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After 4. 白いバラの庭で――父と娘のひととき
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春の風が、まだ冷たさをわずかに残していた。
ロシュフォール家の騒動が終わって、数ヶ月。
冬の名残が薄れつつある王宮の裏庭は、静かに新しい季節を迎えようとしていた。
その中心に――「誠実の庭」がある。
クラリッサは、早朝の光を浴びながら土を整え、若葉に指先を触れた。
枝先は柔らかく、まだ頼りない。けれど、確かな生の香りがした。
深く息を吸い込む。
土の匂いと、朝露の冷たさ。
それらが胸の奥にすとんと落ちていく。
この庭は、彼女が管理を任されている。
とはいえ、監督役として名を置かれているだけで、実際には庭師たちが手を入れてくれている。
クラリッサはその全体を見渡し、ひとつひとつに目を注ぐだけだ。
誰もいない時間を選んだのは――静けさのため。
そして、庭の中央に移植された一本の白いバラのためだった。
それは、父……エインズワース公爵から“母の好きだった花”だと教えられたもの。
クラリッサには、母・エリザベラの記憶はほとんどない。
けれど、この白いバラに顔を寄せると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。
(母上は……どんなお声で、どんなふうに笑われたのかしら)
思い出せない。
思い出せないことが、今朝はいつになく寂しかった。
白い花弁をそっと指に挟んだとき――背後の空気が、ふっと変わった。
クラリッサは振り返る。
そこに立っていたのは、朝の光を背にしたエインズワース公爵だった。
「……父上?」
こんな時間に外へ出ることは珍しい。
驚いた声を抑えたつもりだったが、わずかに漏れてしまう。
公爵は何も言わず、歩みを進める。
靴音は控えめで、朝の空気を乱さない。
その姿は、昔から変わらない“静寂の一部”のようだった。
クラリッサは自然と姿勢を正した。
けれど、父は近づいても彼女には目を向けず――庭の中央、白いバラへと視線を落とした。
その横顔に、わずかな陰が射す。
「……お前の母は、あれが好きだった」
短い一言だった。
しかし、白い花弁が揺れたのは、風のせいだけではなかった。
クラリッサの胸の奥にも、静かな震えが波紋のように広がっていく。
春の庭の光が、ゆっくりと二人のあいだを満たしていった。
◇◇◇
白いバラの前で言葉を失ったまま、クラリッサは父の横顔を見つめていた。
エインズワース公爵――エドガーは、深く息を吸い込む。
その仕草すら静かで、庭の朝の気配と溶け合うようだった。
「……少し、時間がある」
それだけを告げると、父は近くのベンチへと歩を進めた。
クラリッサは一瞬ためらってから、その横に静かに腰を下ろす。
父が自ら庭へ足を運ぶことは滅多にない。
まして、ただ“時間がある”と言って座るなど――思い当たる例がなかった。
けれど、父の気持ちが少しわかるような気がした。
クラリッサは父の目線を追って、白いバラを見つめる。
彼の沈黙は、言葉を拒んでいるのではなく、言葉を選んでいる沈黙だ。
風が通った。
若葉がそよぎ、白い花弁が光をはじく。
その音を聞くように、父はぽつりと呟いた。
「……エリザベラが亡くなったのは、お前が幼いころだ」
クラリッサは、そっと息を吸う。
父の口から母の名が出る。それだけで胸が強く揺れた。
「母上は……どのような方だったのですか」
かろうじて搾り出した声は、自分のものとは思えないほど細かった。
父はしばらく応えず、視線を庭の緑に置いたまま続ける。
「静かな人だった。
国の交渉ごとに関わる家の妻として、必要以上に表へ出ることはなかった。
だが……誠実だった。あの人はいつも、誠実であろうとした」
短い呼吸。
その後につづく言葉に、温度がわずかに宿った。
「庭の手入れをするとき、よく鼻歌を歌っていた」
クラリッサは目を瞬いた。
鼻歌――とても、柔らかい情景だ。
「お前は、その背を追いかけて……よく転んで泣いていた」
思い出はない。
けれど、胸の奥にふっと灯りがともるような感覚があった。
父の声は、ほとんど変わらない。
だが、その沈黙の間に、確かな揺れがあった。
(……覚えていない。私は、何も……)
クラリッサは膝の上で指を組んだ。
