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市井で油断は禁物
化粧道具屋2
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小部屋に移ってきた姫棋と周珉《しゅうみん》はさっそく化粧の試し塗りをはじめる。
周珉は鏡に向かうとまず白い粉を頬にはたいたのち、黛《まゆずみ》を慣れた手つきで引いていった。
眉の形というのは流行りすたりが大きいらしいが、いつの時代でも人気があるのは細い柳眉だという。今周珉が描いているのも細い柳のような眉だ。やや緑がかった黒は、彼女の肌色に良く馴染んでいた。
「あなた、あまりお化粧はしないの?」
周珉は鏡に向かったまま、横にいる姫棋に話しかけた。
「面倒なので」
「そう。でも、お化粧しなくてそれなら羨ましいわ」
言いながら、今度は薬指で紅をとって唇にのせていく。
姫棋はそれを見つめながら、周珉に言った。
「化粧って、男を寄せるためにするものでしょう。わたしは嫁に行く気ないですからね」
「あら、あたしといっしょね。あたしもお嫁に行きたくないって言ってるのに、兄さんたらほんとしつこいの」
とその時、窓の向こうから大きな声が聞こえた。
「誰かー! 珉ー!珉やあ!」
その声に、弾かれたように周珉が立ち上がった。
ちょっと待ってて、と言いながら部屋の外へ飛び出していく。
待っていろと言われても、ただならぬ雰囲気にじっとはしていられなかった。姫棋も彼女を追いかける。
すると庭を挟んで向こうの棟から、女が這いつくばりながら出てこようとしているのが見えた。
周珉はその者のところへ駆けていく。姫棋も庭を突っ切り走って追いかけた。
「母さん。汚れちゃったのね。大丈夫よ、すぐ綺麗にするから」
そう言いながら、周珉は床《ゆか》に這いつくばっているやせ細った女を抱え起こそうとしていた。慣れた手つきではあったが、女の方は力が入らないのか足が震えている。
見かねて姫棋も周珉の反対側から女を支えた。
姫棋と周珉で女を抱え、何とか牀《ベッド》に寝かせる。
「ありがと。後は私一人で大丈夫だから」
そう言われても、姫棋は本当に離れていいものか迷ってしまう。しかし周珉に再度力強く大丈夫だと言われ小部屋に戻った。
姫棋は一人椅子に腰かけ、先ほどの衝撃的な光景に思いを巡らせる。
(あの人は)
周珉の母親なのだろう。
ずいぶんやせ細って、一人で排泄もままならない様子だった。
周有が「周珉に家のことは任せていた」と言っていたのは、あの母親の面倒を看させていたということだったのだろう。
姫棋が周珉の苦労をおもんばかっていると、彼女が額の汗をぬぐいながら部屋に戻ってきた。
「見苦しいものを見せてごめんなさいね」
姫棋はゆるゆると首を横に振る。
「さっきの方は、お母さま?」
「ええ。病気でね。足が震えて歩けないの」
最近では歩けないばかりか、よく食べ物をのどに詰まらせるようになってきているらしい。頻繁に熱も出すようになり、医者の話だとこの病の者が熱を出し始めると、いよいよ余命は短いとのことだった。
「あなたが一人でお母さまを看てるいるんですか?」
「うんまあね。昔は下女がいたんだけど、今はうち下女を雇うお金なんてないから」
周珉は鏡に向かっておしろいを塗り直しながら、何でもないことのように言った。
「母さんの薬代にたくさんお金使っちゃったの。結局どの薬もあんまり効かなかったけど」
そこで姫棋はあることに思い至った。
「もしかして嫁に行きたくないのって、お母さまが心配で?」
すると周珉は、そうね、と小さく肩をすくめた。
「本音を言うとね、お嫁に行きたくない訳じゃないの。いつかはあたしだってお嫁に行きたいと思ってる。でも今は……。母さまがあんな状態なのに、放り出して嫁になんかいけないわ」
そう言う周珉は手元の化粧道具をじっと見つめていた。
「確かにお相手の陳様は、あたしにはもったいないくらいの人よ。この機会を逃したら、もうこんないい縁談ないかもしれない。でもね、母さまと今離れたら、母さまにはもう二度と会えなくなる」
「お母さまは何て?」
「……嫁に、行って欲しいって」
姫棋は自分も姐《あね》に同じことを言われたのを思い出した。
姐も死に際、姫棋にそう言って死んでいった。どうか良い人を見つけて幸せになって欲しい、と。
「でもあたしは、少しでも長く母さまのそばにいたいのよ。そう思うのは、駄目なのかしら」
周珉はその美しい眉尻を下げ、儚げに微笑んだ。
「駄目では、ないと思います」
母を想ってそばにいたいと思うことが、駄目なわけない。
でも、周珉は本当は嫁にも行きたいのだ。そして母のことを想うあまり、それを諦めようとしている。
(何かを手に入れるには、何かを捨てなければならないのか)
