天使の愛人

野洲たか

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4、決して不利益な話ではありません。

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 アドレス帳のAからFまでの番号にかけて、わたしは何処にもたどり着けないのだとすぐに理解した。そもそも、有力な人脈なんてなかった。

 あのころは苦手だったのだ…いつか利用できるかもしれない…そんなふうに考えながら他人と付き合うことが。

 毎日、何もする気が起こらなくて、誰にも会わなくて、十四時間くらいは睡眠をとった。食事もいい加減で、牛乳とあんパンばかりだった。

 だから、ある晴れた日の午後、その長い銀髪をひとつに結んだハンサムな老人がアパートの旧式のドアベルを鳴らしたときも、もう三時だというのに…わたしは素っ裸でベッドの中にいたのだった。

「どちらさまですか?」

 ロングのダンガリーシャツだけ着て、わたしは玄関から眠そうな顔を出した。

 すると、彼はやさしい声で初めましてと言い、厚手の銀色の名刺をそっと差しだした。

 …アルマーニの丸くて青いサングラス、シャネルの黒いTシャツ、砂漠色の麻の短パン、茶色い革のサンダルという格好だった。

 サンデー・コミュニケーション株式会社
 代表取締役社長
 サンデー湯河

 …そして、裏面には、

 ー所属俳優ー
 牧ミツル
 窪田拓斗
 篠沢あや(グループ業務提携)
 と表記されてあった。


「平林もえぎさんだね。このあいだは、うちの拓斗が大変お世話になりました」

 と彼は笑顔で握手を求めてきた。

「どうして、ここが?」

 警戒して、わたしは握手を躊躇った。

「怖がらないで。きょうは、きみにビジネスの話があって来ました」

 彼は慌てて手を引っ込め、短パンのポケットに入れた。

「理由はなんであれ…こういうの…すごく困ります」

 わたしは抗議しながら、顔が赤くなった。

「申し訳ないが、きみのことを勝手に調べました。しかし、決して不利益な話ではありません。むしろ、喜んでもらえると思う。下にレクサスを待たせてあるから、とにかく着替えていらっしゃい。ドライブしながら、きちんと話しましょう」

 昭和通りを走るレクサスの後部座席で、缶のペリエを飲みながら、サンデー湯河は信じられないようなことを語った。

 …白いスーツを着た四十歳くらいの美人の運転手は、無表情なままでひと言も声を発さなかった。

「月額70万円(秘密厳守)で、きみと紙の契約書無しの契約を結びたいのです。契約期間は、お互いが同意出来ている限り続ける。

 毎週水曜日の日暮れから夜明けまで、ホテル石榴荘の同じ部屋に通って、拓斗の相手をしてほしい…もちろん、拓斗が行けないこともあるし、きみだってやむを得ない事情があるだろう。その時は、チーフマネージャーと連絡を取りあってください。

 それから、さっきのアパートは引き払い、汐留にある事務所名義のタワーマンションに引っ越してほしい。きっと気にいるはず。43階の最上階、90平米の3LDK、共用スペースには屋内プールやトレーニングジム、ライブラリーもある。領収書さえ提出してくれれば、家賃や光熱費、家具、諸経費はこちらですべて負担します」





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