“覚えていない”という事実が、こんなにも寂しいものだとは思っていなかった。
母から何を受け継いだのか。
自分のどこに、その面影があるのか。
考えれば考えるほど、胸の奥がきゅうと締めつけられる。
そんな彼女の変化を見ていたかのように――
父は静かに、しかし揺るぎなく言った。
「……お前の誠実には、エリザベラの面影がある」
クラリッサは、はっと顔を上げる。
「父上……?」
白いバラがひらりと揺れ、朝の風が二人の間を通り抜ける。
その一瞬だけ、世界の音が遠くなったように感じた。
胸の奥に広がる温かさと、少しの安堵。
そして、そこに混ざる言葉にできぬ震え。
クラリッサは、そっとまぶたを閉じた。
母の記憶がなくても――
“誠実”が、たしかにつながっているのだと知ったから。
◇◇◇
白いバラのそばに座る父の横で、クラリッサは小さく息を吸った。
庭を吹き抜ける風が、枝葉を揺らしていく。
低く、柔らかな音が耳に届く。
しばらく沈黙が続いた。
けれど、それは重苦しいものではない。
父と共有する、静かな“間”だった。
クラリッサは胸の奥で言葉を温め、
やがてそっと父へと向き直った。
「……父上。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
エインズワース公爵――エドガーは、ほんのわずかに視線を娘へ向けた。
問いを促す、静かな合図。
「……婚約破棄を願い出たとき、父上は……なぜ反対しなかったのでしょうか」
問いが空に放たれた瞬間、
庭の空気がひんやりと澄んだ。
父はすぐには答えなかった。
揺れる白いバラ。
葉擦れの音。
わずかに冷たい風。
それらのすべてが、父の沈黙を支えるように存在した。
――本当は反対だったのか
――私が無理に押し切ってしまったのか
――娘として、父を悲しませたのではないか
胸の奥に沈ませていた疑問が、静かに浮かび上がる。
父は、ゆっくりと呼吸を整えた。
「……最初は、確かに恐れていた」
クラリッサは目を瞬く。
「お前が沈黙に縛られ、ただ“耐える側”に回るのではないか、と。
噂と同じ速さで心を曇らせ、誇りを見失うのではないか」
その言葉は厳しくも温かかった。
いつか父が言った「止まるな」という言葉を思い出す。
――あれは、こういう意味だったのだ。
クラリッサは指先をそっと組み合わせた。
胸が静かに震える。
「だが――お前は動いた」
父の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「ルーファス殿下を責めるためではなく、
マリアンヌ嬢に勝つためでもない。
ただ“自分の誇り”を守るために、
静かに、しかし決然と歩き出した」
クラリッサは胸の奥が熱くなるのを感じた。
父は、すべて見ていたのだ。
沈黙に沈むかに見えた娘が、自らの足で立ち上がった瞬間を。
風がひとしきり庭を渡り、白い花弁が揺れる。
「……ああいう動き方は、お前の母に似ている」
クラリッサは顔を上げた。
隣に座る父は、わずかに視線を庭へ逸らしている。
「大声を上げず、誰を傷つけることもせず。
それでも、自分が正しいと思う選択だけを置く。
あの人は、そういう人だった」
母・エリザベラの姿が、言葉の中に静かに立ち上がる。
覚えていないのに――胸が震えた。
父はゆっくりと息を吐く。
「……お前の考えを聞いたとき、私は確信した。
これは“誰かを倒すための決断”ではなく、
“お前自身を守るための選択”だと」
クラリッサの喉がかすかに震えた。
私が私であるために下した決断――
それを、父は見届けてくれていた。
「だから私は――反対しなかった」
クラリッサは、はっと息をのみ、父を見つめる。
反対“できなかった”ではなく――
反対“しなかった”。
そこに、父の確かな意志があった。
父はゆっくりと娘へ顔を向ける。
朝の光が、彼の横顔をかすかに照らした。
「いや……正確には、嬉しかったのだ」
クラリッサの瞳が揺れた。
「娘が、誇りを理由に、自ら立ったことが。
そして、母の面影が確かに息づいていたことが」
父の声は、いつもと変わらぬ深さでありながら、
その底に“温度”があった。
「……お前は間違いなく、私とエリザベラの娘だ」
クラリッサは目を閉じた。
胸が熱く、そして静かに満たされていく。
風が吹き、白いバラがそっと揺れる。
誇りは、たしかに受け継がれていた。
母から――そして父から。
静かで、揺るぎない“誠実”として。
――fin.
