婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。

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After 6. 王女は静けさに恋を問う

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夜の王城は、日中とはまったく違う顔を見せる。
昼間は絶えず人が行き交い、紙束と足音が混ざり合う場所だが、日が落ちるとその喧騒は一斉に消え、静けさが深く降りてくる。

クラリッサは、両手で抱えた書類の束が少し重いと感じながら、王女の執務室へ向かって歩いていた。

回廊には、灯されたランプの黄金色の光が揺れている。
石造りの壁に映るその影は、まるで誰かの息遣いのようにゆらめき、遅い時間に働く者たちへ「まだ起きているの?」と問いかけているようだった。

今夜は、シャーロット王女が明日の政務に備えて必要な文書をまとめていると聞いた。
昼間は使節懇談の茶会があったため、政務の進行も大幅に後ろ倒しになっている。
クラリッサは、その補佐として必要な文書を揃えて急いで届けていた。

「……あまり無理をされていないといいのですが」

思わず呟く。

シャーロットは、昼間の茶会でも、疲れひとつ見せず、諸国の要人へ丁寧に応対していた。
王女である以上、疲労を誰に見せることもできない。

けれど、夜の執務室となれば、別だろう。
クラリッサは足を速めた。


◇◇◇


執務室の扉をノックすると、すぐに返事が返ってきた。

「どうぞ」

控えめな声だったが、どこか張り詰めている。
クラリッサはそっと扉を開けた。

部屋の中は、暖炉の火が柔らかく揺れ、じんわりと温かい。
だが、その温かさとは裏腹に、机の上には紙の山が築かれていた。

シャーロットは、その真ん中で羽ペンを走らせていた。

「クラリッサ。助かるわ、その文書」

王女は手を止め、少しだけ肩を回した。

「殿下こそ……お疲れではありませんか?」

「疲れてないと言ったら嘘になるわね。でも、“疲れた”と言っても、誰も政務を代わってくれないもの」

王女らしい、明るい皮肉だった。
だが、表情に浮かぶわずかな影は、クラリッサの胸をきゅうと掴む。

「せめて、紅茶の追加をお持ちしましょうか」

「お願い。それと蜂蜜をひと匙。……甘いものがほしくて」

クラリッサは微笑んで頷き、手早く紅茶を淹れた。
蜂蜜がカップに溶けていくと、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。
その香りに、クラリッサ自身も少し肩の力が抜けた。

「あなたが淹れてくれる紅茶って、ふしぎと安心するのよね」

「恐れ多いお言葉ですわ」

王女は紅茶を一口飲み、ほう、と息を吐いた。
その横顔は、やっと人心地ついたように見える。

「……今日の使節懇談会、助かったわ。場がとても穏やかだったのは、クラリッサのおかげね」

「務めを果たしたまでです」

「あなたはいつも、そう言うのね」

シャーロットは、半ば呆れたようにクラリッサを見る。

「“務め”だけで、あそこまで丁寧に言葉を選べる人なんて、そうはいないわよ?」

クラリッサは言葉を返せず、黙って微笑むしかなかった。

そのとき、王女の視線が、一枚の封書へと落ちる。
淡い青色の封筒――ルーファスが修道院から送ってきた手紙だった。

クラリッサの胸が、わずかにざわつく。
それを察したのか、シャーロットが軽く微笑んだ。

「気にしなくていいのよ。読んでみただけ。返事はもう書いたわ」

「……殿下は、ルーファス様の手紙を、どのようにお感じに?」

シャーロットは紅茶のカップを両手で包み込み、静かに答えた。

「そうね……昔のお兄様はきっと、“まだ自分を語れていない人”だったのだと思ったわ」

クラリッサは、息を飲んだ。

「語れない沈黙を抱えたまま、誰かの理想にすがってしまった。
 それはお兄様の弱さであり、罪でもあるわ。……でもね」

シャーロットはカップを伏せ、まっすぐにクラリッサを見つめた。

「その弱さに振り回されたあなたが、罪悪感を持つ必要は、これっぽっちもないのよ」

静けさが、部屋を満たした。
暖炉の薪がぱちりと弾ける音が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。

