蝶の水槽

折原ノエル

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水泡

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 ゆらりと、泡が上っていく。
 大きな水槽のあちらこちらから、中に大きく空気を含んだものは形を変えながら、小さいのは幾つか集まって、泡が上っていく。

 大きな黒い揚羽蝶が光の粒を纏わせた泡を生み出しながら目の前を通り過ぎる。
 凝視めているとふわふわと上下する動きに合わせて眩暈がする。
 普通の揚羽蝶や瑠璃揚羽、シジミもいる。「シジミ」と云っても貝の方ではなく小さいと云う意味の方のグレイパープルの蝶の群れが庄司さんのデスクの鉢植えのピンクの花に泊まっている。多分アフリカ辺りの大きな蝶々も。私が名前を知らない蝶々がそこかしこをひらひらと舞っている。

 プリンターからゆらゆらと紙が吐き出されるのに合わせて、デスクのパソコンを打つのに合わせて。人が歩いていく後からも泡は順序よく生み出され階段状に上っていく。
 人の口からも掻き上げる髪の隙間からも、無数の泡は生まれて水面に漂う。

 個人のデスクの上に置かれたプランターや、業者の管理する植物からも。
 そして床やデスクに直接生えている水草からも。水草が生えていて花弁の間や葉っぱから泡がぷくぷくと生まれてる。

 
 都心の一等地にある瀟洒なオフィスは巨大な水槽だった。


 こんな大きな水槽の中でも、息苦しいのは私だけの様で、皆んな平気な顔をして其処に居る。

 庄司さんは課長とずっと話しているし、口や手元から泡が出てる人たちもデスクに向かって仕事に余念がない。パソコン画面を見詰める雪乃さんの髪には揚羽蝶が泊まってる。莉子さんに至っては、優雅にくるくるとオフィスの中を所狭しと泳ぎ回っている。床から足が離れているのはこの人だけだけれども。
 そこに社長がやって来た。後ろに秘書の方々を引き連れている。
 社長は黄金ドクロだ。
 一際大きな泡が口元から出てる。後頭部も剥き出しなのでそこからも大きな泡が出てボコボコ言ってる。皆んなのお喋りは水を通して聞き取り難くても分かるのに社長の声は聞き取れない。時々大きな声で笑うのだけは分かる。
 多分他の人はそんな事はなくて、庄司さんは課長や部長より先に社長の元に駆けつけ、莉子さんも流石に泳ぎ回るのを止めて地に足を着けた。

 これが間違っているのか分かっている。
 でも何が間違って、こうなっているのかが分からない。だから正し方が分からない。正すのが正しいのかも分からない。
 皆んなは楽しそうだ。



 私のパソコンも作業するごとに泡が上ってく。水泡が生み出されないのは私の隣のデスクだけだ。そこはもう皆んなの一時的な物置き場になってしまっている。書類や取り敢えず今は要らない物がうず高く積み上げられている。

 私は今日も大きく溜息を吐く。その溜息もコポコポと泡になって消えていった。

 その事にもまた溜息を吐いてしまう。うんざりする様なループが始まりそうだったので溜息を吐くのはやめた。
 プールや海ならば平気なのに、息もし辛いし、泳ぐ事も出来ない。それはここが水槽だからだろうか。


 昼休み、何処からか荘厳な鐘の音が響いて来て、私は腰の所でVの字になってクルクルと回り始め、上昇する。
 こんな風に飛んでいく植物の種子があったなぁ。出勤の時は普通に玄関から入れるのに何で昼休みご飯食べに行く時はこんな?

 屋根など無く青い空が広がっている。
 オフィスの人たちも思い思いの格好で水中を上っていく。朝と同じに扉から普通に出て行くのは課長だけだ。
 水面では上ってきた泡が音を立てて弾け、皆んなは器用に外に飛び出すが、私はヨッコラショとプールの縁に手を掛ける。
 不思議な事にどこも濡れてない。
 そこには、
「生きてるかい」
 影山さんが皮肉な笑みを浮かべながらその手を伸ばして来た。
「苫子、今日も息絶え絶えね」
 碧子も一人では這い出られない私の手を取ってくれる。
 私が本音で話せる数少ない人の内の二人。
 彼等のお陰で今日も私は巨大な水槽から出る事が出来た。

 そのまま二人に手を引かれる様にして、いつものカフェに行くと、碧子の彼の城戸くんが待っていた。
 水槽の外は初夏の清々しい空気で、私は大きく深呼吸出来る。
 テラスの木の影で四人で丸テーブルを囲み、緩やかな風にくすぐられていると、一人のスマートな女性が現れた。
 首藤環。昨日彼女は夜遅く迄社外で仕事があったので今日は昼出勤だ。
 首藤女史は私たちの教育係で、この人で良かった~と思える様な人だが、私は身構えた。嫌な予感通り、彼女は私を見付けてこちらにやって来る。
 そして、立ち上がろうとする私を制して、
「雨見くんのお見舞いには行った?」
 首を横に振ると、少し困った様に微笑んで、後はその事に触れず当たり障りのない話をして、
「じゃあオフィスで」
 行ってしまった。
「まだ見舞い行ってないのか」
 影山さんは首藤女史と違ってあからさまに呆れた様に非難して来た。
「もう貴方だけなんでしょ。皆んな入室拒否されたんだから、苫子だって入れてもらえないだろうから、会わなくて済むって。面倒がってないで病院までは行けば?」
 碧子もこの件に関しては私に味方してくれない。
「病院行くだけで面目立つだろ」

 隣のデスクが頭を過ぎる。
 積み上げられた書類。泡も出ないし、蝶も集らない。
 そこだけファンタジーが存在しない。

「そこの主のさ、デスクのね。居なくなって資料やら書類やらが山積みになってるのと、綺麗に片付けられてお花飾ってるのとどっちが酷いと思う?」
 酷いのは見舞い行ったことのない私か。
「皆んな行ったんだろ?」
 私の知ってる限り。
「何でそんなに見舞いが嫌なの? 俺の知ってる人?」
「うん、一度会ったと思うよ」
「嫌なら無理しなくて良いんじゃないか」
 城戸くんは優しいけど距離を置いてたい。
「ぐだぐだ言ってないで行けば? 行かなくてもずっとその事が頭から離れないんだろ」
 影山さんは優しくないけど二人きりになるの平気だ。彼は城戸くんの先輩で、知り合いの立場だったのに、碧子抜きで会ったりもする。

「倒れて入院した時一番傍に居た人間に問題あると思うじゃない」
「誰もそんな事思わないって、考え過ぎ」
「思ってたとしても良いだろうが」
「一緒に行こうか?」
 幾ら友達でもそこまで甘えられない。
「それはいいよ。でもお見舞い選ぶのは手伝って」
 私はまた大きく溜息を吐いた。
 外は水泡が出来なくて好い。

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