ロシュフォール家の騒動が終わって、数ヶ月。
冬の名残が薄れつつある王宮の裏庭は、静かに新しい季節を迎えようとしていた。
その中心に――「誠実の庭」がある。
クラリッサは、早朝の光を浴びながら土を整え、若葉に指先を触れた。
枝先は柔らかく、まだ頼りない。けれど、確かな生の香りがした。
深く息を吸い込む。
土の匂いと、朝露の冷たさ。
それらが胸の奥にすとんと落ちていく。
この庭は、彼女が管理を任されている。
とはいえ、監督役として名を置かれているだけで、実際には庭師たちが手を入れてくれている。
クラリッサはその全体を見渡し、ひとつひとつに目を注ぐだけだ。
誰もいない時間を選んだのは――静けさのため。
そして、庭の中央に移植された一本の白いバラのためだった。
それは、父……エインズワース公爵から“母の好きだった花”だと教えられたもの。
クラリッサには、母・エリザベラの記憶はほとんどない。
けれど、この白いバラに顔を寄せると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなった。
(母上は……どんなお声で、どんなふうに笑われたのかしら)
思い出せない。
思い出せないことが、今朝はいつになく寂しかった。
白い花弁をそっと指に挟んだとき――背後の空気が、ふっと変わった。
クラリッサは振り返る。
そこに立っていたのは、朝の光を背にしたエインズワース公爵だった。
「……父上?」
こんな時間に外へ出ることは珍しい。
驚いた声を抑えたつもりだったが、わずかに漏れてしまう。
公爵は何も言わず、歩みを進める。
靴音は控えめで、朝の空気を乱さない。
その姿は、昔から変わらない“静寂の一部”のようだった。
クラリッサは自然と姿勢を正した。
けれど、父は近づいても彼女には目を向けず――庭の中央、白いバラへと視線を落とした。
その横顔に、わずかな陰が射す。
「……お前の母は、あれが好きだった」
短い一言だった。
しかし、白い花弁が揺れたのは、風のせいだけではなかった。
クラリッサの胸の奥にも、静かな震えが波紋のように広がっていく。
春の庭の光が、ゆっくりと二人のあいだを満たしていった。
◇◇◇
白いバラの前で言葉を失ったまま、クラリッサは父の横顔を見つめていた。
エインズワース公爵――エドガーは、深く息を吸い込む。
その仕草すら静かで、庭の朝の気配と溶け合うようだった。
「……少し、時間がある」
それだけを告げると、父は近くのベンチへと歩を進めた。
クラリッサは一瞬ためらってから、その横に静かに腰を下ろす。
父が自ら庭へ足を運ぶことは滅多にない。
まして、ただ“時間がある”と言って座るなど――思い当たる例がなかった。
けれど、父の気持ちが少しわかるような気がした。
クラリッサは父の目線を追って、白いバラを見つめる。
彼の沈黙は、言葉を拒んでいるのではなく、言葉を選んでいる沈黙だ。
風が通った。
若葉がそよぎ、白い花弁が光をはじく。
その音を聞くように、父はぽつりと呟いた。
「……エリザベラが亡くなったのは、お前が幼いころだ」
クラリッサは、そっと息を吸う。
父の口から母の名が出る。それだけで胸が強く揺れた。
「母上は……どのような方だったのですか」
かろうじて搾り出した声は、自分のものとは思えないほど細かった。
父はしばらく応えず、視線を庭の緑に置いたまま続ける。
「静かな人だった。
国の交渉ごとに関わる家の妻として、必要以上に表へ出ることはなかった。
だが……誠実だった。あの人はいつも、誠実であろうとした」
短い呼吸。
その後につづく言葉に、温度がわずかに宿った。
「庭の手入れをするとき、よく鼻歌を歌っていた」
クラリッサは目を瞬いた。
鼻歌――とても、柔らかい情景だ。
「お前は、その背を追いかけて……よく転んで泣いていた」
思い出はない。
けれど、胸の奥にふっと灯りがともるような感覚があった。
父の声は、ほとんど変わらない。
だが、その沈黙の間に、確かな揺れがあった。
(……覚えていない。私は、何も……)
クラリッサは膝の上で指を組んだ。
“覚えていない”という事実が、こんなにも寂しいものだとは思っていなかった。
母から何を受け継いだのか。
自分のどこに、その面影があるのか。
考えれば考えるほど、胸の奥がきゅうと締めつけられる。
