天上人の暇(いとま) ~千年越しの拗らせ愛~

墨尽(ぼくじん)

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第一章 最期の試練

第19話 あなたの声だけは

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 ***

 退路を確保した陶静が戻ってきたのは、葉雪が堕獣を昊穹へ送った後だった。瘴気はたちまち霧散し、街中にいつもの華やかさが戻る。
 状況が掴めていない陶静へ向けて、葉雪はぱちぱちと手を叩いた。

「いや~、陶静様は凄いですね、あんな天上人を召喚するとは。あっという間に堕獣を退けてしまいましたよ」
「千銅様が退けたのですか⁉ どうやって?」
「さぁ? しゅっと切り裂いて、ばっと倒してましたねぇ。いやぁ凄い」

 葉雪は抑揚のない声で言葉を並べ立て、泉嶽と陶静へと素早く拱手した。

「それでは私は、先を急ぎますので」

 さっと踵を返して雲嵐のところへ向かう。長居は無用と本能が告げていた。
 しかし袖を掴まれ、真横に泉嶽が並ぶ。彼は声を落として、葉雪と歩調を合わせる。

「ま、待ってくださいよ。相変わらず嘘が下手くそなんだから……。残される俺の身にもなってくださいよ」
「まぁまぁ、『私の必殺技がさく裂した』とでも言っておけよ。愛しの陶静が恋に落ちるかもしれん」

 泉嶽の声真似をしながら葉雪が言うと、彼は真っ赤になって絶句する。
 泉嶽は見た目こそ戦鬼のようだが、性格は温厚で照れ屋だ。特に恋愛に対しては超が付くほど奥手なので、彼の恋する様子を見ていると、つい揶揄いたくなる。
 
「まったくあなたという人は!」
「はははは。じゃあ後は任せた」
「任せたじゃないですって! それに、後から色々話をすると約束したはずでしょう!」
「すまん。積もり過ぎた話は、今度にしてくれ」

 葉雪は大きく一歩踏み出し、泉嶽を振り返る。そして彼の姿をじっと見つめ、小さく頷いた。

「うん。立派になったな、泉嶽。軍部もお前がいれば安泰だろう」

 言い終えて、葉雪は逃げるようにその場を後にする。
 背中に投げ掛けられる「誤魔化されませんよ!」という言葉を聞きながら、葉雪は雲嵐のいる建物へ向かった。


 瘴気に当てられた人間は、体力をごっそりと削られる。おそらく堕獣騒ぎに巻き込まれた人間は、しばらく目を覚まさないだろう。
 雲嵐も例に漏れず、葉雪は彼を背負って建物を出た。

(……にしても、雲嵐を抱えたまま家には帰れないな……。それに今日中に目を覚ますという確証もないし……)

 堕獣騒ぎで街中は騒然としていた。籠で移動することも考えたが、巡衛部隊が馬で街中を走り回っており、駕籠屋は馬を走らせられそうにもない。

 雲蘭の身体を背負い直しながら、葉雪は小さく溜息を吐く。目の前には宿屋の看板。
 『帰らねば』という意志がぐっと揺らぐ。

 久しぶりに神獣の回帰を行い、葉雪の身体は多少なりとも疲れていた。しかしそれ以上に心配なのが、足の古傷だ。
 連日の酷使が祟ったのか、腰まで痛みが上ってくる。今すぐ座り込んでしまいたいが、止まったら二度と歩け出せないような気さえする。

「……おや? お兄さんら、他所の人だろう? 瘴気に当てられたのかい?」

 看板を見つめる葉雪に気付いたのか、女将らしい女性が声を掛けてきた。
 ふくよかな腕が抱えているのは、酒の甕だ。彼女は接客商売としては満点の笑みを浮かべ、葉雪の視線を誘導するように、店の入口を見遣った。

「それならうちで休みなよ。この騒動じゃ暫く動けないし、直に日も沈む。風呂の準備も整っているし、背中のお兄さんも休められるよ」
「……あ~……風呂かぁ……良いなぁ……」

 熱い湯に、今すぐ身体を沈めたい。なによりてっぺんで結わえた髪を解きたい。
 髪の染料は落とせないが、結ばれていた箇所を解すようにに洗えば、どんなに気持ちが良いだろう。
 傾いた心は、このあとに続く女将の言葉に、あっけなく陥落する。

「うちの料理は、特に辛い料理が評判でね。今日は大変だったろう? 酒もあるし、休んでいきな!」
「うん。そうする」

 葉雪が子供のように頷くと、女将は声を出して笑った。

 

 *****

 ぼんやりと視界が明るくなる。しかしまだ、雲嵐の意識は這い上がれないでいた。
 耳に入る音は、ほとんどない。でもの声だけは、小さく聞こえてくる気がする。

 幼いころ大病を患い、雲嵐は聴覚を損なった。
 まったく聞こえていない訳では無い。聴覚が少しでも残ったのは僥倖だったのだろう。
 しかし今となっては、聞こえなくなった方が良かったと、雲嵐は痛烈に思ってしまう。

 周囲の人々は雲嵐を障がい者として認識し、憐みの目を向ける。しかし聴力が残っているという理由で、通常の男子と同じような教育を受けさせられた。

 介助者が当てがわれる事はなく、当然ながら同世代の男子には何もかもが追いつかない。
 指導者から理不尽な扱いを受け、同級生からはいつも嘲笑の的となっていた。

 ひたすら努力して彼らを追い越しても、科挙を受ける資格は得られなかった。しかし戦場に行く義務は果たせと言われる。

 要求と待遇が食い違うのはいつもの事で、歯を食いしばって耐えたことも、大抵は無に帰してしまう。

 目は悪くない筈なのに、常に霞みがかったような人生だった。
 出兵が決まった時には、ようやく終われると思ったくらいだ。

 そんな時、白劉帆という料理人に出会った。

 厨房から出てきた彼を見た時、自分はこの人に会うために生まれてきたのだと、直感的に悟った。
 その直感が確信に変わるのは早かった。
 白劉帆は、雲嵐にとって一切の揺らぎがない存在で、なにものにも代えられない人となる。

 それからの日々は、晴れ晴れとしたものになった。
 霞みは去り、陽の光が差す。色彩は鮮やかになり、目に入るものが何もかも綺麗だった。
 全て白劉帆のお陰だ。

 彼の姿を見ることがなくとも、作った料理を食べるだけで心が癒された。刺激が強い料理であるのに、愛おしくて仕方がなかった。

 自分は、ずっと前からこの料理を知っている。
 食べたことがある。
 愛でたことがある。

 そんな気がしてならなかった。

 見たことも無いのに、鍋を振るう白劉帆の姿が目の奥に甦る事もあった。
 彼は鉄勺で鍋底を撫でながら、ちらりとこちらを見る。その視線が優しい事も、どうしてか知っていた。

 名を呼びたい。その瞳を逃したくない。
 雲嵐はいつだって、彼の名が知りたかった。
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