さ、ひもじさ、それらを全て晴らすため、壮大な復讐に生きている。一の位様を焼き殺し、カトラの意識を奪い、初頭村を人質にとることも厭わず。
呆然としているリオを前に、零の位は明るく言った。
「『零物語』の続き、楽しみにしているわ。わたくしの地位は、あなたの書く物語で盤石になる。そうしたら初頭村だって、もっと栄える。ねえ、リオ、それはあなたの望みでしょう?」
「ねえ、リオ。あなたはわたくしの生まれを知っているわよね」
唐突な問いかけだった。
「……はい」
リオは絞り出すように答えた。
『零物語』に、リオはそれを書いた。今や町中で売られているあの本の中に、彼女の過去が綴られている。美しく脚色された、悲劇と奇跡の物語だ。
「雪深い、貧しい地域よ」
零の位は着物を合わせた。うつろな目だった。
「戦争に負けて、属国になった惨めな国よ。わたくしはそこから、人質としてこの国に連れてこられたの。まだ、乳歯が抜けたばかりの頃よ」
彼女の視線が、遠い過去を見つめるように虚空をさまよう。その瞳に浮かぶ寂しさは、演技には見えなかった。底なしの井戸を覗き込んだような、暗く、冷たい孤独の色だ。
「寒かったわ」
零の位が、自身の肩を抱くようにして呟く。
「冬になると、家の中まで雪が入ってきた。食べるものなんてなくて、木の根をかじり、雪を溶かしてお腹を満たした。家族が一人、また一人と死んでいったわ。病気じゃないの。ただ、寒さとひもじさに耐えきれなくて、命の火が吹き消されていくの」
部屋の異常な暖かさの意味が、リオの胸に痛かった。この春のような室温は、彼女の贅沢ではなく、魂に刻み込まれた恐怖への抵抗であり、凍えることへの、病的なまでの忌避だ。
「あなたならわかるでしょう? リオ……」
なんて切なげで、守ってあげたくなるような儚さを帯びた話し方だろうか。彼女が伸ばした手は、雪山に吹きすさぶ一つの小さな花にも思える。
「飢えることは苦しいわ。凍えることは恐ろしいわ。わたくしたちは、似た者同士なのよ。だから、リオ。わたくしはあなたに、『零物語』の続きを書いてほしいの」
白く滑らかな手が、リオの手の甲に触れた。驚くほど暖かい手だった。何も知らず、気付きもしなかった頃は信じたいと思っていた、甘美で心地良い温度だった。
リオは手を引くこともできず、けれど握り返すこともせず、乾いた声で答えた。
「それは、どうでしょうか」
零の位の眉尻が上がっていく。リオの声は冷えていた。否定も、肯定もできない。これが精一杯の抵抗だったが、そんな真似はしない方が賢いのかもしれない。
考えなければならないことは山ほどあるのに、頭の中は何一つ形を成すことができない。まるで真っ白な紙のままだった。この場を切り抜け、薬院のカトラの元へ走り、祈り、命が助かっても、この手がまた炎を放つとするなら、一体どうすればいい。
「……そう」
零の位は、つまらなそうに肩をすくめた。リオから自分の手を離し、再び茶を一口啜る。
「ねえ。初頭村は、いいところになったでしょう? どうだった?」
脈絡のない言葉に、ドクン、とリオの心臓が跳ねた。
「……はい」
「そうでしょうね。あそこには、大神様に仕えるわたくしの名のもとに、ありとあらゆるものを集めたんだもの」
彼女は夢を見ているような表情でいたかと思いきや、急にリオの顔をまっすぐ捉え、芯のある声で言った。
「来年のお正月も、初頭村に雪が降るといいわね」
「どういう……どういう意味ですか」
震える声で問うリオに、零の位は笑ってみせた。
「わたくし、その気になればいくらでも、熱くしてさしあげてよ」
脅しだ。リオの手足から、さあっと体温が引いていった。部屋は春のように暖かいのに、寒気で心臓が凍りそうだ。
もし逆らえば、カトラと一の位様にしたように、初頭村を焼く。
あの新しい屋敷も、満面の笑みでご馳走を食べていた父ちゃんも、生まれてからずっと植えるしかなかった弟たちも、全員、灰にする。
この女には、それができる。大神様の力を借りて、災害のように村一つを消し去ることなど、造作もないことだ。
「何が……何がしたいんですか」
涙を流して、リオは呻いた。
「こんなことして、何が楽しいんですか。あなたは最高位の巫女でしょう? 全てを持っているじゃないですか、何もかも揃っているじゃないですか。これ以上、何を望むんですか」
零の位はキョトンとした顔で、空が青い理由を聞かれた子どものように、不思議そうに瞬きをした。
「仕送りかしら」
「え?」
「仕送りよ。親孝行みたいなものね」
彼女は楽しそうに、歌うように言う。
「あなたが初頭村を養っているように、わたくしも故郷を養っているの。大神様の力を借りて、この国の富を、資源を、少しずつ、少しずつ、わたくしの生まれた国へ送っているのよ」
口を開けて、やっと言葉を探す。
「で、でも、あなたの国は……戦争に負けて、属国になったんじゃ……」
「ええ。だからこそよ。負けたから奪われた。なら、奪い返せばいい。この国の豊かな実りを、金銀財宝を、あちらへ流してあげるの。そうすれば、向こうの冬も少しは暖かくなるでしょう?」
「人から奪ってまでも、ですか」
リオは絞り出すように言った。
「この国の人たちだって、必死に生きているんです。カトラだって、村のみんなだって……」
零の位は、ふっと冷笑した。
「だから、奪われた分を取り返しているだけよ。これは正義でしょう?」
一点の曇りもない、澄んだ瞳だ。まるでリオが、物分かりの悪い子どものように見えているに違いない。
この人は、幼い頃に受けた屈辱、寒さ、ひもじさ、それらを全て晴らすため、壮大な復讐に生きている。一の位様を焼き殺し、カトラの意識を奪い、初頭村を人質にとることも厭わず。
呆然としているリオを前に、零の位は明るく言った。
「『零物語』の続き、楽しみにしているわ。わたくしの地位は、あなたの書く物語で盤石になる。そうしたら初頭村だって、もっと栄える。ねえ、リオ、それはあなたの望みでしょう?」
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