天使の愛人

野洲たか

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2、一生モノの密かな勲章

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 窪田拓斗を紹介されたのは、十一年前の八月の終わりだった。彼は十九歳になったばかりで、わたしは四つ年上の二十三歳だった。
 六本木の国立新美術館の近くの雑居ビルの二階に『アッサンブラージュ』というモデル事務所があり、わたしはそこと専属契約して、一週間に二日くらい働いていた。
 働いていたといっても、雑誌や広告の仕事ではない。指定された時間に指定された高級ホテルへ向かい、クラブメンバーと呼ばれる客と関係を持ったのだ。
 家庭の事情で中学しか卒業していなかったわたしが、毎月五十万円も稼いで、高知の母親に結構な額の仕送りをしていた。どんな仕事をしているのか、聞かれたことはなかった。たぶん、知りたくなかったのだろう。

 ある熱帯夜、ホテル石榴荘のガーデンスイートに呼び出されると、そこには黒ぶちの伊達メガネをかけた、白いTシャツにジーンズの窪田拓斗がベッドに座っていた。

 連続ドラマや映画を観ていたから、ひと目で分かった。特にファンではなかったが、大袈裟ではない演技と甘くて端正なマスクにわたしは好感を抱いていた。

「ぼくのこと、知っていますか?」
 と拓斗が聞いた。
「もちろん」
 とわたしは微笑んだ。
「恥ずかしいな」
「誰にも言わないわ」
「女の人と寝るの、はじめてなんです。覚えておきたいから、名前を教えてください」
「本名を知りたいの?」
「嫌じゃなければ…」
「平林もえぎ」

 あの時、拓斗も本名を教えてくれたけれど、わたしは忘れてしまった。それは、日本人の名前ではなかった。

 はじめてなのに、誰に習ったわけでもないのに、彼はお世辞抜きに上手だった。わたしの呼吸やら鼓動のリズムに合わせるように、丁寧に我慢強く動いて、どんどん高いところに連れていき、何度も急降下させてくれた。

 ……正直、その最中、わたしは仕事なのだということを忘れてしまっていた。

 翌日、恵比寿のアトレの書店で、窪田拓斗の写真集を買った。『ミカエル』というタイトルで、ニューカレドニアのヌメアにあるビーチやリゾートホテルで撮影されていた。光と影の加減を巧みに計算してレタッチされた彼の美しく凛々しい表情は、確かに、大理石で彫られた大天使のようだった。

 今でも時折思い出して急に嬉しくなり、胸が熱くなることがある。決して他人に話したりはしないけれど、わたしはあの窪田拓斗の最初の女なのだ……プロフィールを見て指名してくれたはずだから……そのことは、一生モノの密かな勲章だった。


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