「あなたが何を気にしているのかは想像がつくけれど、そもそも誠実を裏切ったのはお兄様のほう。
 クラリッサ、あなたは“裏切られた側”なのよ。
 それなのに、どうしてあなたが後ろめたくなるの?」

「……それは……」

言葉が続かなかった。
自分が傷ついたと認めることを、ずっと避けていたからだ。

シャーロットは、その沈黙すら責めない。
むしろ――そっと寄り添うように言葉を重ねた。

「だからね、“選び続ける誠実”というあなたの在り方は、誰よりも胸を張っていいことなのよ。
 選ぶ相手が変わったっていい。あなたが、あなたらしくあるのがとても大切なこと」

「……殿下」

「それにね?」

シャーロットは、いたずらっぽく微笑んだ。
その表情は、政治の重責を担う王女というより、クラリッサの友人そのものだった。

「もし、あなたがセドリックと手を取り合いたいと思っているのなら……私は、未来の女王としても友人としても、全力で応援するわ」

言葉を飲み込んだのは、クラリッサだった。

胸の奥がぽっと熱くなる。

「な、何も……そのようなことは……」

「あるでしょう? 顔に書いてあるわ」

「か、書いておりません!」

「いいえ、はっきり書いてある。“その方の隣は、落ち着く”って」

クラリッサは、紅茶のカップを両手で掴んだ。

自分の心がこんなにも見透かされていたとは思わなかった。
恥ずかしい。けれど、それ以上に――ほんの少しだけ、嬉しい。

シャーロットは、カップを軽く揺らした。

「ねぇ、クラリッサ。
 あなたはお兄様と過ごした時間より、今、セドリックと話しているときのほうが、ずっと自然でしょう?」

「…………否定は、できません」

「でしょ?」

満足げに頷く王女。

「誠実とは“選び続けること”でしょう?
 あなたの誠実は、何ひとつ揺らいでいないわ。
 むしろ――あなたが再び誰かを信じようとしていることが、私はとても誇らしいの」

胸の奥に、自然と温かいものが広がっていく。
クラリッサは、そっと息を吸った。

「殿下……わたくし、自分のことを、どう扱うべきか……ずっと迷っていました」

「迷っていいのよ。迷いながら進むのが誠実なんだから」

シャーロットはそう言って、すこしだけ視線を柔らかくした。

「でもね、クラリッサ。
 ひとつだけ確かに言えることがあるわ」

王女は、彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。

「あなたはもう、“あの日の婚約者”じゃない。
 あなたは、あなた自身として選び直していいの。
 誰かを。“これから”を」

沈黙が、ふたりの間に落ちた。

けれど、それは不安な沈黙ではない。
まるで、胸の奥に用意された小さな休息のようだった。

クラリッサは、ゆっくりと頷いた。

「……わたくし、自分の言葉で、選んでみたいと思います」

「ええ、そうして。
 そして――誰を選ぶのか、楽しみにしているわ」

その言葉に、クラリッサは耐えきれず目を逸らした。
頬に、ほんの少し熱が集まっていく。

シャーロットは、その反応だけで十分満足したように、ふふっと笑う。

「さて、政務に戻らないと。夜明け前には寝たいもの」

「それは……ぜひ、そうなさってくださいませ」

「ええ、努力するわ。あなたが応援してくれるなら」

クラリッサは、つい微笑んでしまった。
この王女の前では、不思議と肩の力が抜ける。

「もちろんです、殿下。
 わたくしも――選び続ける誠実を、忘れませんわ」

シャーロットは満足げに頷き、再び羽ペンを取った。

クラリッサは、静かに執務室を下がる。

廊下に出た瞬間、胸の奥の迷いが少しだけ晴れたことに気づいた。

夜の冷たい空気が頬に触れる。
しかしその冷たさは、不思議と心地よい。

――自分は、もう後ろを見ているだけの人間ではない。

シャーロットの言葉が、胸の奥で繰り返し響く。

そして気づく。

その言葉に支えられて、自分はついに“前を見てもいい”と思えたのだ、と。

クラリッサは小さく息を吸い、歩き出した。

まっすぐに、明日へ向かうために。
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