婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。

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After 5. 距離が揺れる、春の庭で

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季節は巡り、今日は、王宮で近隣諸国からの使節団を迎える「使節懇談の茶会」が開かれる日だった。
新たな統治理念を示す場として、誠実の庭が会場に選ばれている。

その朝、庭はいつもより少しだけ落ち着かない空気に包まれていた。

クラリッサは手袋を外し、指先でそっと若葉の縁をたどる。淡い緑の葉は、まだ頼りなく震えているのに、そこから立ちのぼる香りはもう、きちんと庭の一部になっていた。

この庭が、国の新しい理念を象徴する場所になる。

そう思うと、胸の奥にひとつ、ひやりとした緊張が沈んだ。

「……冷えていませんか、クラリッサ様」

背後からかけられた声に振り向くと、そこにはいつもの落ち着いた灰色の瞳があった。
セドリック・ハーランド。宰相の息子であり、今や多くの法案に関わる若き要石。

「陽は出ていますから、大丈夫ですわ」

クラリッサは、庭に差し込む光を見上げて微笑んだ。
薄雲越しの陽射しは柔らかく、花壇の縁を白く縁取っている。

その光景は、不思議と心を落ち着かせてくれた。

「冷えていないのなら、それはそれで心配ですね」

セドリックは、少しだけ肩をすくめてみせる。

「緊張で、感覚が鈍っているのかもしれませんから」

「……そんなに、わたくしを心配なさるほどの場でもありませんわよ?」

「シャーロット殿下が掲げる新しい統治理念を、初めて公式にお披露目する茶会です。
 その場で、理念を一番美しく説明できるのは誰かと問われれば――」

彼はそこまで言って、言葉を切った。
クラリッサが視線で続きを促すと、セドリックは小さく笑う。

「エインズワース公爵家のご令嬢しか、いないでしょう」

「お上手ですこと」

頬が、ほんの少しだけ熱を帯びる。
それを悟られまいと、クラリッサは視線を庭の奥へ向けた。

誠実の庭には、まだ蕾のままの花も多い。
咲ききっていないものばかりのこの庭を、新しい理念の象徴と呼んだのは、シャーロット王女だ。

――誠実は、咲き誇る花ではなく、根を張り続けるものだから。

そう語った王女の横顔が、ふと脳裏に浮かぶ。

「……では、わたくしは、蕾たちの代弁者として、努めを果たさなくてはなりませんわね」

「代弁者は、あまり自分を削らないように」

セドリックの声は冗談めいていたが、その眼差しは真剣だった。

クラリッサは返事の代わりに、わずかに首を傾げて笑う。
その笑みが、自分で思うよりも張り詰めていたことに気づいたのは、ずっと後のことだった。


◇◇◇


使節懇談会の会場は、誠実の庭に面した回廊を仕立て直したものだった。
磨き上げられた大理石の床に、陽光が淡く反射する。テーブルには各国の菓子が並び、香りの違う茶葉がいくつも用意されている。

クラリッサは、王女の側で控えながら、招かれた貴族と使節団の顔ぶれを静かに観察していた。

「本日は、我が王国の新たな礎となる理念――『信義と理解による統治』を、皆さまと共に分かち合えることを、嬉しく思います」

シャーロット王女の声は、よく通るが、決して耳を刺さない。
柔らかい蜂蜜のように場に広がり、緊張を少しずつ溶かしていく。

クラリッサは、その言葉の選び方に心の中でうなずきながら、必要なときには補足の説明に入れるよう構えていた。

茶会が進み、各国の代表がそれぞれの国の統治方法を紹介し合ううちに、話題は自然と「誠実」という言葉に集まっていった。

「なるほど、“信義と理解”ですか」

グラスを指でなぞりながら、ある貴族が口を開いた。

「我が国で“誠実”と申せば、王家への揺るぎない忠誠を指しますが……殿下のお言葉ですと、もう少し柔らかなもののように聞こえますな」

「我が国では、“誠実”は契約の絶対性を意味することが多い」

隣国の使節が続ける。

「約束を違えないこと、それが誠実の証とされております。
 しかし、先ほどの説明では、“沈黙をも尊重する”と……」

そこで、彼は少し困ったように眉を寄せた。

「……沈黙を、どう誠実さと結びつけるのか、正直、腑に落ちておりませんで」

場の空気が、ごくわずかに揺れた。

王女の視線が、自然な動きでクラリッサに向く。

クラリッサは、胸の奥で一度だけ息を整え、前に出た。

「ご質問、ありがとうございます。少し、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」

彼女の声は、庭を渡る風よりも静かだったが、はっきりと聞こえた。

「この国でいう“誠実”は、ただ約束を守ることだけを指しません。
 約束を交わすまでに、“何を望み、何に怯え、何を黙っているのか”を、互いに確かめようとする姿勢も含めております」

