天使の愛人

野洲たか

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3、どうしようもない、上が決めたことだ。

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 あの晩から二週間、わたしは事務所からの依頼を断り続けた。心地よい、奇跡のような夢から醒めたくなかったから。

 その月の仕送りが出来なくなったが…一生懸命に働いてきたのだ、これくらいは許されるだろう、と自分に言い聞かせた。

 新宿三丁目で、窪田拓斗が主演の映画を上映していて、三回も観に行った。

 芥川龍之介の『杜子春』を現代風にした作品で、

「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです」

 という最後のセリフが特に印象的だった。

 三週間が過ぎ、遂に、わたしはディレクターの三浦さんから呼び出された。

「一方的で申し訳ないのだが…」

 応接室のソファに座った巨漢の彼は、そこでチェリーコークの缶を開け、ひと口だけ飲んだ。派手な黄色いアロハシャツを着ていたが、中世のキリスト像みたいに憂鬱な表情をしていた。

「本日限りで、きみとの雇用契約を解除させてもらう。給与の未払金は現金清算。規定通り、退職金は出ない」

 …わたしは驚いた。

「そんな…急に困ります」

「こちらだって困っている。大打撃さ。きみの固定客は少なくないのだからね」

「だったら、どうしてですか?長い休みをとったから?」

「そんなことは、なんでもないよ」

「重大な違反でもしたの?」

 黙ったまま、彼は首を横に振った。

「お願いです、続けさせてください」

「どうしようもない、上が決めたことだ」

 普通預金が百二十万円残っていたが、それくらい、すぐに無くなってしまうだろう。

 代官山の十三万円の家賃は馬鹿にならないから、引っ越すべきかもしれない。母親からだって頼りにされている。すぐに新しい勤め先を探さなければ…新聞の求人欄にあるような、まともな仕事では無理だ。わたしなんかを雇ってくれるはずがないし…

『アッサンブラージュ』を斡旋してくれた蒲田の安田さんに電話をしてみたら、お父さんは刑務所に入っていますと小さな男の子に言われ、ぞっとしてしまった。





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