どちらも手に入れようとするのは、我儘で、欲張りで、いけないこと。なのだろうか――。
姫棋はそんなことを考えながら、木蓮のいる客間へと戻った。
周珉は鏡に向かうとまず白い粉を頬にはたいたのち、黛《まゆずみ》を慣れた手つきで引いていった。
眉の形というのは流行りすたりが大きいらしいが、いつの時代でも人気があるのは細い柳眉だという。今周珉が描いているのも細い柳のような眉だ。やや緑がかった黒は、彼女の肌色に良く馴染んでいた。
「あなた、あまりお化粧はしないの?」
周珉は鏡に向かったまま、横にいる姫棋に話しかけた。
「面倒なので」
「そう。でも、お化粧しなくてそれなら羨ましいわ」
言いながら、今度は薬指で紅をとって唇にのせていく。
姫棋はそれを見つめながら、周珉に言った。
「化粧って、男を寄せるためにするものでしょう。わたしは嫁に行く気ないですからね」
「あら、あたしといっしょね。あたしもお嫁に行きたくないって言ってるのに、兄さんたらほんとしつこいの」
とその時、窓の向こうから大きな声が聞こえた。
「誰かー! 珉ー!珉やあ!」
その声に、弾かれたように周珉が立ち上がった。
ちょっと待ってて、と言いながら部屋の外へ飛び出していく。
待っていろと言われても、ただならぬ雰囲気にじっとはしていられなかった。姫棋も彼女を追いかける。
すると庭を挟んで向こうの棟から、女が這いつくばりながら出てこようとしているのが見えた。
周珉はその者のところへ駆けていく。姫棋も庭を突っ切り走って追いかけた。
「母さん。汚れちゃったのね。大丈夫よ、すぐ綺麗にするから」
そう言いながら、周珉は床《ゆか》に這いつくばっているやせ細った女を抱え起こそうとしていた。慣れた手つきではあったが、女の方は力が入らないのか足が震えている。
見かねて姫棋も周珉の反対側から女を支えた。
姫棋と周珉で女を抱え、何とか牀《ベッド》に寝かせる。
「ありがと。後は私一人で大丈夫だから」
そう言われても、姫棋は本当に離れていいものか迷ってしまう。しかし周珉に再度力強く大丈夫だと言われ小部屋に戻った。
姫棋は一人椅子に腰かけ、先ほどの衝撃的な光景に思いを巡らせる。
(あの人は)
周珉の母親なのだろう。
ずいぶんやせ細って、一人で排泄もままならない様子だった。
周有が「周珉に家のことは任せていた」と言っていたのは、あの母親の面倒を看させていたということだったのだろう。
姫棋が周珉の苦労をおもんばかっていると、彼女が額の汗をぬぐいながら部屋に戻ってきた。
「見苦しいものを見せてごめんなさいね」
姫棋はゆるゆると首を横に振る。
「さっきの方は、お母さま?」
「ええ。病気でね。足が震えて歩けないの」
最近では歩けないばかりか、よく食べ物をのどに詰まらせるようになってきているらしい。頻繁に熱も出すようになり、医者の話だとこの病の者が熱を出し始めると、いよいよ余命は短いとのことだった。
「あなたが一人でお母さまを看てるいるんですか?」
「うんまあね。昔は下女がいたんだけど、今はうち下女を雇うお金なんてないから」
周珉は鏡に向かっておしろいを塗り直しながら、何でもないことのように言った。
「母さんの薬代にたくさんお金使っちゃったの。結局どの薬もあんまり効かなかったけど」
そこで姫棋はあることに思い至った。
「もしかして嫁に行きたくないのって、お母さまが心配で?」
すると周珉は、そうね、と小さく肩をすくめた。
「本音を言うとね、お嫁に行きたくない訳じゃないの。いつかはあたしだってお嫁に行きたいと思ってる。でも今は……。母さまがあんな状態なのに、放り出して嫁になんかいけないわ」
そう言う周珉は手元の化粧道具をじっと見つめていた。
「確かにお相手の陳様は、あたしにはもったいないくらいの人よ。この機会を逃したら、もうこんないい縁談ないかもしれない。でもね、母さまと今離れたら、母さまにはもう二度と会えなくなる」
「お母さまは何て?」
「……嫁に、行って欲しいって」
姫棋は自分も姐《あね》に同じことを言われたのを思い出した。
姐も死に際、姫棋にそう言って死んでいった。どうか良い人を見つけて幸せになって欲しい、と。
「でもあたしは、少しでも長く母さまのそばにいたいのよ。そう思うのは、駄目なのかしら」
周珉はその美しい眉尻を下げ、儚げに微笑んだ。
「駄目では、ないと思います」
母を想ってそばにいたいと思うことが、駄目なわけない。
でも、周珉は本当は嫁にも行きたいのだ。そして母のことを想うあまり、それを諦めようとしている。
(何かを手に入れるには、何かを捨てなければならないのか)
どちらも手に入れようとするのは、我儘で、欲張りで、いけないこと。なのだろうか――。
姫棋はそんなことを考えながら、木蓮のいる客間へと戻った。
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