使節が首をかしげる。
クラリッサは、その仕草すら丁寧に受け止めるように微笑んだ。

「誰もが、すべてを言葉にできるわけではありません。普段は口にしない不安や、言葉にした途端に壊れてしまいそうな願いもございます」

一瞬、ルーファスの横顔が脳裏をかすめる。

彼が最後まで言葉にしなかった迷いと、マリアンヌが叫ぶように語った理想。
その両方を思い出し、クラリッサは静かに続けた。

「その沈黙ごと相手として受け止めたうえで、交わした約束であれば――たとえ時が経ち、状況が変わっても、互いに納得できるのではないかと。
 私どもは、そうした“誠実”を大切にしたいのです」

一瞬、場が深く沈黙した。
庭を渡る風の音と、茶器がかすかに触れ合う音だけが聞こえる。

その沈黙を破ったのは、思いのほか柔らかな笑い声だった。

「……なるほど。沈黙もまた、約束の一部、というわけですな」

先ほどの貴族が、ゆっくりとうなずく。

「口にされた言葉だけではなく、口にされなかったものまで含めて、相手を見ようとする。
 それならば、揺らぎのない“忠誠”というより、むしろ深い“敬意”のようですな」

「敬意、ですか」

クラリッサは、その言葉を胸の中で繰り返す。
それは、彼女がこの国に求めてきたものに、とても近かった。

「ええ。そして、敬意を前提にした約束ならば、たとえ見直しが必要になっても、“裏切り”ではなく“話し合い”でいられますな」

その言葉を受けて、横から静かな声が重なった。

「条文上の整理について、少しだけ補足をよろしいでしょうか」

セドリックだった。
王女の軽い頷きを受けて、彼は一歩前に出る。

「新法第七条に、“相手の立場を理解しようと努めたうえでの条件変更は、誠実義務違反とはみなさない”という規定があります。
 これは、エインズワース家のご令嬢がおっしゃった“沈黙を尊重する”姿勢と、密接につながっております」

彼の説明は、理路整然としているのに、どこか温度があった。
クラリッサは横目でそれを見ながら、胸の中でだけ小さく笑う。

条文と理念。
冷たい文字と、温かい願い。

それらを橋渡しするのが、彼なのだと改めて思う。

やがて場の空気は、先ほどより柔らかく変わっていった。

「誠実」という言葉は、それぞれの国で少しずつ違う形を持ちながらも――今日この場では、ひとつの庭の景色として結ばれたように思えた。


◇◇◇
 

茶会が終わり、招待客たちがそれぞれの馬車へと乗り込んだ後の回廊は、驚くほど静かだった。
さっきまでの喧噪が嘘のように消え、残っているのは甘いお茶の香りと、どこか疲れのにじむ沈黙だけ。

