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溜息
しおりを挟む季節外れの台風が来ていた。
家を出る頃は小降りだった雨は病院に着く時にはかなりの大降りになっていて、何もこんな時でなくても良かったとも思うのだけど、また言い訳ばかりになって実行に移せない気がしたので完全防備で家を出た。
雨雲が厚く垂れ込め、土砂降りの雨は強い風を伴って視界を塞ぎ、傘は既に用を為さなくなったので私の腕の中で荷物になっている。見舞いの品は家を出る前に諦めた。
今が昼なのか夜なのか。
病院の灯りが不安気にチカチカ点滅している。
病院は水槽じゃない事にほっとしたが、薄暗い中の人工の明かりに照らされて、蜥蜴が受付のカウンターをチョロチョロしている。足跡を七色のスタンプにして残していく可愛い姿を目で追いかけていると、受付の人に声を掛けられた。
不審がられる前にお暇しよう。
紙に名前やら何やらを書いて渡すと、フリガナを振っているのに関わらずいつもの通り聞き返された。
「これは何でお読みするんですか? 『ヒキトマコ』様でよろしいですか?」
名前の確認だけで帰されると思ったが、奇妙な顔で、彼の入院してる病室を教えられる。今までの見舞客は全て断られてる筈だから、当然か。
また溜息を吐いてしまいそうになるのを抑え、お礼を言ってエレベーターに向かう。
エレベーターを降りた所で廊下が長く続いていた。天井はなく、その先、突き当たりには壁もなかった。
そして壁のない向こうには青空が広がっている。台風の中心に入ったと云うのではないだろう。想像でしかないが此処は雨なんて降らないに違いない。
廊下と病室を隔てる為の壁はあるが、病室のドアもない。ドアのスペースに空間がある。
病室に入ると、やはり天井も外を隔てる壁もなく、其処に見える筈の建物もない。
青い空を白い雲がゆったりと流れていく。
部屋は広々としていて、ベッドはカーテンで仕切られている。
雨見くんはすぐに見つかった。と云うより、彼しか居ない。幾つものベッドが並んでいるが人が見えない。
他の人の気配はする。咳や色々な音も聞こえてくるが、私に姿が見えるのは雨見くんだけだ。そう云うシステムなんだろう。
ベッドに身を起こして彼は、白いシャツにネクタイを締めている。下は布団の中だがスラックスを履いてるんだろうな。肩に蜥蜴が乗っかっていて、見ていると背中の方に消えていった。白いシャツにカラフルな足跡のスタンプを残して。
きっちりと背を伸ばして、綺麗な顔は相変わらず。青白いがもともと腺病質な感じのする人なので今が良い状態なのか具合悪くしているのかどうなのかよく分からない。
「久しぶり」声を掛けて椅子に座る。「いつ出て来る?」
私たちは二人とも順調だった。同じ新入社員で首藤環女史が指導係。仕事もすぐ覚えて人間関係も良好。
でも。
悪い事はなかったが、凄く好い事もなかった。ドラマティックな事なんて何も起こらない。起こらないと気付いて、ドラマティックな事を夢見てたんだと分かった。
こんなものかと思ってしまった。
彼は具合を悪くして、私はオフィスが水槽に見える様になってしまった。
「雨見くんが入院する前日に私たちお昼に会ったでしょ」
「ああ、日岐さん、友達と一緒だったね」
「私の事好きな訳じゃないでしょ」
きょとんとした顔で
「君のことは好きだよ?」
ほらやっぱり好きじゃない。
色々言われたのだ。同僚にも一緒に居た友達にも。
彼の入院した前日に、ランチしてた私達と彼が出食わした事は何処からか広がって。男と女2対2だったので、色々誤解した雨見くんがショックで病気になってしまった、と云う事になった。
ショックはショックなんだけど、それはそう云うショックなんじゃない。
私には分かった。
私達は似ているのだ。それは気付いていたけれど。
だから分かってしまった。
私達四人を見て、彼は気付いた。
自分の限界に。
自分の幸せの限界に。
私達に起こる筈の小さな幸せがツマらない事だとはその状況になってみないと分からないのだけれど、溢れている情報や知識が、こんなツマらないものはないのだと囁きかける。
何か特別な事を夢見ていても無駄だと。
其処にはスパイも殺し屋もいない。
ストレスも問題もある。でも小さな犯罪の芽すらない。
あるのかも知れないが、私達には分からない。気付けない。
ヤワな私達には乗り越えられるヤワな問題しか起こらない。
「小さな頃は夏休みは楽しかったんだけどね。特別な事しなくても」儚げに彼は微笑む。「プールも虫取りも花火も楽しくてしょうがなかった」
其処では未来に希望があったから。
大冒険もある筈だった。
だから私達は逃げ込んだ。
衝動に突き動かされる前に。
自分が問題自身になる前に。
誰か、大切な人を、大切になる筈の人を傷つける前に。未来の愛しいもの全てを失う前に。
劇的な変化のストレスに耐えられる事なんか出来ないヤワな私は溜息を深く大きく多くするしかないのだ。
溜息を我慢しながら外に出ると、
「よお」
雨雲に隙間が出来て、影山さんが手を振っていた。
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