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第8章
121 目覚め
しおりを挟む『……ぅ……なん…だ…』
夜会で倒れて三日目の朝、アシュリーはやっと意識を取り戻す。
言葉を発したつもりでいるのに、声が出て来ない。喉に何かが張りついて遮られているかのようで、辛うじて開いた口からは空気が虚しく漏れるだけだった。
目を開けようにも、上瞼と下瞼は縫いつけられたみたいにびくともせず、瞼越しに明るい光を感じるのみ。身体は鉛のように重く自由が利かない。
『…ここ…は…?』
声を出せないアシュリーの問いに答えてくれる者はいない。先ずは、この静かな周りの様子を探ろうと、視覚以外の全神経を集中させていく。
どこか覚えのある軽やかで澄み切った空気と、背中側がマットに深く沈み込んでいる感覚。唯一動かせる手に触れたシーツと毛布らしき柔らかな布地から、ベッドに寝かされているのだと分かる。
『…まさか…倒れた?…そうだ、夜会…』
煌びやかなパーティーの情景がパッと脳裏に浮かぶ。久しぶりに大勢の人前へ出て、違和感を抱きながら好奇の眼差しを嫌という程浴びた。
派手に着飾った貴族令嬢たちと接触するミスを犯した覚えはないが、そう断言するには記憶がかなり危うい。
『…何日…経っているんだ…』
おそらく…ここは聖女宮の治療室。
体調不良で倒れると、治療を受けても大概はこうした重苦しい気分で目覚めを迎える。過去に経験した状況と同じならば、意識を失って担ぎ込まれたのだろう。ただ、あまりにも状態が悪かった。
目は開かず声を出せない上に、頭がズキズキと酷く痛む。これでは、どんな考えも纏まらない。長い時間責め立てられ、脳が疲れ果てて思考が停止した後のような…不快で気怠い疲労感に襲われる。
『クソ…本当に…忌々しい』
また、あの悪い夢を見ていた時のことを思い出す。
─ レティシアは? ─
最後に一緒にいたのはレティシアだったはず。大事な話をしようと心に決めて、彼女を探し出し、それから…どうなったのかがよく分からない。急に倒れて失態を晒したことだけは確かだ。
レティシアの名であれば呼べる気がして、アシュリーは腹の底に力を込め、喉の奥から声を絞り出した。
──────────
朝の七時。冷えた栄養ドリンクを手にしたレティシアが軽い足取りで治療室へ戻ると、アシュリーの小さな呼び声が聞こえて来る。
時折耳にするうわ言や呻き声よりも、幾分はっきりとしていて聞き取りやすい。レティシアは、パタパタとベッドへ小走りで向かう。
「殿下、呼んでいましたか?私はここにいます、安心してください。…熱はどうかしら?少しお身体に触れますよ」
いつも通りに声を掛け、艷やかな漆黒の前髪をそっと撫でて頬を両手で包み込んだレティシアは、自分の額とアシュリーの額をピタリとくっつけた。
「うん…熱は完全に下がりましたね、よかった!そろそろ、お目覚めになりませんか?私も皆も、殿下を待っております」
アシュリーの頭と上半身を器用に抱きかかえて手際よく背中に毛布や枕を挟み込み、魔力香を確認しながら長い髪を掬い取って整えていく。体調や感情のバロメーターとなる魔力の香りでも、彼の回復を知ることができる。
「お薬を飲んで、水分補給もいたしましょう」
口移しが上達したレティシアは、今では薬を一回で完璧に飲ませられるようになった。栄養ドリンクは薬の前後に分けて与えるため、この一つの工程で最低三回…口付けという名の医療行為が必要になる。よって、回数が十回を超えた辺りで数えるのはやめた。
一度口に含んだ冷たい栄養ドリンクは程よい温度となり、アシュリーの口の中へすんなりと吸い込まれていく。
「ん?…よく飲みますね」
六回目の魔法薬。薬を口にすれば強請るように唇に吸いついて離れないこともあるのに、今朝は飲み込んであっさりと終わる。一番上手くできたと喜びたいところではあるが、スムーズ過ぎて逆に気になった。
(こんなのは初めてよね。気のせいじゃないわ)
レティシアは、重なった唇から伝わって来るわずかな感情を読み取ろうと、最後の栄養ドリンクを口に含んでアシュリーの咥内を少し刺激してみる。
──────────
アシュリーは、段々と近づいて来る聞き覚えのある足音に耳を澄ます。
「殿下、呼んでいましたか?私はここにいます、安心してください」
─ レティシア! ─
レティシアの声が聞こえた途端、アシュリーの心臓が大きく揺れ動いた。それをきっかけに、全身へ勢いよく血が巡って力が漲る。鬱陶しい頭痛が息を潜め、頭の中の靄が晴れて徐々に鮮明になっていく。
どこからか嗅いだことのない甘い香りが漂い、その香りに気を取られていると、両頬を手で挟まれ額にコツンと温かいものが当たった。
瞼にフッと吐息がかかり、レティシアがすぐ側にいるのだと感じたアシュリーはベッドから跳ね起きようとするのに、身体が全く言うことを聞かない。
─ 何が起きているんだ? ─
持ち上げられた動かない身体と顔に、容赦なく豊満な胸が押しつけられている。目を閉じていても、プルプルとした弾力は疑いようもない。混乱するアシュリーを置いてけぼりにして、レティシアはマイペースにことを進めて行く。
─ 待て…ちょっと、待ってくれないか ─
薬を飲むと聞こえた後は、柔らかな唇と熱い舌を受け入れるしかなかった。心の準備もできず、口移しで与えられるものを夢中で飲み込む。深い口付けに戸惑って、味も何もあったものではない。
─ ん…?…なっ…?! ─
突然、レティシアの舌がチロチロと咥内を動き始める。敏感な上顎を舌先でそっとくすぐるように舐められて、重い身体の芯がブルリと震えた。このまま続けられては堪らない。アシュリーは、妖しく蠢く舌を追い掛けては押さえ込んで抵抗する。
「…ふっ…んん…っ…」
魅惑の口付けで攻めて来たレティシアが悩ましい声を漏らしたかと思うと、スッと唇が離れていった。
ホッとしたような、寂しいような…下半身の一部が火照って窮屈で切ないような。惚けて半開きになった唇と溢れた唾液を布で優しく拭われれば、もう彼女の唇が恋しい。
─ レティシア、私は…目覚めているよ ─
──────────
「…ふぅ…」
アシュリーの口元を聖水で清め、レティシアはゆっくりと呼吸を落ち着かせる。
彼の舌の反応には意志が働いていた。もしかすると、意識はあるのに身体に不具合があって知らせることができないのかもしれない。
「…殿下…目覚めていらっしゃるのですか?もしそうなら、私の手を握ってください」
そう問いかけつつも、半信半疑でレティシアがアシュリーの手を取ると、ギュッと強く握り返して来る。
「えっ…ええっ!!…う、うそっ?!」
今までにない力強さに、びっくりして大きな声を出す。
「本当に?!…殿下、私が分かりますか?レティシアです!」
握った手へさらに強く力が加わると、レティシアはその手を放り出す勢いで覆い被さるようにアシュリーを抱き締めた。
「殿下っ殿下っ!!…よかった!よかったぁ~~!!」
巻き込まれたアシュリーの手は、レティシアの胸を鷲掴みにする形で挟まっていたのだが…彼女は気付かない。
─ レティシア、君は…無防備過ぎる ─
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