「……ふう」

クラリッサは、誰にも聞こえないほど小さなため息をこぼした。

足元が、ほんの少しだけ重い。

一日中、笑顔と丁寧な言葉を保ち続けたせいだろうか。

ふらつき、視界がわずかに揺れたとき、腕を支える感触があった。

「危ない」

セドリックの手が、彼女の肘を支えていた。
その力は強すぎず、けれど確かに、彼女を立たせている。

「……申し訳ございません。少し、足にきただけですわ」

「足にくるほど、今日は働きすぎたということです」

セドリックの声は責めるようでいて、どこか呆れたようでもあった。
クラリッサは、咄嗟に姿勢を正す。

「エインズワース家の者として、当然の務めを果たしたまでです」

「務めを果たすことと、ご自身をすり減らすことは、別の話ですよ」 

淡々とした口調だったが、その瞳には明らかな心配が浮かんでいる。

「クラリッサ様は、いつもご自分のことを後回しにされますね」
 
「……そうでしょうか」

「今日だって、場を保つために誰よりも気を配っていました。
 表に出ない気遣いこそ、疲れは見えにくいものです。ですが、確かにあなたの中で積み重なっています。」

胸の奥を、そっと撫でられたような感触がした。
誰も気づかないはずの疲れに、ここまで言葉を向ける人がいるとは、昔の自分なら想像もしなかっただろう。

「周りの灯りを守るのは大切ですが、ご自身まで消耗させる必要はありません」

セドリックは、少しだけ手に力を込める。

「せめて、私の前では――少し休んでください」

その言葉は、叱責でも、甘い囁きでもなかった。
ただの事実として、彼の中では当然のようにそこにある。

だからこそ、クラリッサの胸に、まっすぐに届いた。

「……わたくしが休んでしまったら、誰が殿下の補佐を」

「王女殿下の補佐役なら、他にも育てましょう。時間はかかりますが」

冗談めかした口調に、思わず笑みがこぼれる。

笑ってみると、さっきまで張り詰めていたこめかみの重さが、少しだけ軽くなっていた。

「では、そのときまでは、セドリック様にもお力を借りることになりますわね」

「もちろん。私の務めですから」

その「務め」という言葉の中に、彼がどこまでの意味を含めているのか。
それを聞くには、今はまだ勇気が足りなかった。


◇◇◇


夕暮れが、誠実の庭を金色に染め始めていた。
茶会の後片付けもひと段落し、庭にはもう、人影はない。

クラリッサは、セドリックの勧めに従い、少しだけ外の空気を吸いに出ていた。

「ずいぶん静かになりましたわね」

「人がいなくなると、庭本来の音が戻ってきます」

セドリックの言う通り、耳を澄ませば、小さな音がいくつも重なっていた。

風が葉を揺らす音。土の上を小さな虫が走る音。遠くで噴水の水が石を打つ音。

騒がしさとは無縁の、穏やかな世界。

「こうしていると、今日のことが少し、夢のように思えてしまいますわ」

「夢のような懇談会、というのは悪くない評価ですね」

「悪くはありませんけれど……いざ終わってしまうと、何も残らなくて、少し寂しい気もします」

クラリッサは、まだ蕾のままの枝に視線を落とす。
この花が咲く頃には、今日のことも、歴史の一行として語られるのだろうか。
自分が選んだ言葉たちも、その中に紛れ込んでいるのだろうか。

「夢のようでも、跡は残りますよ」

セドリックが、隣で小さく呟いた。

「今日、ここで交わされた説明や対話が、後の条約文に形を変えます。
 あなたが選んだ言葉は、この庭と同じように、根を張り続けるはずです」

「……それは、すてきな考えですね」

ひとつ息を吐くと、胸の奥の緊張が、少しずつほぐれていくのがわかった。

風が髪を揺らし、頬に触れる。
そのささやかな感触すら、今日はありがたく感じられた。

しばらく、二人は並んで歩いた。
言葉を交わさなくても、不思議と居心地が悪くない沈黙だった。

「クラリッサ様」

沈黙を破ったのは、セドリックのほうだった。

「先ほど、使節団の前で話された“沈黙も含めて相手を見る”という考え方ですが」

「はい」

「……あれは、国の話だけではないのではと思いまして」

クラリッサは足を止めた。
夕陽が、彼の横顔を斜めに照らしている。
その光の中で、灰色の瞳がわずかに柔らかくなったように見えた。

「人と人との関係も、同じだと思います」

セドリックは続ける。

「言葉にならない疲れや、不安や、迷い。
 それを“無かったこと”にせず、そのままの形で隣に置いておく。
 そうして初めて、互いにとって納得のいく約束ができるのではないかと」

「……難しいことを仰いますわね」

クラリッサは、思わず小さく笑ってしまった。
難しい。けれど、嫌いではない考え方だ。

「セドリック様は、人の沈黙も、約束の一部として受け止めようとなさるのですか」

「少なくとも、あなたの沈黙なら」

その言葉に、胸が跳ねた。

「クラリッサ様が、言葉にしないものまで含めて、隣にいるつもりです」

風が止んだように感じられた。

本当は、風はまだ庭を渡っている。葉の擦れ合う音も、噴水の音も、変わらず響いている。

それでも、クラリッサの世界は一瞬、その言葉だけに満たされた。

「……それは、とても」

言葉が、喉でつかえた。

自分でも意外なほど、簡単な返事が出てこない。

嬉しい。ありがたい。心強い。

どの言葉も、足りないような気がした。

「光栄なことですわ」

ようやく絞り出した言葉は、そんなありふれたものだった。
けれど、セドリックは満足そうに頷いた。

「では、その“光栄”を糧に、これからも厚かましく隣を歩かせていただきます」

「厚かましいと自覚なさっている方を、どう扱えばよいのか悩みますわね」

今度は、クラリッサのほうから冗談を返す。
二人の間に、ささやかな笑いが生まれた。

その笑い声は、誠実の庭に溶けていく。
今日一日、国のために選び抜いた言葉たちとは違う。
たった一人の誰かと分かち合うためだけの、小さな音。

クラリッサは、ふと自分の足元を見下ろした。

自分の影と、セドリックの影が、夕陽に伸ばされて重なり合っている。

まだ完全に重なるには距離がある。
けれど、それは確かに、同じ方向へ伸びていた。

「セドリック様」

「はい」

「わたくし、きっと……これからも、言葉を探すのに時間がかかると思います」

「ええ」

その即答に、思わず笑ってしまう。

「ですが、その時間すら、大切にしていただけるのなら――」

クラリッサは、ほんの少しだけ彼のほうへ身体を向けた。

「わたくしも、あなたの隣で、それを探してみたいと思います」

セドリックは、一瞬だけ目を見開き、それから静かに微笑んだ。

「でしたら、これからも、いくらでもお付き合いしましょう」

そう言って差し出された手は、礼儀としてはわずかに近すぎた。
けれど、失礼と断じるほどではない、ぎりぎりの距離でもあった。

クラリッサは、迷いながらも、その手に自分の手を重ねる。
手袋越しに伝わる体温が、夕暮れの空気よりも確かだった。

二人は、そのまま庭の小道を歩き始めた。

沈黙は、相変わらずそこにある。
だが、それはもはや、埋めなければならない隙間ではない。
共に歩くために、静かに寄り添う余白だった。

誠実の庭の蕾たちは、まだ固く閉じている。

けれど、いつか彼らが咲き誇る頃。

今日、ここで交わされた小さな言葉と沈黙が、その根元に残っていることを、クラリッサはどこかで確信していた。
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