そんな彼女の変化を見ていたかのように――
父は静かに、しかし揺るぎなく言った。
「……お前の誠実には、エリザベラの面影がある」
クラリッサは、はっと顔を上げる。
「父上……?」
白いバラがひらりと揺れ、朝の風が二人の間を通り抜ける。
その一瞬だけ、世界の音が遠くなったように感じた。
胸の奥に広がる温かさと、少しの安堵。
そして、そこに混ざる言葉にできぬ震え。
クラリッサは、そっとまぶたを閉じた。
母の記憶がなくても――
“誠実”が、たしかにつながっているのだと知ったから。
◇◇◇
白いバラのそばに座る父の横で、クラリッサは小さく息を吸った。
庭を吹き抜ける風が、枝葉を揺らしていく。
低く、柔らかな音が耳に届く。
しばらく沈黙が続いた。
けれど、それは重苦しいものではない。
父と共有する、静かな“間”だった。
クラリッサは胸の奥で言葉を温め、
やがてそっと父へと向き直った。
「……父上。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
エインズワース公爵――エドガーは、ほんのわずかに視線を娘へ向けた。
問いを促す、静かな合図。
「……婚約破棄を願い出たとき、父上は……なぜ反対しなかったのでしょうか」
問いが空に放たれた瞬間、
庭の空気がひんやりと澄んだ。
父はすぐには答えなかった。
揺れる白いバラ。
葉擦れの音。
わずかに冷たい風。
それらのすべてが、父の沈黙を支えるように存在した。
――本当は反対だったのか
――私が無理に押し切ってしまったのか
――娘として、父を悲しませたのではないか
胸の奥に沈ませていた疑問が、静かに浮かび上がる。
父は、ゆっくりと呼吸を整えた。
「……最初は、確かに恐れていた」
クラリッサは目を瞬く。
「お前が沈黙に縛られ、ただ“耐える側”に回るのではないか、と。
噂と同じ速さで心を曇らせ、誇りを見失うのではないか」
その言葉は厳しくも温かかった。
いつか父が言った「止まるな」という言葉を思い出す。
――あれは、こういう意味だったのだ。
クラリッサは指先をそっと組み合わせた。
胸が静かに震える。
「だが――お前は動いた」
父の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「ルーファス殿下を責めるためではなく、
マリアンヌ嬢に勝つためでもない。
ただ“自分の誇り”を守るために、
静かに、しかし決然と歩き出した」
クラリッサは胸の奥が熱くなるのを感じた。
父は、すべて見ていたのだ。
沈黙に沈むかに見えた娘が、自らの足で立ち上がった瞬間を。
風がひとしきり庭を渡り、白い花弁が揺れる。
「……ああいう動き方は、お前の母に似ている」
クラリッサは顔を上げた。
隣に座る父は、わずかに視線を庭へ逸らしている。
「大声を上げず、誰を傷つけることもせず。
それでも、自分が正しいと思う選択だけを置く。
あの人は、そういう人だった」
母・エリザベラの姿が、言葉の中に静かに立ち上がる。
覚えていないのに――胸が震えた。
父はゆっくりと息を吐く。
「……お前の考えを聞いたとき、私は確信した。
これは“誰かを倒すための決断”ではなく、
“お前自身を守るための選択”だと」
クラリッサの喉がかすかに震えた。
私が私であるために下した決断――
それを、父は見届けてくれていた。
「だから私は――反対しなかった」
クラリッサは、はっと息をのみ、父を見つめる。
反対“できなかった”ではなく――
反対“しなかった”。
そこに、父の確かな意志があった。
父はゆっくりと娘へ顔を向ける。
朝の光が、彼の横顔をかすかに照らした。
「いや……正確には、嬉しかったのだ」
クラリッサの瞳が揺れた。
「娘が、誇りを理由に、自ら立ったことが。
そして、母の面影が確かに息づいていたことが」
父の声は、いつもと変わらぬ深さでありながら、
その底に“温度”があった。
「……お前は間違いなく、私とエリザベラの娘だ」
クラリッサは目を閉じた。
胸が熱く、そして静かに満たされていく。
風が吹き、白いバラがそっと揺れる。
誇りは、たしかに受け継がれていた。
母から――そして父から。
静かで、揺るぎない“誠実”として。
――fin.
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